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涙を拭いて、気恥ずかしい気持ちを抑えて、壱は頭を下げた。謝罪よりも礼を篭めた態度に、咲もまた1つ頷いて応える。
「また背伸びた?」
「あ、どうすかね。ちゃんと計ってないですけど」
「うむ、伸びたんじゃないかね。なんかまた少し見上げたような気がするよ、さっき」
「咲さん小さいからな」
「小さくはないぞ、普通だぞ、君がデカ過ぎるだけだ」
「まあそれでもいいんですけど」
「やらしい子だなもう!」
いつもの、壱のよく知るテンションに戻った咲との会話は、様々に及んだ。
壱のここ最近の生活や、或いは当時の思い出など、敢えてお互いに冬の出来事を避けての話題が中心となっていたが、それは彼女が壱に切り出す切欠を丸投げしているからだろうと思えた。少なくとも今はそれに甘えよう、と壱は決める。
「咲さん髪切っちゃったんですね」
「うんまあ、伸び放題だったからな」
「長い方が好きだったんですけど」
「ありゃ、失敗した? 結構気に入ってるんだけどね」
「いや、よく似合います」
「なら良かった」
はにかんで、毛先をつまんで振りながら、咲は残っていたアイスコーヒーを飲み干した。
「お代わりする?」
「ええと。そうですね」
「よし」
いつまでもこんな話を続けていたかったが、そういうわけにもいかない。
壱の考えを、やはりというべきか、咲はすぐに察したらしかった。席を立って、同じ物の差し替えを手に、すぐに戻ってくる。
「ほれ」
「すいません」
「いつでもいいよ」
言って、咲は足を組み、そっぽを向いた。そんな態度が、今の壱には優しい。
周りに客は殆ど居らず、話をするには絶好であると言えた。
「長い上にあんまり気持ちの良い話にはなりませんけど」
「いいとも」
「じゃあ、聞いて下さい」
「うん」
「俺の、産まれの頃からになります」
壱の実父は、ドイツ産まれの画家だった。それ程の知名度も無かったそうではあるが、とはいえ一応生計を立てられる程の稼ぎはあり、日本から移住し、キャリアウーマンをやっていた壱の生母との暮らしは決して悪いものではなかった。別段の贅沢も出来なかったが、しかし2人は出会い、愛し合い、慈しみ合いながら、やがて籍を同じくする。
結婚後程なくして、母は妊娠をした。父もそれを喜んだ。母は当然仕事を休む事になり、収入が一挙に少なくなると、いくらか苦しい生活が始まった。
ただそんなものも、2人にとってはさしたる障害ではなかった。父には母が、母には父が居れば、それだけで幸せであった。2人を知る人々は、あれこそが良き夫婦の絵だと、褒めたものだと言う。
そして壱は産まれた。ドイツ、シュトゥットガルトに生を受け、取り上げられた男子の生誕を、その時は誰もが喜んだのである。
しかし母は産後、すぐに体の調子を崩し、壱が産湯から上がって間もなくという程すぐに、息を引き取った。長きに渡る労働の過酷さがあったのか、それとも彼女自身の体の弱さか。少なくとも、出産に耐えられないと判断されたわけではなかったのに、しかし母の体は朽ちた。
父は絶望した。したが、腕には我が子が居た。この子だけでもどうにか守っていかなくてはいかない。そう考え、今まで以上に一心不乱に芸術へ取り組んでいく。
しかし芸術の価値とは本来的に他人の目が決める物である。父がどれ程感情を込めて描こうと、キャンバスに乗せられた線と色の羅列は、中々認められはしなかった。2年、3年と年月を重ね、己の食事も耐えながら壱に食べさせ、そして当然と言うべきか、父もまた体を壊す。
筆の取れない無名の画家に差し伸べられる手など無く、代わりの仕事を探してみてもちょっとした疲労がすぐに病気になる男を雇う所など無く、親子は日に日に弱っていくだけだった。
それまで住んでいた小奇麗なアパートを引き払い、所謂貧民街と呼ばれるような汚いアパートへ引っ越したのは、壱が3歳の頃だった。
壱は自分の本当の名前を知らなかった。ただ父が、整頓されたペイントナイフを指差して数える時のようにアインとだけ呼ばれ続けたために、アインなのだろうと思っていただけである。
おかしな名前だという気は勿論していたし、近所の子供からも笑われたが、特に気にはならなかった。ハーフにしてはあまり父に似なかった顔形も彼らの嘲笑の対象になったが、それもどうでも良い事に思えた。ただあるのは、苦しげに横たわり、キャンバスを睨み付ける毎日を送る父のため、何かをしなければならないという漠然とした使命感のようなものだけで、そしてそれが極々安易な手段を生み出させるのに然程の時間もかからなかった。
