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新学期が始まった。気付けば終わっていた始業式の何かを思い出そうとしながら、講堂から出て行く生徒の波に押されるようにして教室へ戻る。すぐにユキと顔を合わせ、そして殆ど同時に首を振った。
「結構見回してみたんだけどね」
「私は入り口に立ってたんだけど、全然」
「うーん、今日もか」
コンクール翌日は休日で、それを挟んだ月曜日の部活動。
その時から、可奈子は居なかった。最初は体調でも崩したのだろうという事で流していたのだが、南教諭に一応問い合わせてみてもそうした連絡は無いという。無論、可奈子が本当に体調を崩しているだけだとして、あの家から細やかに連絡が来るとは壱には到底思えなかった。電話の取次ぎすらさせてもらえなかった過去を鑑みても、可奈子にとっては住み易い環境では決して無いと言い切っても良い。
「なんであいつは携帯持たないかなぁ……」
「持たせてもらえないんだよ」
「え?」
ユキが怪訝な顔をするが、壱は首を振るに留めた。可奈子の何もかもをここで話す、というわけにもいかないだろう。
がらりと大きな音と共に新田教諭が入ってきた。ちょっと目が合い、そしてすぐに逸れる。
「よし静かにしろ。課題忘れてきたやつは今のうちに言え、パンチ一発で許してやる」
教室の方々から小さな笑い。だが壱は、流石に笑ってもいられなかった。
「特に連絡は無し。夏休み中に病気貰ったやつも居ないだろうな? まあ気になるやつは後で来い、いい病院紹介してやる。以上」
そんな下品な話を絡めながら、新田教諭の新学期の挨拶は終わった。起立、礼の声に慌てて立ち上がり倣うと、新田教諭は壱をじっと見てから、顎をしゃくった。来いという事だろう。
「若菜や咲ちゃんにはなんて言おう?」
「嘘ついても仕方ないしね。来てないと言うしかないんじゃないかな」
「そうだよねえ……」
溜息交じりのユキに小さく手を上げ、それから壱は鞄を掴んで喫煙所へ向かった。行くと、既に1本目をもみ消している新田教諭がすぐに目に入る。
「連絡はつかなかった」
そして新田教諭は、ただそう言ったのみだった。肩が落ちそうになるのをなんとか堪えて、頷く。
「そうですか。本当に何があったんだか」
「そもそも、本人と話すらさせようとしない。今は不在だとか、就寝中だとかでな」
「怪しい事この上ないっすね」
「だろう。ただほら、あまりにも家庭に突っ込んだ事が出来ない辺り、俺らの限界でな」
「解ります」
「となると、学友の出番だろう」
壱も、それしかないだろうと思っていた。元より、彼女の為になるならば、最早なんでもやるつもりですらいる。愛情だとかそういうものは抜きにして、今正に自由の効かない身になっているかも知れない鶴岡可奈子をなんとかしてやりたいとだけ考えているのだ。桐田咲らしく言えば、「そうしたいからする」というやつである。
「住所を」
「ここだ」
「どうも」
短い言葉のやり取りで済んでしまう辺り、新田教諭も実に呼吸の読める人間と言える。
メモ帳の切れ端を受け取ると、住所と簡単な地図が書いてあった。意外にというと無礼ではあるが、綺麗なものである。
「いきなり行っても無駄かも知れないけどな」
「でも行くだけはしてみますよ」
「そうしろ。変に入り込み過ぎて拗れそうになったら俺の名前を出していい。仕方なく来た、ってな」
「でもそれは先生にとっては」
「いいんだよ。残念ながらこの学校は簡単に俺を放逐は出来んのだ」
根拠は解らなかったがとにかく凄い自信で新田教諭はそう言い切った。尊敬せざるを得ない。
「凄いっすね!」
「だろう。ともあれ、別に今日でなくてもいいが、これはお前に任せたい。どうだ?」
「勿論です」
「いい返事だ。そんなに鶴岡に惚れたか」
「まあその辺の整理はしてませんけど、好きな子である事だけは確かです」
「いいねえ、期待してるぞ」
言いながらまた煙草に火を点けた新田教諭に追い払うような仕草をされ、頭を下げてから退出した。
帰途につき、状況の整理から入った。
まずもって、可奈子の言はおかしなものが多かったのだ。コンクールを目前にして、来られないかも知れないというような事を仄めかしてみたり、何か今のうちに言わなければならない事のように壱に感謝を伝えてきたりと、雑に言えば彼女らしいものではなかった。
そして壱は、可奈子が今尚暴行を受けている事を、知っている。その証も、かつて見せられた。間違いなくそれに関連する理由で、彼女は家から出て来れないのだ。
だから、今壱がのこのこと出向いても引き合わせられるとは考え辛い。屋内に閉じ込めての虐待というのは壱の経験にもある所だが、これは世間というものと関与の薄い人間がやるのでなければ危険な行為と言っていい。周囲が、虐待の対象が長期にわたって不在になることを怪しむからである。現に、可奈子の不在は吹奏楽部を始めとして異常事態として認識されている。
かといって、真っ当な理由ではないのだろう。本当に病床にあるのであれば、これは学校へ連絡をしてしまえばいい事である。鶴岡の人間としても、何度も学校から不登校の理由を問い質される事になるのを好き好みはしない筈だ。
可奈子自身の意思で家から出て来ない可能性も、勿論あった。彼女は何度か、自分が暴行を受けるのは仕方の無い事であるように語った過去がある。父には、そうする理由があるのだと。
