11
自宅に戻ったのは夕方と呼ぶには聊か早い、まだ日差しも強く残る時間だった。
咲から、色々なものを奪って、同時に教わった。今思えるのは、そんな所だ。
「あら、早かったのね」
「うん」
「どうしたの?」
居間に入ると母が意外そうな顔で壱を見てくる。何かおかしな表情をしていただろうかと思わず頬を揉んでみると、母はちょっと笑った。
「なんか変?」
「いいえ、ただどこかさっぱりしたように見えてね」
「さっぱり」
「悪い顔じゃないわ」
そう言って、母は甲高い音で沸騰を知らせるやかんに向かった。
咲ときちんと話が出来た事が何か影響しているのだろう。考えられるのはそれだけだ。随分と単純な男だと内心自分を笑うが、それでもやはり悪い気分ではない。
自室へ戻ると、足音を聞きつけたのか翠が小走りに入ってきた。
「お帰り」
「おう、部活はどうだったね」
「紅白戦やったんだけど翠の天才ぶりはやばいね」
「よしその鼻叩き折ってやろう」
言うなり、壱は立ち上がって翠の背中を押した。翠が鼻で笑いながら自室からバスケットボールを手にしてついてくる。縁側から見通せる庭には公式サイズのバスケットゴールがあり、足場こそただのコンクリートではあるが、色々と彼女にとっても練習になるらしい事はくたびれたバックボードを見てもよく解った。
「転んだら死ぬよな」
「タックルは禁止だからな壱にい」
「約束は出来んぞ、薄布だけになったお前に欲情して凄い事をするかも知れん」
「妹に吐く台詞じゃないよ!」
軽口を叩きあいながらジャンケン。壱が先攻。翠にボールを1度ワンバウンドで渡し、翠から同じく返ってくる。同時に両手を頭の横にめいっぱい広げた姿勢を低くして、翠が目の前に立ちはだかった。左半身になり腰の後ろでボールをバウンドさせ、10も叩かないうちに、壱は背中越しにそれを滑らせた。
読んでいたのか、翠はすぐに反応して、壱の背中側へ体を回す。だが背中に消えたボールは壱の両足の間でワンバウンドし、すぐに壱の左手でのドリブルに切り替わる。当然、翠の対応は遅れた。
ワンオンワンではその一瞬の遅れが命取りになる。壱はフリースローラインから2歩目で踏み切り、ダンクシュートに繋いだ。
「上手いな壱にい!」
「ふはは、得意スポーツは全部だ」
「ええい、遊びは終わりだ!」
「いいから脱げ脱げ」
「ちっ」
黒沢家のバスケット対決は基本的に脱衣である。ルールを制定したのは無論のこと拓だ。
舌打ちをしながら半袖のボタンダウンを脱ぎ、ゴールの支柱に引っ掛ける翠。タンクトップ1枚の下では年齢に見合わない生命の躍動が軽やかに自己主張をしていた。
「お前……凄いなぁ……」
「うるさいな! 結構辛いんだよこれはこれで!」
そしてそんな躍動に気を取られ続け、壱がジーンズ1枚にになった頃、母が庭へ出てきて夕飯を知らせてくれた。上がりきった息を整えながら、揃って戻る。
「壱にいなんかあった?」
「お前まで妙な事言うね」
「や、昨日もバスケしたけどさ、今日はなんていうか」
何か得体の知れないものを、翠も壱から感じ取っているのだろう。それは恐らく母の態度からしても悪いものではないのだろうが、生憎と妹には言語化するまでの語彙は無かったらしい。
「まあ色々あるさ俺にも」
「ふうん」
「悪いな付き合わせて」
「何言ってんの。シャワー先入っていい?」
「おうよ」
汗みずくのまま屋内をうろつく気にもならず、翠が出てくるまで縁側に腰掛けて、すっかり影の濃くなった風景を眺めた。
明日には、また楠台へ帰る。その時は、もっと何か変わっているだろうか。
母と妹という、黒沢家の女2人の壱を見る目が変わったのだ。それだけでも、十分だと思えた。