3歳児にしては膂力もすばしこさもあった少年、アインは、その運動能力を生かして、近所の悪餓鬼と徒党を組み盗みを働いた。荷下ろしをしているパン屋のトラックからパンをひったくってみたり、店先の飲み物や酒を奪ってきたりという悪質なものである。常習犯であったのに警察に捕まらなかったのは、偏に貧民街に住む連中の妙な連帯感のお陰だろう。アインという無機質な名前で、日本人らしい顔立ちをした子供も含め、街は盗人を守った。
そしてそれら戦利品を、アインは父の元へ運ぶのである。父は何も言わなかったが、体は食べ物を欲するらしく無心に食べ、飲み、次第に体を起こせるようになってきた。そしていつからか、睨んでばかりだったキャンバスの前に立つようになったのである。
数少ない知識から、父が「画家」という職業なのだと知り、今度はそれに纏わる道具の調達をアインは始めた。絵の具を始めとした細々とした物を「貰った」と称して持ち帰る。
そしてその時だけは、父は怒ったものだった。こんなもので描いても無駄だ、という、アインにはよく解らない理屈だったが、「怒り」という形にせよ父が向けてくれる感情が、微かな喜びでもあった。
4歳になった頃、あまり金にならない絵画を続ける父に、思い切って母の所在を尋ねた事がある。その瞬間の父の形相は、思い出すだけでも震えが来るほど恐ろしいものだった。手にしていたペイントナイフを横凪にし、腹から薄く流れる血を見ても叫び声すら上げられず、アインは逃げ出した。
どこをどう走ったのか解らなかったが、家を飛び出した時には真上だった太陽も疾うに沈み、真っ暗な空の下、アインはやはり自宅に戻っていた。ここ以外に、行く場所等無かったのである。盗み仲間も、まだまだ小さなアインを持て余している所があり、そういう空気を鋭敏に察していた少年は、彼らを頼る事など出来はしなかった。
部屋に入ると、父は何も言わずにアインの髪を掴み、ベッドに縛り付けた。そして絵の具の付いたままのペイントナイフを振りかぶり、同じように切り付ける。
それからの事は時間の感覚も曖昧だったが、およそ1年間、食べ物と水分を与えられながら、延々と腹を切り裂かれ続けた。元々物を切るためのものではないペイントナイフでは致命傷になど全くならなかったが、それだけに鈍い痛みが続き、鋭い痛みが上書きされていく。
父は延々と「お前の所為だ」という言葉を繰り返し続けた。「お前の所為でユリコは死んだのだ」という、何かの呪文のような響きを持つそれで、なんとなく母の顛末を知り得た。
そのうちにアインは感情を消す事を憶えた。痛みに対して痛いと思うから苦しいのであり、それを器用に頭の中でカットするようにしたのである。
考えて出来る事であるかどうかは別として、しかしアインはその時、それをやってのけた。或いはそうしなければ体よりも先に心が壊れていたに違いない。その時点で十分に痛めつけられていた心ではあったが、アインにとっては目の前で狂ったように自分の腹に傷跡を描き続ける男の存在を認識から消すしか、己を保つ方法は無かったのである。
それから、どういう事が起きたのかは解らない。解らないが、壱は気付けば病院の清潔なシーツの上で、白衣を着た優しそうな男女に見詰められていた。
「咲さん」
「……」
「すいません、気分悪いですよね」
なんとも言えない顔の彼女に、なるべく明るく言うが、彼女は真顔のまま首を振るだけだった。
「とまあ、憶えている限りは、そんなもので」
「うん」
「あの時、咲さんの合格祝いで、ケーキを買いましたよね? それで、咲さんはナイフを持って戻ってきた」
「それが、原因?」
「それだけではないと思います。例えば俺の母や妹が包丁を持って料理をしていたりするのを見ても、特になんともないんです。まあ、もっと小さな頃には、兄が玩具のナイフを持ってただけでおかしくなりましたが」
「お兄さんっていうと……私会った事あるね」
「はい。俺が転校した後、咲さんうちに来られたそうで。その時、うちの兄貴眼帯をしてましたよね?」
「……」
「ま、想像通りで。あの人の片目は、事故とはいえ俺がやっちゃいました」
喋り続けていた所為かからからに渇いた口の中を、既に氷の溶け込んだ水を含んで潤す。咲の眉間に小さく皺が入っているのが、なんとも申し訳無く思えた。それでも、こんな事を話せるのは家族以外ではこの人ぐらいしか居ないのである。そして、話す義務もまた、あった。
