12
一人暮らしの部屋へ戻ってくると流石に寂しいような気分になる。出迎えてくれる人が居るというのは凄い事なのだな、となんとなく思いながら、壱は1度シャワーを浴びてから電話を取った。ユキにコールをし、5つ程待って、今は出られないのかと思い始めた所で繋がる。
「はいよ」
「やあユッキー、寂しくなかったかい?」
「今どこ? 会える?」
「え、マジで寂しかった!?」
「そんなわけないでしょうが。話があんのよ」
「ああ、それは構わないけど。今家についたところだし。でも今日は部活午前だよね?」
言いながら室内の時計を見ると、正午は過ぎている。ユキはうん、と1つ返事をして続けた。
「学校に居るから。他の面子も一緒」
「そうか、じゃあ今から行く」
「ありがと。帰ってきたばっかで疲れてるだろうに、ごめんね」
「なんの。ユッキーが寂しがってるなら光の速さで」
「じゃあ待ってるからね」
それこそユキのほうが疲れたような声で、一方的に通話を切った。苦笑いをして、そのまま壱は外へ出る。
学校まではゆっくり歩いても15分程度である。たった2日ではあるが、どことなく懐かしい気分になりながら校門を潜り、真っ直ぐに音楽室へ。練習はしていないらしく、廊下はしんと静まり返っていた。
「参上」
言いながら扉を開けると、まず机に腰掛けていたユキ、次にその正面の若菜、少し離れた所に可奈子という構図が目に入った。
「おや、咲ちゃんは?」
すぐに不足しているメンバーに気付き、同時に若菜が困ったような顔をするのを見て、即座に状況を悟った。同時に、ユキがわざわざ「話がある」と名目を設けてまで呼び出したのだから、あまり明るい話ではないという事にも考えが行く。
思わず腕を組みながら、しかし笑顔を作って、壱は全員の中央に位置する椅子にどかりと腰を落ち着けた。呆気に取られたような顔をする全員が少し可笑しい。
「咲ちゃんは、病院かい?」
「あ……うん、その通りなんだけど」
ユキがやはりというべきか、何か躊躇うような口調で続ける。
「丁度今朝倒れちゃってね。その連絡を受けたのが私でさ」
「今は?」
「えと、ここから少し歩いた……秀峰大学病院っていう所なんだけど、知ってるかな」
今度は若菜が遠慮がちに切り込んでくるのに対し、壱は1つ頷く。更にユキが続けて、咲の状況を説明してくれた。どういう状態であるか、南教諭の説明はどうであったか、という程度のものだったが、おおよそ今の空気の原因となるものは掴めたと言っていい。
「成る程、病院に運ばれるような事態になっちゃったわけだね」
即座に、コンクールへの参加の可否を考えた。咲の状況がどうなっているのか解らない今では判断はし辛いが、少なくともここにいるメンバーの顔を見る限りは微妙な線といったところなのだろう。練習もしていないし、わざわざ自分の到着を待っていたぐらいである。これは、黒沢壱が頼られているという事でもあるのだろう。
「お見舞いには行った?」
「うん、3人で行ったよ」
「咲ちゃんの様子は?」
敢えて可奈子に振ってみると、可奈子はじっと壱を見つめて、それから1つ頷いて口を開く。
「医者の判断も、彼女の体力次第、ということだったわ」
「ふむ」
「菱沼さんは、泣いていたけど」
「まあ咲ちゃんの性格ならそうだろうね」
「どうするの?」
「勿論コンクールには出るさ。何の為の吹奏楽部か解らないだろ?」
「そう」
壱の言葉に、可奈子は満足げに深く頷いて、目を窓の外にやった。これ以上特に聞くことは無いという事なのだろう。
代わりとばかりに、若菜が再び言う。
「でも、もし咲ちゃんが……その」
「気持ちは解るけどな。あんま暗い事ばっか考えてちゃ駄目なんだぜ?」
「でも……」
「極端な話さ、どっちでもいいと言えばいいんだよね、これ。コンクールには勿論出たいけど、無理なら無理で別の機会があるじゃない」
「そんな簡単な話なの? 今だって咲ちゃんは自己嫌悪で」
食いかかるように、ユキが若菜の後に続いた。
それはそうだろう、彼女にとっては1年越しの夏のコンクールである。それがまた不参加になってしまう事への不満もあるし、その上咲は見なくても解る程に沈んでいる筈だ。ユキには副部長というポストもあって色々と丸投げしてしまった事もあり、ストレスはかなり溜まっていると思えた。
「ユッキーの言いたい事は一応解るつもりではある。正直ムカつくしね、無理ばっかして倒れちゃうとかさ」
「べ、別にそこまでは」
「今のは雑な言い方だけど、でも詰まる所そういうのも有るわけじゃない。だからね、考えてもしょうがないなと」
桐田咲の言葉を思い出す。暗い所に、自分まで暗いまま入っていっても仕方が無いのだと彼女は言った。
