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コンクールまで残り3日となった。部員達はそれぞれに焦燥も不安も抱えているようだったが、それでも出来る限り前向きに練習をしようという様が見て取れて、壱としては一先ず安心というところではある。
この日、朝から部員一同で咲を見舞った。いくらか顔色が良くなったように見えたが、まだ予断は持てない状態だと南教諭は耳打ちしてきた。成る程確かに、咲はただでさえ無理をする後輩なのだ。ちょっとやそっとの快復では判断は出来ないだろう。
帰りしなに、壱だけが南教諭から残るように言われた。他の3人には真面目な話だからと、先に学校へ戻らせるまでを、いつになく厳しい態度で行う様は、流石に教師と壱に思わせる。それも無礼な話ではあるかも知れないが、こうした口ぶりの南教諭というのはユキや若菜も初めてらしく、驚いたように病院を出て行ったのが印象的だった。
果たして南教諭の言う真面目な話とは、成る程大勢で聞く話ではなかった。
「廃部ですか」
「今すぐじゃなくてね。去年、突然ボイコットしたようなものだから、今年も同じような事になったら、って」
「言い分はよく解ります」
昨年の夏、鶴岡可奈子の突然の不参加によりコンクールへの参加が出来なかった。その理由は極めて個人的なものでもあったが、今更責めても仕方の無い事でもある。少なくとも壱は、誰よりも可奈子に同調するだろう。
だがそれはあくまで楠白高校内部での問題であって、開催側からすれば、ただのボイコットでしかないというのは、確かな事実であった。
今現在まだ咲の体調の帰趨は解らない。もしこれでエントリーをした上でやはり咲が不参加となれば、4人での演奏というのはかなり難しくなる上に、1人の不参加を以ってエントリー自体を取り消される恐れもある。そしてそれは、そのまま楠白高校の名前に影響してくるという話だった。
「だから今のうちにエントリーを取り消せと」
「そういう打診があっただけなの。先生だってはいそうですか、と頷いてきたわけじゃないわ」
「流石ですな」
「勿論よ。でもね、私もあくまで教師の立場だから、言うだけは言っておくしかないのよ」
「解りますよ」
「それでね、1つの妥協案もあるにはある」
即ち、今のメンバーのまま、来年或いは冬季コンクールへの参加を目指す。
確かに現実を見ればそれが一番冷静で確実な方法だろう。まだ「もしかしたら」の域を出ない咲の参加を心だけで望むよりも、この場は一旦退いて次へ繋げる。壱としても、大きく頷かざるを得ない方法だ。
「だが断る」
そして出た結論は、これだった。他の部員にも相談するべきだろうかとも思ったのだが、ここは自分で独断してしまおうと壱は考えた。ユキは参加を主張するだろうし、若菜も最終的にはそれに同意するだろう。可奈子はどちらでもなさそうだが、ユキと若菜が参加の意思を見せるなら当然そこに乗ってくるに違いない。となれば、わざわざ波風を立てる必要も無いのだ。
「そう、やっぱりね」
「解ってましたね先生」
「まあねえ。伊達に半年近く皆と一緒に居ないもの」
「殆ど部活には顔出してくれませんでしたけどね」
「し、仕方ないのよう。まだまだ若輩だからあれこれ使われちゃって……」
「いやいや冗談ですって。それに、先生の本音も参加でしょ?」
言うと、南教諭はちょっと悪戯っぽく笑ってから、小さく頷いて見せた。教師としてはあるまじき事なのかも知れないが、壱を始め生徒一同からすれば頼もしい事この上ない態度である。
「じゃ、エントリーはこのままで、のらりくらりかわしてくるわ」
「カッコいいっすねえ」
「このぐらいやらないとね。それに、仮に冬季に目標を変えたところで、2学期が始まったらきっとまた皆嫌な思いをしながら部活を続ける事になると思うし」
元吹奏楽部は、今は夏休みが故に何もしてはこれないが、通常日程の授業が始まってしまえばそうもいかないだろう。夏を再度蹴る事もまた彼らに注ぐ燃料にしかならないかも知れないのだ。考えすぎとも思うが、壱としては部員達への無駄な心痛は出来る限り退けておきたいというのが正直な所だった。
「じゃ、話は以上。正直やめるべきかなってちょっと思ってたけど、黒沢君と話せて良かったわ」
「あんまり当てにされても困りますぜ?」
「ううん。黒沢君、少し見ない間に、前より凄く頼り甲斐ある感じになったもの。任せっぱなしでもいいかも知れないわねえ」
「顧問でしょあんた」
「だから頑張ってくるわよう、教頭先生結構怖いんだからね?」
不貞腐れたようにそう言う南教諭と別れて、壱も学校へ戻った。いくらか分厚い雲が流れる空だったが、湿度だけは相変わらずの高水準をキープしていて歩いているだけでもシャツが体に張り付いてくるような気がしてくる。
音楽室へ向かう途中で、同じ高さで音を鳴らすのが聴こえてきた。南教諭との話も気になっているだろうが、それでもこうして練習には励んでいられる彼女達こそ、限りなく頼もしい。
「ただいま。すまんね、遅くなった」
「あ、おかえり」
若菜が真っ先に微笑んで、手を振ってくる。次いでユキが軽く手を上げ、可奈子がちょっと目を合わせてくる。咲が居れば、若菜より先に走って出迎えてきたかも知れないと思うと、やはり今のままというのは聊か辛いものもあった。