夕食を終えると、その日の残務を終えたらしい拓が心底疲れたような顔をして部屋にやってきた。話があるとは言ってあったが、こんな状態の兄を見ると流石に申し訳ないような気分にもなる。
「すっげえ疲れた」
「言わなくても解る」
「で、話とな」
「うん。咲さん……例の先輩に会ってきたよ。そんで、謝ってきた。色んな話もした」
「ほう」
拓の、片方しか無い目を見てそう言うと、兄は嬉しそうに唇の端を持ち上げて笑う。
「その分じゃ、悪い結果にはならなかったみたいだな?」
「それどころか、良い事ずくめだったよ」
「話してみろ」
いつも通り壱のベッドに胡坐をかいた兄に、咲とのやりとりの殆どを伝えた。流石に彼女が自分へ向けてくれていた好意などはいくらか省いたが、それでも無関係な部分以外は全てを言葉にする。頷いたり、突っ込んだりしながら、兄はやはりと言うべきか驚くほどの理解度で全てを聞いてくれた。
「大した人だな、そりゃ」
「そう思う。惚れて当然だ」
「じゃあ今一度聞くぞ。お前、例の幼女をどうしたい?」
拓はいつか壱の部屋へ突然来た時のような挑戦的なものではなく、ごく真剣な眼差しで、壱を見据えた。
それと数秒睨み合うようにしてから、口を開いた。
「助けたい」
「独善的だな」
「勿論。俺はあの子の事なんかこれっぽっちも解らないから、俺がやりたいと思ってる事と、あの子が望む事とは全然違うかも知れないしね」
「それでもか?」
「それでも。俺はまだはっきり自覚して無いけど、鶴岡可奈子って子が多分好きなんだと思う。単純な恋愛感情とか性欲とかに根ざすものじゃなくて、こう、人格全てに対して異常に執着してるんじゃないかね」
「随分曖昧だな」
「そりゃそうさ、俺には俺の事すら解らないし。まあ、これは咲さんの台詞だけど」
腕を組み、拓は頷いて先を促してくる。
「だから、今ある彼女への虐待を、どういう方法かで止めたい。警察に通報ってのが手っ取り早いけど、とりあえずは一緒にコンクールを終えてからになるのかな」
「悠長な事言ってると状況が変わるかも知れないぞ?」
「それならそれで別のやり方を探すよ。だからもし、あの子がいきなり外に放り出されるような事になったら、助けて欲しい」
「自分勝手に甘ったれた事言うじゃないか」
「そう言うなよ、家族だろ」
壱の言葉に、拓は虚を突かれた様な顔になった。恐らく、産まれて初めて兄のこういう顔を見る、という気がする。
慌てたように表情を消して、拓は俯いてから小さく何度も頷いた。
「そうだな、家族だしな」
「流石、話が解るね」
「そりゃお前や翠の兄貴やってりゃあな」
「気苦労は絶えないだろうなと今は解るよ」
「そう思ってくれりゃ十分だ。よし、俺の責任において、もしその幼女が路頭に迷うような目に遭うなら、黒沢家は全力でバックアップしてやろう。そしてお前は死ぬまで俺と親父お袋、ついでに翠にも感謝し続けてから死ぬのだ!」
高笑いを最後に付け足して、悪役の台詞のように、拓は有り難い事を約束してくれた。
「有難う、拓さん」
「なあ壱」
「うん」
「お前が、家族なんだから、っていう理由で俺らを頼ったのは、これが初めてだって知ってるか?」
「……え、そうかな。俺結構ワガママ言ったと思うけど」
例えば転校にしても引越しにしても、壱個人の理由で全てを用意して貰った。感謝してもし足りない程だと今でも思っている。幼い頃まで戻れば、数え切れない程家族には寄りかかってきた筈だ。
それでも、拓は頭を振る。
「お前のワガママなんか聞いてやって当然なんだよ。俺は兄貴だし、あとは父親に母親だろ。そりゃ程度の差はあるだろうが、お前が望むものに対してなんとかしてやろうと思うのは当然だ」
「……」