菱沼咲が欠けてしまうかも知れないという今の状況は極めて絶望的だと言えるだろう。彼女のフルートの代わりを出来る人間など居ないし、代わりを見つけたとしても上手く行くはずが無い。この、5人だけでやってきたのだ。
「ええと、あと6日か。厳しいね」
「なんか、黒沢君いつもより軽くない?」
「軽くなんて無いぞう、俺はいつだって全力さ。だからもし今暇なんだったら、練習しね?」
「サックスは?」
腕を広げて、軽やかにそう提案してみると、可奈子から実に正しい疑問が飛んできた。ユキに言われるままに出てきたので、確かに手荷物は全く無い。
「……まあ今のは無かった事にしてだな」
「締まらないわね」
「すいません……」
「というか、ホラ、わたし達の後ここ使う部もあるみたいだし」
横合いから若菜にフォローを入れられ、凹みかけた心を立ち直らせた。何もかも最初から上手くはいかないものである。
「あ、じゃあ俺病院行ってみようかな」
「今から? 1人で?」
「疑問だらけだな若菜嬢。だって君らはもうお見舞い行ったんでしょ?」
「そうだけど」
「ユッキー部屋番号は?」
「205。階段上がって左手の少し奥」
「サンクス。というわけで俺はちょっくら行って来るよ。皆はもう解散でしょ?」
「そうなるわね」
何か言いたげな若菜、あまり力の無い目のユキ、普段通りじっと見つめてくる可奈子を見渡して、壱は椅子から立ち上がる。
「じゃあまた明日。何か状況変わったりしたら連絡するよ」
言い残して、足早に音楽室を出た。視線が追って来たが、特に構っても仕方が無いだろう。
本来なら壱も彼女達と共に沈んで不安を口にしたいものだが、言ってみた所で何も始まらないのである。咲が絶望的であるというのならコンクールより後の展開を考えないとならないだろうが、可能性がある今からテンションを下げても無駄の極みというものだ。
学校を出て、大学病院へ足を向けた。日差しを避けて木陰を選び、車の列を横目に進む。盆休み故か家族やカップルの外出も目立ち、夏らしいといえば夏らしい雰囲気に満ちている歩道が、どことなく壱にとって身近なものに感じられた。
病院へ入るといくらか効いている空調に胸をなでおろすような気持ちになりながら、足早に階段を上った。廊下は静謐というほどではないものの独特の静けさに包まれていて、特に往来も見当たらない辺りにそれらしい空気を感じる。205号室はすぐに見つかった。中に入ると、大部屋の一角で小さく体を横たえる菱沼咲の姿もすぐに目に入る。
顔を覗き込んだ。眠っているらしい彼女の顔の半分を呼吸器が覆っていて、成る程呼吸器系の病気だったなと今更になって思い出した。南教諭の姿も無かったが、ともあれ傍の椅子に腰を落ち着けた。
意図的な真似をしたものだった。今まで菱沼咲を「咲さん」と呼んでいたものを、「咲ちゃん」という呼称に変えた。今の所確認できた変化はユキが躊躇いがちな口調で反応してくれた事ぐらいだったが、こんな細かいことでも壱の中では1つのけじめでもある。同じ名であるというだけでどこか苦手意識を勝手に持ってしまったり、また咲そのものの性格や明るさについていくのを躊躇ったりと、彼女には随分と雑に当たってきた所があると今になって解る。
ふと、咲が寝返りを打つようにして頭を動かし、何度目かでこちらを向いた。疲れたように半分ほど閉じかかっていた瞼が、大きく見開かれる。
「おはようさん」
慌てて体を起こそうとする咲を手で制して、少し椅子を近づけた。対して、咲は毛布で全身を隠すようにしながら壱と少しでも距離を取ろうとする。乙女心というやつだろうと脳内補完。
「調子は? つっても、倒れたの今朝だって聞いたからダルいか」
呼吸器が少しだけ曇った。声は聞こえなかったが、恐らく肯定したのだろう。
「ごめんな、俺ちょっと田舎帰ってたからすぐ来れなくて。ほんとついさっき帰ってきた所なんだ」
頷きが返ってくる。
「時間はあんまり無いけどさ。今はコンクールとか忘れて養生するようにな。っていう言い方の方が今の咲ちゃんにはキツいか。うーん」
腕を組んだ。こういう時の人間には何を言っても無駄だという事は、幼少期に心を閉ざし続けていた自分の経験からもよく解る。だからといって、そっとしておいてやれる程、壱は冷たいつもりはないのだ。何せ、桐田咲2号とまで称されたのである。ここで引いてしまっては彼女に益々顔向けが出来ない。
「じゃあこういうのはどうだ。コンクールまでに治らなかったら咲ちゃんの青い果実をこの俺に頂かれてしまうという恐怖の未来が待っているという」
言うと、咲は小首を傾げる様な仕草をして、それから呼吸器の向こうで小さく微笑む。
