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「駄目よ全然駄目よ! パッションが足りないのよ!」
場を切り裂くような甲高い手拍子で割ってはいると、不満そうな目と鬱陶しそうな目が同時にやってきた。快感ですらある。
「いいかしら! ゲージツは情熱がパッションなのよ!?」
「黒沢君、情熱とパッションは同じ意味だよ……」
「若菜嬢マイナス5点」
「なんでぇっ」
「というかそのおネェ言葉はどうにかならないの」
頭痛を堪えるような表情で、ユキがチューバに上体を預けながら文句を言う。しかし壱にしてみれば一度始めてしまった以上無闇にこのキャラを降りるわけにはいかないのである。故に、特に問題があったわけでもないのに合わせを止めてまで喋り続けているのだが、彼女達はそんな努力を認めはしないのだった。
すると、ユキと若菜が同時に可奈子を見た。見られて、可奈子は重い腰を上げるように言う。
「黒沢君」
「何よ!」
「気持ち悪い」
「あ、はい……」
「ねえユキちゃん、この差は何なの?」
「あー、なんだろうねぇ」
「お鶴さんに言われると心に刺さるんだ……」
「じゃ、大人しくしてたら」
「すいません本当に」
「黒沢君鶴岡さんにあまーい」
「あまーい」
「そんな事ないぞう、俺はいつだって皆にもスウィートだぞう」
咲の入院から3日が経過した。状況はやはり浮き沈みが激しく、今朝方は揃って顔を出しに行った時には青白い顔をして熟睡していたのですぐに引き上げてきたぐらいである。
ともあれ、壱の躁はそれなりに部員にも伝播し始めたらしく、全員が経過を見守ろうという心構えになり始めている事が救いだった。若菜は特に心配している事もあって時に弱音を吐くが、そういう彼女へのフォローはユキが上手にやってくれるので、非常に助かった。可奈子は元々、咲の帰趨に関しては静観を決め込んでいる所があり、全くの他人からすれば冷たいぐらいに落ち着いているが、彼女が咲へかけた言葉を思えば、それが上辺だけの冷たさだという事はすぐに解る。
可奈子とは、帰ってきてから特別な話はしていない。いないが、以前よりも彼女の仕草や言葉が深く脳裏に残るような気がしてはいた。それが恋愛感情から来るものなのかどうかは解らなかったが、悪い気分ではないというのが本音である。可奈子の態度はやはり柔らかく、また優しいものになってきているし、話をしているだけでも少ない言葉の中に様々な熱を感じるのは、喜びでもあった。
だからか、今は咲が居ないとう危機的状況でも、壱は特に意識するでもなく明るく居られた。自分がこうしている限り、他の3人も敢えて暗い事は口にしない。集団を引っ張る、という程大仰な気構えではないが、自分がやらなければならない事の1つだろうとも思っている。
やいのやいのとユキ若菜に煽られていると、チャイムが鳴った。内心助かった気分である。
「そうだ、この後予定のある人は?」
見渡す。全員が首を横に振った。
「そっか。じゃあ良かったらこのまま午後練習に雪崩れ込もうと思うんだがどうかね。そんなにガチガチにやらないまでも、楽器を触っていようと思うんだけど」
「いいんじゃない? どうせ帰っても色々考えちゃうし。ねえ若菜」
「なんでそういう振り方するのユキちゃん?」
「はっはっは、じゃあ話通してくるよ。飯の算段でも考えてておくれ」
言い残して音楽室を出、職員室へ向かう。途中、廊下の向こうから背の高い女性が歩いてくるのが見えた。御堂教諭である。
「あれ、夏休みなのに」
「挨拶を先にしろ黒沢」
「おはようございます御堂さん」
「うむ、まあ私は仕事が好きでな。そうだ、お前今時間は?」
「多少は。っていうか今物凄い嘘吐きませんでした?」
「そうか、少し話があるから来い」