「今更ですけど……」
「うん?」
「こんなに可哀想な俺だから勘弁してね、って話ではないつもりです」
「黒沢君、それはあたいを侮りすぎさ」
「すいません。一応」
「本当にそんなつもりなら、わざわざ逃げ出したり、その上帰ってきたりはしないもんな」
「だから好きですよ、咲さんが」
「ははは」
偽らざる気持ちではあったが、咲は小さく笑って流した。微かな間の後、壱は再び続ける。
「俺の名前は、こっちへ来て、今の両親がつけてくれたものです。アイン、ドイツ語で「1」ですよね」
「それで壱か」
「安直な気もしますけど、でも万感込めた名前だったと思います。あんな者でも、実父が俺を呼ぶ時の名前ではあったんですから」
「そうなのかもね」
「俺が咲さんにああいう事をした理由というか、原因というか。半分以上は、今話した事が根っこにあります。刃物を持った人が途轍もなく恐ろしい物に見えて、動かないようにしないといけない、と思ってしまう。これ、理解なんて絶対出来ないと思うんですけど、止まらないんですよ、1度始まっちゃうと」
「あの時、黒沢君の様子は確かにおかしかったから。なんとなく、意味は伝わる」
頷いて、咲もまた氷の見えないアイスコーヒーを口にし、苦そうな顔で飲み干す。
「あの時の事はね。アンラッキーだったんだと思う。私が黒沢君のそういう事を知る機会が無かったのも、たまたまケーキを強請っちゃった事も含めてさ」
「そう、言ってもらえると」
「半分以上、って言ったけど、残りは?」
「多分咲さんとやりたかったんじゃないですかね」
「ほう、あたいに夜のサックスを吹かせたかったとかそういうアレだな」
重苦しい空気になりかけていた所へ、こうして冗談めかした言葉を投げれば、咲は必ず同じような高さに返してくれる。有り難い、得がたい存在だった。同時に、緊張の長続きしない2人でもあるなとも思う。
「夜の……ええ?」
「すまんね、最近オッサン化著しいんだ」
「そのようで。でもまあ、本当、あの当時普通に咲さんをそう言う風に見てましたよ。咲さんは全然踏み込んでくれませんでしたけど」
「だってそりゃ黒沢君がまだ最後の方に壁作ってるしさー」
「いやだって、俺はこういうヤツですから」
「じゃ、私が押し倒してたらノリノリだったかい?」
「間違いなく」
「今の私天然フラグブレイカー過ぎるよ」
「寂しいもんだね」
ちょっと笑い合って、なんとなくお互いに気恥ずかしくなりながら、沈黙を挟む。
毛先を指に絡めながら、咲が溜息混じりに口を開いた。
「そういや、脱がされかかったしなぁ……」
「す、すいません、本当に」
「期待が無かったわけじゃないんだけどな。うんまあ、アンラッキーよ」
「はあ」
「アンラッキー以外に表現のし様が無い。うん、黒沢君は確かに色々抱えてて、それが原因であんな事になったって言うのは簡単だけどさ、もっと上手く行ってた可能性もあるわけじゃない。そっちに行けなかったのが不運だっただけで、私は今も昔も君の人格はずっと好きだから」
「……告白ですか、それは」
「嫌いな子を引っ張りまわしたりするもんかい」
不貞腐れたように言いながら、それでも目を合わせてくる咲を見て、瞬間顔が熱くなるのが解った。そもそも壱が心から意識した異性というのは、殆ど咲が最初の1人のようなものなのである。そういう女性にここまで言われれば、どういう顔をしていいか解らない。
「おや、照れとるね」
「照れますわそりゃ」
「んで、返事は?」
「は?」
「こくはくの返事」
彼女もまた照れ臭いのか、馬鹿馬鹿しく「こくはく」と間延びしたイントネーションでそんな事を言う。
この言に乗ってしまっていいものかどうか束の間考えて、壱は頷いた。
「今は、まだ」
「そうだよねえ」
「解りますか?」
「あー、うん。君がこういう話をしに来た時点でね。なんか、凄く色んな体験をしたんじゃないかとは想像つくわけよ。で、私みたいないい女に保留かけるぐらいだから、その体験の対象って女の子なんじゃね?」
「エスパー……?」
「うおおやっぱ女かよ! 結構期待してたのにさ!」
「いや、ほんと、申し訳……」
「1年以上かけてフラれるとかギャグ過ぎじゃないかね私」
「や、でもその子にも別にまだ恋愛感情があるかっていうとよく解らなくて」
「話してみるか? ついでに」
ちょっとつまらなそうな顔を作りながら、咲はそう言って、またアイスコーヒーの差し替えに立った。
その背に、小さく礼をした。