そんなもので何か酌量が発生する程壱の頭は緩くないのだが、拓もかつて口にしていたように、可奈子が虐待を受け入れてしまっているというのであれば、これを正すというのは非常に難しい。
気付くと自宅に辿り着いていた。鍵を開け、中へ入り、扇風機のスイッチを入れた。暑さを感じない程に考え込んでいたのか、殆ど汗すらかいていない自分に驚きつつ、着替えを済ませる。手には、鶴岡邸の住所の書かれた紙。
ポケットから携帯電話を取り出した。時刻は昼過ぎという最も忙しい時間帯だったが、壱は躊躇わずに拓の電話番号を呼び出してコール。4つ程待って繋がった。
「忙しいんだよ俺は!」
「わ、悪かったよ」
第一声で怒られるとは思っていなかったのでかなり驚かされたが、とにかく落ち着く事にする。
「拓さん、鶴岡可奈子の事なんだ。かなり大きな問題」
「何……待ってろ、ちょっと場所動くから」
言うなり、がたがたと物音をさせながら、拓は移動をしたらしい。なんだ、と素っ気無く促してきた。
「鶴岡さんがね、今学校を休んでるんだ。理由も無く、今日で10日以上になる」
「ふむ」
「風邪とかならそう連絡すればいいものを、これはどう考えてもおかしいよね。だからまあ、殴る蹴るされてんじゃないかと思ってるんだ」
言葉にすると、沸々と腹の底に怒りが沸いて来るのが解った。端的に、許せないと思い始めている。
「そんでまあ、一応相手方の住所も握った。行こうと思えば今からでも」
「成る程な。まあそれは待っとけ」
「うん、だから相談をしたいと思って」
「つってもな、俺は便利屋じゃないし、妙案なんかそうそう出せないぞ」
「いや、指針みたいなものでもいいんだ。いきなり警察を呼んでもいいもの?」
「それもどうかと思うぞ。今後も例の幼女に学校に通わせたいと思わないなら別だが」
「というと?」
「今日まで虐待を受けてた、敵の多い女の子なんてセンセーショナルな存在、いつまでも居座れると思うか」
「あ……そうか」
「いいか、当人だけを見るな。環境に目を配れ。取り急ぎ、接触だけはしてみる事だ。もう数日待ってからな」
「待つの?」
待てば、それだけ可奈子が暴行を受ける時間は長くなる。それを考えると、正直な所壱としては今すぐにでも乗り込みたいぐらいなのである。
「ああ、待て。ゆさぶりをかけるようなもんだと思え。とりあえず、同級生が様子を伺いに来た、みたいな石を投げてやればいいんだ。波紋がどのぐらい立つかは見て解らんけどな」
「成る程」
「かといって悠長すぎても駄目だしな……よし、明後日は土曜日だし、その帰りしなを狙え」
「わかった」
「そんでまた連絡しろ。最悪俺が行ってもいい」
「それは遠慮するよ。俺がなんとかやってみる」
「よく言ったな。よし、頑張れよ」
「ありがとう、助かったよ」
それで、通話は終わった。暫く液晶画面を眺めて、それからベッドへ体を横たえた。
里帰りをした時もそうだったが、可奈子の声が聞けない時間が長引きすぎると、壱はどこか調子が悪いような気分になってくるのだった。
土曜日になるまで、生涯経験した事が無い程に、壱の心は焦れ続けた。
そして土曜日になると、急激に落ち着きを取り戻し始めた。平常である間は、基本的にタフなメンタルらしい自分に感謝しつつ、既に通常日課となっている授業の終わりを待つ。
「黒沢君、今日から部活なんだけど」
終わると同時に鞄を掴んで飛び出そうとした壱に、ユキが慌てたように声をかけてきた。首だけで振り返る。
「あ、ごめん。今日はちょっと外せない用事があるから休む」
「開始初日なのに?」
「すまないねえ。皆には上手い事言っておくれ」
「世話の焼ける部長だわ全く」
「ユッキーは頼りになるな」
「はいはい、いいから行ってらっしゃい。来週は出んのよ」
「頑張るよ」
言い残して、壱は廊下を走り、登校口を突きぬけ、校庭を横切って道路へ出た。いつも可奈子だけが1人で別れていく道へ入り、手元の地図を確認しながら目的地へ急ぐ。
それまでひしめき合う様に並んでいた民家が途絶え、無闇に広い緑地が続いた後、背の高い木が並ぶエリアに入り込んだ。地図によれば、この辺りからが鶴岡の敷地という事になるらしい。すぐに大きな門が見えてくる。
インターホンがいくつか並んでいたので、表札に最も近いものを押した。すぐにマイクが繋がる。
「すみません。楠白高校の、鶴岡可奈子さんの同級生ですが」
自分でも驚くほど極めて平坦な口調で、そんな言葉が出た。
「可奈子さんは只今不在なのですが」
「そうなんですか。長く休まれているので、学校から様子を見に行けと言われたのですが」
「申し訳ありませんが」
「プリントを預かっているんですが、渡して貰えませんか?」
「それも私どもの一存では」
「ご家族の方ではないんですか」
「ええ、使用人です」
「そうですか、じゃあ今日はこれで」
「恐れ入ります」
事務的な会話に終始したが、得るものはあった。
まず第一に、可奈子は家に居ると見ていい。決して門より内側へ入れたがらない事がそれを物語っているようなものだ。そして、使用人すら巻き込んで可奈子を外へ出さないようにしている事もはっきりした。つまり今この家の中に、彼女を味方する人間は居ないという事になる。
暫くインターホンを睨みつけ、殴りつけそうになるのを堪えてから、壱は門に背を向けた。来た道を戻りながら木々の合間から覗く建物を眺めて歩く。あのどこかに居るかも知れない可奈子に、内心声をかけたようなつもりだった。




