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喫茶店内に居座り続ける事3時間近く。店員の目も、何度か差し替えをしているからかそれ程痛くはないが、流石にコーヒーばかりを飲み続けていると体が苦痛を訴え始める。元々コーヒーなどの嗜好品よりも、スポーツドリンクや野菜ジュースの方が好きな健康優良児たる黒沢壱であった。
「腹減りません?」
「おお、育ち盛りだな」
「いや朝は食ってきたんですけどね」
「んじゃこれ飲んだらお昼一緒に食べようか」
「そうですね」
ああいう話の後でも、咲は変わりなく自分に接してくれる。或いは、あの当時に彼女から逃げ出したりしなくても良かったのかも知れない。
ただ壱にとっては、恐らくは咲よりも動転した事態だったのだ。今でも思い出そうと思えば彼女の細く小さな肩と手首を掴んだ時の感触が両手に蘇ってくるような気すらしてくる。それは尚も自責の念という形で心にわだかまり続けているが、少なくとも今目の前で明るく話をしてくれる女性を見れば、随分と軽い気持ちになるのだった。
今も、ひょっとしたら咲の中では色々な事が考えられているのかも知れない。その中には、捨てきれず壱に対する同情もある筈だった。それでもそういう物をおくびにも出さない。壱が憧れた頃のままの、桐田咲だった。
「そういや咲さんなんで朝からあんな所に?」
「ああ、忘れ物してね」
「あれ、どっか出かける予定だったんですか?」
「いやいや買い物さ。暇だったし」
「それなら良かったんですけど」
「ホラ、音大って結構シビアだからさ。あんまり気軽に誘える相手もいなくてね。高校の時の友達は結構あちこちに散っちゃったし」
「そうなんですか。大学の友達とかは?」
「まるで友達居ない子みたいじゃないか。いやなんていうか、大学生って嫌だなぁって思うよ」
「はぁ」
いずれ壱も大学に行くのか、或いはこのまま薫子の話に乗る事になるのか。決めかねてはいるが、これもいずれ答えを出さなければならない事の1つだった。
ふと思い立って、咲に楡原薫子との話を口にしてみる。
「全然関係無いんですけど、俺音楽レーベルの人に契約書貰ったんですよ」
「……はぁい?」
「いや、無理して聞き取れなかった感出さないでくれて結構ですんで」
「マジで? 凄くないかそれは」
「自分でもびっくりですよ本当に。まあ色々あって、今は保留させて貰ってるんですけどね」
「おいおいVIPだねまた。色々っていうと、黒沢君の学校の事とか?」
「正に」
打てば響くというべきか、咲との会話に多くは要らない。昔からそうだった。
ノスタルジーめいた気持ちを少しだけ抑えて、壱は今の自分の環境を語り始める。
廃部寸前だった吹奏楽部と、メンバー集めの話から始まり、時に空回りを見せる同じ名前の後輩、よく目の行き届くチューバ奏者。気を使いすぎていた頃の自分を見るかのような気分になるユーフォニュウムの担当者に、天才的な腕前のフルートソリスト。
その1つ1つに、咲は余計な言葉を殆ど挟まず頷いて理解を示して行った。
そして深い溜息と共に頷いて口を開く。
「ハーレムだな」
「あんたそれうちの兄貴と同じ発想だからな」
「っていうかヤバいじゃん! 主に私が!」
「何が」
「フラグばっきばきにおっ立てやがってこのどエロ!」
「いや全然そういう事無いですから。ていうか男1の女4とか俺だって気使いますわ」
「恐ろしい子だわ本当に……それで、件の女の子ってのは?」
「フルートの子です。見た目は幼女」
「あ、ロリコンだったのか。そりゃあオイラにときめかないわけだ」
「話進めていいっすか」
「冷たいなもう……ああ、じゃあ場所変えてからにしようか」
「あ、そうですね」
見ると、お互いの飲み物も空になっていた。同時に立ち上がって手荷物を確認し、外へ。
うだるような暑い日差しが降り注ぐ正午過ぎ。人通りもそこそこに出始めており、2人肩を並べてファミリーレストランなどが立ち並ぶ方面へ向かう。
そのうちのレストランの1つに入り、注文を済ませ、再び向かい合った。
「あー、こういうデートしたかったのになぁ」
「すいませんてホント」
「ままならんモンだね本当に」
どこまで本気か解らない咲の言葉に上手く返せずにいながら、並べられた料理に手を付け始めた。お互いにそれ程の量を注文しなかった辺り、数杯に及ぶコーヒーは胃を相当に圧迫していたと見える。
「それで、幼女とどうしたいって?」
「どうしたいって……ああ、まあ色々ありますけど」
「マジかよ」
「別に性的な意味じゃないからな」
「ふん、プラトニック風め」
「風ってなんだよう!」
また蒸し返され始めた馬鹿なやり取りを咳払いで流す。この無意味な咳払いも咲から伝染したものだと気付きながら、壱は座り直して続けた。
「その子なんですがね。俺と生い立ちが似てる所がありまして」
「うん」
「ま、現在進行形で虐待を受けているようです。止めさせたくはないのかと聞いた事もあるんですけど、特にそういうつもりは無いと」