壱の疑問は完全にスルーして、御堂教諭は保健室へ入っていった。頭を掻いて後ろに続く。
「コーヒーは」
「今から食事なんで」
「そうか、そんな時間か」
壁の時計を見上げて、御堂教諭は白衣に袖を通した。お世辞にも別段豊かとは言えない胸の起伏がそっと隠される様を見て内心涙するしかない。
促された椅子に腰掛けて、向かい合うと、すぐに御堂教諭は口を開いた。
「鶴岡の事なんだけどな」
「はいな」
「お前の部の菱沼、倒れたらしいじゃないか」
「ええまあ」
「それで、鶴岡が1人でやってきて何と言ったと思う。菱沼がもし病院を出られる状況になったら、引率をやってくれないかとこう頼んできたんだよ」
自分の腿を叩きながら、御堂教諭は嬉しそうに言った。それは、壱にとっても初耳である。
「マジっすか」
「おう、嬉しかったよ凄く。あいつが自分から私に頼みに来た事もそうだし、その内容もだし」
「それは、凄いですね。そうか、そんな事を」
「やっぱり元々いい子なんだよ、鶴岡は。最近になって表にそれが出るようになったのは、やっぱりお前のお陰なんだろうな」
「そんな事は。無関係とは言いませんけど、やっぱり部内で色々な刺激があった所為だと思いますよ」
「謙遜するな。最初に懐いたのは黒沢なんだ。もっと誇っていい。中々出来る事じゃない」
壱の肩をばしばしと叩き、再度嬉しそうに御堂教諭は笑う。
可奈子が自発的に咲の事を考えて、話をしに来た。養護教諭が1人ついてくるという事がどの程度咲にとって良く働くのかはまだ解らないが、それでも可奈子なりに現状を考えての提案だったのだろう。そう思うと、やはり彼女の変化の大きさが喜ばしい。まるで父親のような反応だと内心自分に突っ込んでおくが、それでも壱は可奈子の成長が見て取れるような気がした。
「部内でも、最近は角が取れてますし、いい事なんでしょうね」
「そうなのか。確かにいい事だよ」
「俺には矢鱈冷たい事が多いですが」
「そりゃ信頼の裏返しみたいなものだ。可愛いだろ?」
「超可愛いっす」
「素直だねえ。鶴岡にしてみれば、お前にどのぐらい冷たくしたら見捨てられるか測ってるような所もあるのかも知れないぞ」
「ふふん、何やっても無駄だっていうのに」
「黒沢は鶴岡をそういう風に見てるのか? 要するに惚れた腫れたの話だが」
「どうなんでしょうね。絶対に嫌いではないですけど」
「鶴岡の方は案外その気かも知れないぞ?」
「あー、そりゃ嬉しい限りで、まあ」
「照れ隠しにしか聞こえんな」
「やめろよう! 純粋な学生さんを弄るのはやめろよう!」
「正直言って、お前以外に鶴岡の相手は務まらないだろうしな。意識させるようで悪いが、私としてはそういう形が望ましいとは思う」
「それはカウンセラーとしてですか?」
「子供の恋愛を見守る女としてさ」
壱の皮肉っぽい言い方にも、御堂教諭はむしろシニカルに笑って返してきた。生涯敵いそうにない人間がまた1人増えたような気がする壱である。
「ま、今はそこまで色々考えてません。少なくともコンクールが終わるまでは」
「そうか。いい話を期待してるぞ」
「人の気持ちを暇潰しみたいに!」
「他人の色恋の方が楽しいじゃないか」
確かにそうだが、正面切ってそう言われると苦笑いしか出来なかった。
保健室を辞して、職員室へ向かい新田教諭に音楽室の使用許可を取りに行くと、丁度喫煙所から戻ってきたのか廊下で鉢合わせになった。意外と教師の多い夏休みである。
「あ、どうも先生。音楽室、午後も使わせてもらっていいですか?」
「空いてるのか?」
「はい」
「じゃあいいぞ」
「助かります。じゃ、また後で鍵返しに来ますんで」
「あ、黒沢待て」
「は」
「多分鶴岡からは何も聞いてないだろうから教えてやろう。あいつも、楡原さんにキープされたぞ」
「……は?」