「でも、それは全部俺らの「先回り」でしかないわけだな。こうしたらいいんじゃないか、っていう言わばお節介だ。お前が鶴岡可奈子にやろうとしてるような」
「解る」
「今回初めて、お前が自分からこうしてくれ、と言って来た。小さい頃から数えて13年近く。嫌な言い方になるかも知れないが、敢えて言うぞ。お前は今初めて、俺らの家族になったようなもんだ」
「……初めて、家族に」
「今までがそうじゃなかったわけじゃないぞ勿論。ただ、嬉しいんだよ俺は。無条件に甘えてくるお前がな」
言って、拓は、これも初めて見るような優しい笑顔で壱の頭を叩いた。思ったより威力のあったそれに驚きながら、また涙ぐんでいるのは、多分痛かったからだろうと自分を誤魔化す事にした。
朝食を食べ終えると、すぐに荷物をまとめた。元々それ程の量の荷物ではないので、大して時間もかからなかった。
「もう少しゆっくりしていけばいいじゃん。盆休みなんだしさ」
「まあズルズルと居座っちゃうからさ」
「忘れ物無い?」
「大丈夫だと思う」
「お金は?」
「有り余ってる、ありがとね」
「じゃ、お父さんと拓に挨拶してから行きなさい。気をつけてね」
「うん。そんじゃまたな翠」
「あ、待って翠も駅までついてく」
「そうか」
慌てて支度に上がった翠が降りてくる前に、壱は施設へ向かった。父も拓も、机に向かっている。先に壱の入室に気付いた父が、手を止めて老眼鏡を外しながら、言う。
「おう、行くのか?」
「部活もあるしね」
「結果出せよ」
拓は書類から目だけを壱に向け、そう呟くように言うだけだった。頷いて、これに返す。
「気をつけて行けよ、壱」
「了解。父さんも飲みすぎると母さん泣くぜ」
「まあ努力はする」
苦笑いの父に背を向けて家へ戻ると、翠が準備を済ませて待っていた。並んで門を抜けて、田舎道へ出る。
相変わらず晴れ渡った空と、遠くで揺れる田んぼの稲がいくらか強い風と共に壱を送り出す。
「壱にい」
「なんだ」
「解ったよ、昨日の。壱にいね、好きな人居るでしょ」
「……何その乙女チックな判断」
「違うの?」
言われてみれば、間違ってはいないと思い直した。成る程確かに、女の勘というものは恐ろしい程に鋭いのかも知れない。加えて、翠は拓の妹なのだ。
「お前の彼氏になる奴は大変だな」
「中々いい男いないんだよね」
「まあそのうち出てくるさ」
「翠は壱にいみたいのがいいんだけどさ」
「あー、それだけは止めた方がいいんじゃないか」
「意外だ。壱にいなら絶対調子こくと思ったのに」
「俺なら俺には惚れない」
「まあそうかー」
解ったような解らないようなリアクションで、翠はいくらか歩調を速めて壱の真横から遅れずについて来る。ふと、可奈子と翠を会わせたらどうなるか考えて、無闇矢鱈と詰問される可奈子の図が思い浮かび、聊かげんなりとした。
「翠、お前もう少し落ち着けよな」
「落ち着いてるろ?」
「ろ?」
「落ち着いてるよ?」
「とりあえずそういう返事を噛まない程度にはクールになるべきだと思う」
「噛み噛みなのはしょうがないんだ、翠の脳に翠の体の反応速度がついてこないんだ」
「エリートパイロットみたいな事言うな」
そんな馬鹿な話をしながら、気付けばすぐに駅前だった。改札口の前で、今一度妹を振り返る。まだまだ拙い所も多いが、このまま大きくなればさぞ男を泣かすだろうと心底思えた。増して、あの兄が敵として立ちはだかるのである。むしろ泣けてきたと言っていい。
「頑張れ」
「は?」
「じゃあな、次は冬に帰ってくると思う」
「長くね!?」
「じゃーなー」
1人でドップラー効果を演出しながら自動改札を通り抜けると、翠は気を取り直したように、両手を力いっぱい振って見送っていた。