次いで体をそっと起こし、呼吸器を外した。
「咲ちゃん」
「ん?」
「先輩、咲ちゃんて」
「ああ、うん。気持ち悪い?」
「いいえ」
可愛らしいスカイブルーのパジャマの襟をより合わせながら、咲は感慨深げに首を振った。
「……ホラ、前ちょっと話したよね? 俺が咲さんと呼んでた先輩の事」
「はい」
「その人に会ってさ、まあ色々と勉強になる話を聞いたんだけど。ともあれ、あっちも咲さんで君も咲さんじゃ俺の脳での処理は無理だと判断してな」
「あはは」
「ところで外しちゃっていいのかい、それ」
呼吸器を指差すと、咲は頷いて見せた。補助的な役割でしかないのかも知れない。そういう事なら、今はそれ程心配ではないのだろう。
そこまで考えて、心配しているのはコンクール参加の可否ではなく咲の体そのものだと気付いた。当然の事だったが、以前ならどう思ったか解ったものではないなと内心笑った。
「で、実際問題どうなのかね、体の方は」
「このままだと、先輩に頂かれちゃうと思います」
「マジで!? 喜んでいいのか悪いのか!」
「なので頑張りますけど、あたしとしてはどっちに転んでも美味しいという」
「いやいやいや、頑張って部活に参加しようぜ?」
「どうしようかなぁ、ちょっと廊下をダッシュしてくれば、また倒れられるでしょうし」
「全力で阻止するからなそんなの!」
「えー、先輩言い出しといて結構腰引け気味ですか?」
「そんな事ありません!?」
「疑問系ですしー」
「なんて恐ろしい子……!」
いつもの軽やかなやり取りになり始めた所で、咲が咳き込んだ。慌てて腰を浮かせた壱に、咲は手のひらを突き出して何度か小さく咽るようにし、顔を上げた。笑顔。
「とまあ、不調は不調で」
「頼むぜマジで」
「あの」
すっと笑顔を消して、咲はベッドの上で正座をし始めた。こういう表情の変化は、不思議と桐田咲と被るような気がするのだから、自分の被害妄想も桐田咲の影響力も壮絶なものだと思う。
「すいませんでした」
「謝らせに来たわけじゃないぜ」
「先輩はそう言うと解ってました。なのでうんと言うまで謝り続けます」
出来ればこんな事を言わせない為に適当な話を続けようと思っていたのだが、結局やられてしまった。とはいえ、これも彼女なりの1つのけじめの付け方ではあるのだろう。
頷いて、下げたままの咲の頭をひょいと持ち上げた。
「よし、聞いた。君は謝った。俺は許した。もういいよね」
最近言われた台詞である。
咲は少し納得行かないようではあったが、壱を相手にこれ以上粘っても仕方が無いと考えたのか、すぐに頷き返してきた。
「鶴岡先輩は、謝らせてくれませんでしたから」
「お鶴さん?」
「はい。今朝ユッキー先輩と若菜先輩と一緒に来てくれて。きっと怒られると思ってたんですけど、養生して、早く戻りなさいって」
「そう、お鶴さんが言ったの? ユッキーとかじゃなくて?」
「はい」
嬉しそうに、咲はそんな事を教えてくれた。可奈子も、咲にそういう言葉をかけてやれるのだ。出会った当初ならそもそも見舞いにすら来たかどうかも怪しい所だが、この数ヶ月は、本当に色々な影響を彼女に与えているらしい。咲同様、壱も嬉しくなる。
「そうか、それは良かったねえ」
「嬉しそうっすね、先輩」
「そりゃそうさ。お鶴さんがそういう風に言ってくれたんなら、俺から改めて咲ちゃんに言う事は無いしな」
「……なんか、先輩変わりましたね」
「それはどういう意味で?」
「ええと」
内心どきりとしながら問い返すと、咲はあれこれと言葉を選ぶように指先を弄んでから、続けた。
「優しくなりました」
「今まで俺冷たかった!?」
「や、ええと、なんていうか……すごくあたし達に歩み寄ってくれたというか」
「上から目線だな俺」
「ううんもう、そういうんじゃなくて……あれですよ、カッコ良くなったっすよ」
ね、と無理矢理納得させるように手を振る咲に、曖昧に頷き返した。歩み寄る、という事は、それまで距離を置いていたということだ。南教諭にも、過去に言われたような事である。流石に同じ血なのか、よく見ているものだと驚いた。
「まあ褒められたんならそれで良し」
「褒めました」
「うむ。じゃ、あんま長話しても辛いだろうし俺はそろそろお暇するぜ」
「え、もう……?」
「また明日様子見に来ていいかい?」
「あ、はい、勿論!」
「じゃあブラ付けて待ってるようにな」
言われて、咲は薄い日焼けのような肌をさっと赤くした。先ほど襟を寄り合わせた時に、布の動きで察知したのである。黒沢壱はそういう眼力を持つ男であった。
翌日からの事は、あまり考えなかった。ただ、自分だけは万事に明るく、積極的でいようと決めただけだ。