言われた言葉を反芻して、漸く意味が飲み込めた。楡原さんにキープされたとは、要するに壱と同じように契約書か何か渡されたという事か。
「そうですか」
「ま、出来レースだったようなもんだけどな。鶴岡の才能は数十年に1人クラスのものだろうし」
「ですね。そうでしたか、お鶴さんも」
「まあ返事は予想通りだったが」
「曖昧でしたか」
「お前らの煮え切らなさにはむしろ俺が冷や汗もんだ。あいつ楡原さんに正面切って「興味ない」とか言い出すしよ」
「すげえ!」
「だろ? 俺だって無理だよ。強靭過ぎるぞあいつの精神」
「ああでも、なんとなく想像つくところがもっと凄いというか。いやでも、いい事ですよね」
「そうだな」
可奈子の変化が、彼女の周囲にも少しずつ変化をもたらしている。そういう風に、壱には見えた。自分が変われば世界は変わるものである。
「後でちょっとその辺の話振ってみましょうか」
「そうしてくれるか。俺も楡原さんに時には明るい話題も提供しないといけないし」
「大変ですねえ。なんなんですか先生と薫子さんの上下関係は」
「恩人の孫娘さんなんでな。向こうも別に顎で使うわけじゃないさ」
「色んな縁がありますね」
「お、意味深な台詞だ」
「俺だって少しぐらいは成長しますぜ」
そんなやり取りをして、壱は音楽室に戻った。使用許可が下りた旨を伝え、揃って食堂へ向かった。営業はしていないので、それぞれに弁当などを買ってくる事になる。そのジャンケンで、壱は当然の如く敗北した。
「俺なんでこんなにジャンケン弱いんだろう……」
「優しい部長で助かるわ、ねえ若菜」
「あの、わたし一緒に行こうか?」
「若菜、こういう時に甘やかしちゃ駄目なのよ」
「ううん、そうなのかな……」
「ふん、1人で行くさ。ほら、何が欲しいのかその可愛いお口で言ってごらん」
「なんかやらしいよ黒沢君!」
それぞれに希望の路線を聞き出し、壱は財布だけをポケットに入れて校舎を出た。裏門から出るとすぐにコンビニエンスストアに着くので、そちらを選ぶ。
店内のクーラーに癒されながら弁当コーナーの前に立つと、背後に気配。
「あれ、お鶴さん」
「買うものが、あるから」
「そうだったのか。言ってくれれば良かったのに」
「言い忘れて」
それだけ言って、可奈子は別のコーナーへ向かって行った。上背の低さ故に什器の間に消えるとすぐに姿が見えなくなる。とりあえず、注文に沿うようなものを籠に放り込んでレジに並ぶと、可奈子もすぐ後ろについてきた。
「何買ったの?」
「別に」
商品を隠すようにしたので、特に追求はしなかった。婦女子の秘密に無理矢理接近してはいけないというのは兄からの金言である。会計を済ませ、店の外で可奈子を待ち、無言で並んで学校へ。
「そうだ、お鶴さん。君も楡原さんに声かけられたんだってね?」
「うん」
「教えてくれてもいいじゃない。返事はいつするの?」
「……まだ、決めてない。どうするかも」
「そっか。まあ、今は色々あるしね。ゆっくり考えようか」
「黒沢君は、どうするの?」
「俺? ううん、まあ高校出る頃にはお世話になりたいのが本音なのかな。やっぱサックス以外で何か出来るとも思えないしさ」
「そう」
「お鶴さんは、こういう風に言われると嫌かも知れないけど、やっぱりフルートでなら絶対高い所まで行けると思うよ」
「どうかしらね」
「ま、俺の欲目もあるのかなぁ。俺は単にお鶴さんのフルートが好きなだけかも知れないし」
返事をせず、可奈子は立ち止まりながら壱の袖を引いた。何だと思って振り向くと、可奈子は何か言おうとして、やめた。
「なんだね」
「……」
上目遣いに睨むようにして、可奈子は先に立って歩き出してしまった。
やはり解らないのだが、そんな仕草もまた良し、と思うと幸せではある壱だった。