「それ、不幸ちゃんな自分に酔ってるタイプじゃなくて?」
「痣とか酷いもんでしたよ」
「そっか……」
「俺も、今見せられないですし見たくないでしょうけど腹の所エグいですからね。まあ、一朝一夕でついたものじゃないんだろうなというのは解りました」
例の真顔のまま咲は頷く。この表情の彼女が何を考えているのかというのは、恐らく生涯解りそうにもなかった。
「フルートに関しては、天才以外の言葉は必要無いと思います」
「君がそこまで言う程の?」
「間違いなく。彼女もその気になればプロとして全然通用すると思います」
「うーん、世の中は広いね」
「全くもって。で、まあそういう子なので、俺も随分感けちゃうわけですよ。そもそも、一緒に演奏をしたいなっていうのが付きまとい始めた理由ですけどね」
「うん、凄く良いね。昔の黒沢君じゃ絶対出来なかった事だと思う」
ちょっと笑って、咲は冷たくもなさそうな水を口に含んだ。確かに言う通りだろうとは思う。いつまでも受身であった頃の自分では可奈子をあそこまで引っ張り出す事は出来なかっただろうし、そもそもそれ程に関わろうとは思わなかった筈だ。
「咲さんのお陰です」
「そうかね」
「俺の喋りとかが咲さんまんまだって話、現役の時にあったじゃないですか」
「あー、あったねえ。皆爆笑してたけど」
「あれってやっぱ、俺咲さんに相当影響受けてるからだと思うんですよ。ネタの種類とか方向性まで」
「あたい2号」
「です」
「愛いね全く」
腕を組んでにやけながら、先を促す彼女に頷いて、壱は続ける。
「一応今の所部としての体裁は整ってます。来週はコンクールですしね」
「そっちもこの時期なんだ」
「ええ。曲もいずれ聴いて貰いたいと思えるぐらいいいものが有りますし。なので、今の所問題らしい問題は無いのかも知れません」
「うん」
「ただ俺がこっちに戻って咲さんときちんと話をしようと決められたのは、やっぱりいいメンバーに恵まれたからだと思います。男1人なんで色々頼られたりする中で、色んな人の気持ちを見ました。これといった理由じゃなくて、こう、総合的にというか」
「こうだから、というより、黒沢君自身の成長だと思うぞそれは」
「ありがとうございます。でまあ、敢えて言うならそのフルートの子なんですけど」
「鶴岡さんね」
真顔に、いくらか神妙なものを交えながらの咲の相槌に、壱は頷いたが、しかし言葉は決まらなかった。
未だにはっきりしない。拓の言うように「どうしたいのか」が決まっていないのである。可奈子の現状を憂えてはいるが、それを外から手を入れてしまって良いものかどうか。可奈子の生活にそこまで踏み込んでいくのが自分で本当に良いのかどうか。
考え込み始めてしまった壱を見てか、咲は笑う。
「なんでもおっしゃいな」
「ううん、難しいんすよ」
「黒沢君は鶴岡さんが好きかい?」
「好きです」
「そういうんじゃなくてよ。ていうかお前そんなノリで喋ってるとマジで女泣かすぞ、私以外に」
「や、面目も……」
「口が悪かったな。ううむ失礼。でさ、変態性欲でも異常性愛でもどっちでもいいから」
「その2択なの!?」
「勿論恋愛感情でもいいけどね。どうだ」
「微妙ですね、正直な所。あの子の人格も難はありますけどこの所柔らかくなってきましたし、演奏に関しちゃ永遠に聴いていたいぐらい好きですし。だから、ああいう子に暴力を振るうっていう親父さんが許せないのもありますし」
言葉を少しずつ整理しながら、壱は続けた。
可奈子の男性恐怖症と、何故か許容されている自分。時に見せてくれる柔らかい態度や、信頼に似た感情の動き。日増しに増えていくそういう表情の変化や仕草の変化を喜ばしく思っていた事。
懇々と、思っている事だけを語る事にした。咲なら上手い事まとめてくれるだろうという一方的なものではあったが、果たして彼女はその期待に応えてくれた。
「なるほどな」
「とまあ、微妙なんですよ」
「微妙どころじゃないよ、完全にイカれちゃってるじゃない、鶴岡さんに」
「……そうなんですかね?」
「寝ても覚めても相手の事考えるものばかりが好きって感情じゃないと思うよ。黒沢君の言ってる事はとにかく鶴岡さんにとって辛くない状況は何なのか、って事ばかりさ」
「その答えが出なくてげんなりしてますけどね」
「要らん要らん、思った通りにやっちゃえやっちゃえ。鶴岡さんが、虐待を受けてるっていうなら、警察でも何でも使って解放してあげればいいんだ。それを鶴岡さんが望むかどうかは別問題で、黒沢君が鶴岡さんにとって良い環境になってやりゃいいじゃない」
「でも、俺にそういう資格は」
「資格で人と接するわけじゃないよ。あたい2号な君だが、唯一大事な事だけはコピーし損ねたようだね」
鼻でちょっと笑い、咲はフロアをうろついていた店員に水の差し替えを頼むと、即座に飲み干した。唖然とする店員を見もせずに再度突き出した空のコップが満たされ、店員がそっとテーブルを離れるのを待ってから。
「私が初めて君を見た時の印象から話そう」
恐らく初めて見るような、優しい笑顔になって、壱の手を取った。




