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最初はチューバから。
サックスが乗ると、ユーフォニューム。低音から、或いはもの悲しいコードで進む、序盤。
淀んだ水をかき回すように、下の方から競り上がってくるベースパート。そこへ、上澄みが清水を取り戻すように被さって来る。2本のフルートは、それだけではいくらか力が弱いように思えるが、絶妙の間で織り成される併走がそれを感じさせない。
マリー・ゴールドの、原曲で言えば第一楽章に相当する。何かが大きく変わる予兆を孕んだ緩やかな展開は、聴取者も奏者をも焦らすように、少しずつ、しかし確実に膨れ上がっていく。目を向けると、ユキと若菜がちょっと目を合わせているのが解った。少し急ぎ始めていた若菜を、ユキが止めたといった所だろうか。気が逸るのは解るが、もう少し待とう、と心で訴えかける。
ゆっくりと、本当にじれったい音色の繋ぎに、観客席の顔も聊か素になってしまっているのが解った。まあ待てよ、と友人に語りかけるように、壱はほくそ笑んだ。
第二楽章へ滑り込むと、ここでチューバが1度消える。ユーフォニュームが高めのコースへ入り、フルートと共に明るく愉快な譜を描き始めた。サックスはそれを落ち着いて見上げるように下を行き、チューバが途中から再び太鼓持ちであるかのように3人を持ち上げる。バラバラに聴こえる5本の楽器だったが、それが瞬間集まり、そしてまた輪になって散っていくような様は、誰にも真似の出来るものではないだろう。4つの小節に1度必ず集合する点があるというのは、これは可奈子の可愛らしいセンスと言える。
南教諭はただ延々と、リズムを刻む。彼女もまた殆ど部活にこそ来なかったが譜面をよく見ていたのであろうと解るのは、流石に顧問といった所だろう。ぐっと跳ねるように伸びた指先に釣られるようにして、咲のフルートが大きく伸びやかに響き、それが終わると後を継ぐように可奈子が乗っていく。明るく愉快で、いくらかテンポの速くなった第二楽章部の締めで1度、南教諭は両手をゆっくり下げて全員の音量を抑えた。
第三楽章。
可奈子のフルートが、ともすれば甲高い程の音を出した。サックスとチューバがそれに弾みをつける。譜面を見れば誰もが吹き出すような16分音符の羅列を、可奈子は事も無げに、しかし情熱的に、叩いていく。指先は最早機械のように正確にキーを押さえていき、しかし全くぶれを見せない。目を瞑り、己の道をひた走る鶴岡可奈子は、嫌に成る程美しい。
咲が、それに負けじと追従し始めた。若菜が待っていたようにその少し下を行く。ユキと共に壱は地盤を固め続け、咲と可奈子の2人を走りやすくしてやる。そうすると、最大の見せ場とでも言うべき、シーソーのようなソロはもう目の前だった。
打楽器も無いのに、どん、というオーケストラヒットのような一撃が入ると、2つの横笛は小節ごとにお互いの技量を競い合うように、お互いの見せ場を奪い合うように、鮮烈で刺激的なソロを繰り返していく。
観客席がざわめいた。それ見たことか、と壱は内心舌を出す。
シーソーのまま、再び黙っていた3人が合流した。南教諭の指先もまた、忙しい程に指示を出してくる。ここまでまともな指揮法を持っていると思っていなかったが、成る程見事なものだった。彼女もまた、きちんと曲の意図を掴んでいる、というのが嬉しい。
そして第四楽章に繋がると、唐突に会場が静かになる。それまで五月蝿い程の音色の羅列だった者が、ロンド形式に則って、ともすれば粘つくようなフレーズの繰り返しへ切り替わった。
不意に、可奈子がアドリブを入れた。それと解る程大袈裟なものではなかったが、可奈子は壱に伺いを立てるようにそれまで閉じていた瞼を開け、こちらを見ていた。内心苦笑いをして、壱もまた小さく指先で遊ぶ。本番では許されない事なのだろうが、今はただ楽しく音楽をやりたかった。
壱の返答に満足したのか、可奈子はフルート越しに小さく微笑んでくれた。そんな事が、たまらなく嬉しく、つい調子に乗りかけた自分を抑えて、職務を真っ当する。
そして最後のフレーズは、集大成とでも呼ぶべき各楽章の最も印象的な箇所を取り上げたような4小節だった。最後の音をぎりぎりまで引き伸ばした南教諭が指先を閉じると、同時に5つの音は止む。
ほんの数秒だったのだろうが、耳に痛い程の静寂が過ぎ、そしてこれも耳が割れそうな程の拍手となって、ホールを埋め尽くした。中には指笛をふいてくる者も居て、或いは吹奏楽というよりもジャズバーでちょっと騒いだかのような様相になっている。
南教諭が観客席を向いて、頭を下げた。同時に5人も立ち、礼。更に大きくなる拍手。
舞台袖を抜け、ホールの外へ出ると、何故か急激に笑えてきた。それを抑えずに大声で笑って見せると、部員達もまた笑った。
「やったぞコラ!」
「あはは、なんかすっごい笑える、何これ」
「ほんとだ、どうしよ、ユキちゃんお腹痛いよわたし」
「ていうかお姉ちゃん指揮出来たんだねえ」
「ちょっと咲ちゃん酷くないそれ?」