「で、どんな話だったのよ?」
「いやこれは俺で止めておくよ。ごめんね」
「あれ、いつになく堅いね」
「俺がここで話して良いなら、わざわざ皆を先に帰したりしないさ。ほれ、練習と洒落込もうぜ」
「はーい」
3人で作られた三角形が少し崩れ、4人で四角形を作るように向かい合うと、すぐに音程のチェックから入った。それから壱が足でリズムを刻み、合奏が始まる、いつもの練習。
楽器を吹いている間は、少なくとも煩わしさからは解放されていられた。今ある問題が煩わしいというよりも、無心でいられるこの瞬間は、やはり壱にとって何物にも代え難いのである。
1時間程を使っての練習が済むと、細かいフレーズのチェックからニュアンスの駄目出しなどを可奈子がいくつか言い、壱がそれに補填するような形で小反省会に移った。誰もが、今は夢中でコンクールに向けて練習を重ねている。
そうして再び反省を加味した上で1曲を通しで演奏すると、流石に疲労の色が全員に見えてきた。
「よし、休憩しようか」
壱の声に誰も声を発せずに頷いた。
「お疲れだねー君達。じゃあ俺が飲み物でも買ってきてやろう。さあ注文を言うがいい」
「なんか優しいじゃん黒沢君」
「皆頑張ってくれてるしな。俺嬉しい。お前ら頼もしい」
「なんでカタコトなのか解らないけど、じゃあ甘えようかな」
「ありがとね、黒沢君」
ユキと若菜が同じ物を頼み、可奈子にお鉢が回るが、彼女はぼうっとしたように俯いているだけで、何も言わない。
「お鶴さんは? 要らない?」
「あ……」
言われて初めて気付いたとばかりに顔を上げて、可奈子は何故か壱を睨んだ。流石にわけが解らずに肩を竦めて見せると、椅子から立ち上がって鞄から財布を取り出す。
「鶴岡可奈子さんや?」
「私も、行くから」
「自販機のもので良ければ俺が代わりに行くけど」
「まだ決まってないし」
「そうかね。じゃあ仲良く2人で競争でもしながら参ろうか」
「ユキちゃん!」
「だから若菜はこういう時に指咥える癖やめなさいって」
騒ぎ出す2人を残して、壱は可奈子と揃って廊下へ出る。無言で進む彼女に追従するような形だったが、壱は特に何も言わずにいた。話があるのだろうが、上手くそういう事が出来ないのが鶴岡可奈子という少女だ。
食堂へ入ると、可奈子は自販機の前で立ち止まって、財布を手の中で弄び始めた。これは少し時間がかかるかと思い、飲み物を買うのは帰る直前にしようと決めた。
そして数分、色々と言葉を考えたのか、可奈子は壱に向き直る。
「黒沢君」
「はいよ」
「飲み物は買わないの」
「今買っても温くなっちゃうしな」
言うと、小さく溜息が返ってきた。自分が喋り始めるのを壱が待っていたというのが、案外悔しいのかも知れない。
それでも可奈子は持ち直したように続ける。
「一応のことを、言っておきたくて」
「一応のこと?」
「そう。言っても、黒沢君は、怒るかも知れない」
「怒りはしないけど、なんか持って回った言い方だね随分」
思えば先日も壱の袖を引いて何かを言いかけた。可奈子の中で、口に出したくても出来ないような事が起きているのだろうか。
拓の「状況が変わるかも知れない」という言葉が脳裏を掠めた。何か可奈子の身に起きようとしているのではないか。考え過ぎの一言で切って捨てられるものだが、壱はこういう事を気にして損をした経験が無い。
可奈子と視線が合うと、小さく揺れた黒い真珠のような瞳が、左へ逸れた。
「例えばね。私がまた、当日に来なかったら、どうする?」
「有り得ない話は例えばでも返答出来ないよ」
「どうして、有り得ないと思うの?」
「じゃ、俺もコンクール当日行かないかも知れない」
「……」
「信じられまい。そういう事よ」
「そう、ね」
歯切れも悪い、意味も伝わって来辛い可奈子の態度に、俄かに焦りのような物を感じる。
感じるが、しかしこれといって表現のしようの無い、今までに見た事の無かった彼女の様子は、壱から二の句を奪う。
「黒沢君が居ない間、色々と考えた」
「うん」
「貴方が居ないだけで、皆練習もままならなくなるし、音楽はまとまりを欠くし」
「随分褒めるねえ」
「菱沼さんが、倒れた時も、なんでこんな時に限って、居ないのかって」
「ああうん、そればっかりは間が悪かったね」
「楡原薫子さんと、会った時も。知らない人との、会話は、骨が折れたわ」
「そうなの?」
「貴方は、いつも私の先回りを、してくれるから」
確かに、可奈子が何か言おうとする意味の先を、常に考えてはいる。それは可奈子に限った事では無く、誰と話す時にでも心がけている事ではあるのだが、可奈子の場合普通の人間よりも更に言葉が削れて出てくるので、その甲斐があるといった所なだけだ。
それでも、可奈子はちょっと目を伏せて微かに頭を下げた。
「感謝してる」
「そりゃ、有難う」
言われて、何かこみ上げて来そうになるのを抑えた。よくは解らないが、とにかく嬉しい事だけは確かだった。ここまで自分の心を平常時に持て余した事は殆ど無いだけに、壱もすわりが悪いような気がしてくる。
「黒沢君」
「はいよ」
「本当に、ありがとう」
「どうしたのさ、急に?」
「言っておきたかっただけ」
「そう」
なんと返していいか解らない壱を見て、可奈子はふっと微笑んでから、自販機に小銭を入れた。
飲み物を取り出すまでの一連の仕草を、なんとなく壱はじっと見つめていた。