笑いが何故か止まらない。ただ5人で合奏をしただけの、探せばいくらでも出てくる光景なのに、何故か面白くて仕方が無かった。最中もそうだったが、やり終えてあれだけの拍手を貰うと、笑いも一入である。
可奈子もまた珍しく、口元を緩ませていた。それを見て取ってか、咲が彼女に飛びつくようにしながら騒ぐ。
終わって見れば、こんなものだった。ほんの十数分の演奏なのである。それでも、何か大きなものを乗り越えたという気分が全員にあった。
御堂教諭が廊下を小走りに来て、やはり笑いながら全員の肩をばしばしと叩いて回った。
「凄いじゃないかお前達。ここまでやるとは思ってなかったよ。私は音楽は素人だけど、今まで聴いてた他の部なんか目じゃない」
「そりゃそうっすよ御堂さん。うちのお鶴さんが編曲して、この面子でやったんですから」
「うおお先輩ベタ褒めっすね」
「いやいや本当に。若菜嬢もやり遂げたら大した事無かったでしょ?」
「あ、ううん、今になって凄い指震えてるの」
「あはは、若菜弱っ」
「……なんか、テンション高いなお前達」
「ごめんなさいね御堂さん、なんか皆ハイになっちゃって」
そう言う南教諭もかみ殺さなければ漏れそうな笑いに埋まっている。
大成功だった。誰にでも、胸を張ってそう言える出来だった。
コンクールが終わると、一同は教師2人の奢りという事でファミリーレストランへ入っていた。
金賞こそ無かったものの、特別賞を受賞し、結果としても満足のいくものになったと言って良い。
「本当にお疲れ様ね、皆。良いもの聴かせてくれて有難う」
南教諭のそんな言葉に、全員が笑う。
食事をしながら、他校の演奏がどうであったとか、自分達の演奏のどこがどうだったとか、そんな話を繰り広げる。
「そういえば、先輩方アドリブしてましたよね?」
「お、いい耳してるな咲ちゃん」
「そうだったの?」
「お鶴さんが急に遊んで、目で「やらないと殺す」って言うもんだから」
「言ってないから」
不満を訴えながら、可奈子は壱の腕を抓る。あれだけ素早く正確にキーを押さえていくだけあって、指先での攻撃は結構痛い。
感心しながら若菜が口を開く。
「本番なのに余裕だったよねえ、2人は」
「余裕じゃなかったさ。ただ面白おかしくやってやろうと思っただけで。ねえお鶴さん」
「ん」
「その辺がうちらとの違いなのかねえ」
「まあこの2人はちょっと特別製だな」
御堂教諭のそんな括り方にまた笑いが出る。
やれば、やれるのだと曖昧な事を思った。他人との距離を取るのが難しいとか、衝突が怖いとか、そういうのは個人にとっての建前に過ぎない。大切なのは明るくあること、という桐田咲の言葉は、壱にとってそれこそ明るく差し込む光明のようなものだったと言っていい。
言葉の言い回しや仕草ではない。胸を開いて話をすれば、伝わるものは伝わる。それが通じない程底意地の悪い人間に出会うのは不運なだけで、だからこそ自分は幸運だったとも思うが、ともあれこのメンバーの中で演奏が出来て心底良かったと思える。
時刻が21時を回る頃になって、南教諭が口を開いた。
「じゃ、今日はこの辺でいいかしら? 咲ちゃんを病院に詰め込んでこないと」
「あたしは小包か何かか!」
「そうだな。菱沼、お前実はさっきから熱があるだろう」
「えっ、そうなの咲ちゃん」
若菜が飛び上がるように心配げな声を出すと、流石に咲も今更になって隠すつもりは無いらしく、苦笑いで頷いた。
「というわけだし」
「そうっすね、じゃあ解散しますか」
壱が取りまとめると、一同頷き、レストランを後にする。咲と南教諭は御堂教諭の車に乗って直接病院へ向かい、残されたた4人で電車へ。途中、若菜とユキは同じ駅で降りる為に、楠台駅へ戻ってきたのは壱と可奈子だけだった。
2人で特に会話も無く、夜の駅前を抜け、住宅街へ。
「……黒沢君の家は、もう通り過ぎたわよね」
「ホラ、夜だし」
「そう」
以前ならすげなく壱がついてくる事を拒んだだろうが、可奈子は何も言わずに頷いた。暗い路地を外灯が頼りなさげに照らすのを見ていれば、彼女1人で帰らせるという選択肢は取れるものではない。
「良かった」
「うん?」
「ちゃんと、出来た。コンクールも、演奏も」
「お鶴さんにとっては、万感あったろうね」
「これ以上、望むものは、無いわ」
「何を言うかね。もっと楽しい事があるかも知れないじゃないか」
言うと、可奈子は立ち止まって、振り返った。
「ありがとう」
「最近よく礼を言われるね」
「転校してきたのが、貴方で良かったと、今は思う」
「それは」
顔が熱くなるような言葉だったが、なんとか平静を装って、頷いて返した。
「色んな事を、学んだと思う。楽しいと、久しぶりに心から思ったわ」
「うん、良かった」
「感謝してる。貴方にも、皆にも」
「うむ」
「それじゃあ」
言って、可奈子は踵を返した。家の前まではせめて送ろうと思っていたのだが、何故か彼女を引き止める事は出来ず、小さな背中が見えなくなるまでそれを目で追うだけに留まった。
そしてその日を最後に、鶴岡可奈子は姿を消した。




