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目覚めるとすぐに、壱はシャワーを浴びた。時刻は9時を少し回った程度だったが、既に父と兄は院へと出ているらしく、頭を拭きながら戻った居間には母だけが居た。
「早いわね、休みなのに」
「ちょっと出るからさ。夜には戻ると思うけど」
「そう。朝は?」
「貰う」
言うと、母は炊飯器を開けて米を盛り始めた。そんな作業をなんとなく眺めていると、味噌汁に香の物といった有り触れたものがすぐに並べられる。引っ越してからは、随分と忘れていたようなラインナップだった。
「よく漬かってて美味しいわよ」
「うん、美味い」
母が美味いと言うものは何でも美味かった。小さな頃からそれは変わらない。引いては、この家がこれからもきっと何の代わり映えも無く在り続けるという事だろう。起き抜けだったが、なんとなくそんな小難しい事を考えてしまう。
食事を終え、冷たい麦茶を飲み干し、身支度を整えた。部屋に戻ると、丁度自室から出てきた翠と鉢合う。
「お、部活か」
「うん、ちょっと早いけどね。モップがけしとかないと」
「マメだな」
「ほら、翠自分だけ2年生のレギュラーだから」
だから、そういう事を自分からやっておく事でやっかみを避けようと言うのだろう。なんとも、大人びた妹ではあった。拓辺りの助言なのだろうが、成る程大切な事ではある。
「大したもんだ。頑張ってな」
「うん、行って来ます」
敬礼する翠に同じく敬礼を返し、部屋の中を漁る。転校前の学校の連絡先の記されたノートを引っ張り出して、電話をかけた。以前所属していた吹奏楽部の、名ばかりの顧問が今居るかどうかを確かめたのである。折り良く取り次いで貰えたので、ともあれそちらへ向かうと告げて電話を切った。
拓から散々に言われた事でもあった。
黒沢壱が何故転校をしたのか。その最たる理由の、後始末。
或いはこれで、自分は今度こそ家族に迷惑をかける事になるかも知れない。桐田咲も、今は壱の存在など忘れて気ままに暮らしているかも知れないのだ。だからそれを敢えて掘り返すような事をするというのは、簡単に言えばあまり賢い行為とは言えない。
だが、壱は桐田咲が好きだった。恋愛感情よりももっと手前で、異性に対するそれよりも、ただあの人間に惹かれた。そして、愚かな事にそれを自ら手折ろうとした。
言い訳はいくらでも出来る。人が手に持っている刃物を見るとどうしようもない程の恐怖に駆られ、それを排除しなければならないという強迫観念に襲われるのは、医学的には説明がつくものだ。一種のトラウマと、それが励起させる防衛本能の複合が、過剰に壱を暴力的にさせる。世間で言う「心神喪失」のようなものだ。
だからこのまま逃げ切ってしまう事も出来るだろう。今更になって桐田咲が自分を告発するような真似はしないだろうし、もしされても、暴行に及んだ理由は正確に立証されてしまうのだ。
それは望むところではない。壱にとってもそうだし、拓もまたそのままではいけないと言い続けた。全てを自分の胸に仕舞いこんだ兄は、それ以上は甘やかさず、しかし転校について尽力してくれた上に暫くは好きにさせてくれたのである。そういう男の顔を立てるためにも、これはやらなければならない。
結果がどちらに傾くかは、考えようも無かった。無かったが、しかし壱の不在に訪れたという咲を思えば、話ぐらいは聞いて貰えるのではないかとも思える。
手荷物を確認し、家を出て、真っ直ぐに母校へ。卒業もしていないのに母校というのもおかしなものだったが、通わなくなってから半年以上になるこの校舎は田舎らしい広々とした敷地も相俟って、どこか懐かしさを思い起こさせる。
「失礼します」
声をかけて職員室へ入ると、すぐに気付いてくれた顧問の教師が腰を上げる。
「おう、久しぶりだな。どうだ体は?」
「お陰さまで」
桐田咲への暴行の後、壱は急性の病にかかった事になっていた。その治療と、学業の継続の両立の為に、転校したと言う名目が一応はある。
「で、どうしたんだこの暑い中」
出してもらった冷たい緑茶に口をつけてから、壱は答える。
「桐田先輩って居ましたよね。俺らの2個上の」
「おう、あいつな」
「連絡先なんか、教えて貰えないかと思いまして。お世話になりましたし、こういう時にしか会えませんし」
「なんだ、お前ら付き合ってたんじゃないのか?」
「周りは何度もそう言いましたね」
「そうか……見ていてやかましいぐらいに仲が良かったんだがな」
何も知らないが故に出てくるそんな言葉がいくらか心に突き刺さるが、壱は努めて平静を装って愛想笑いを返す。
「で、住所録か何か無いですか?」
「うんまあ、お前ならいいだろう。ちょっと待ってろ」
本来こういうナイーブな情報は表に簡単に出さないのだろうが、顧問は自分を信用してくれるらしい。
とりあえずは落ち着いた。渡された少し古臭い名簿から桐田咲の名を探し、手持ちのメモに書き写す。
「すいません、助かります」
「なに。それで、向こうでもやってるのか?」
「はい。楽しく、やってます」
心からの台詞を、嘘や曖昧さに塗れていない言葉を漸く口に出来て、内心ほっとする。壱の心境を読み取ったように、顧問は満足げに頷いてくれた。
「それは良かった。でもあんまり無理はするなよ」
「有難うございます」
それから二言三言交わし、壱は学校を出た。メモを取り出して、確認する。
咲の家は、壱の自宅とは学校を挟んで丁度正反対に位置する。電話番号も一応書き写してはきたが、咲以外の人間に出られてしまった時の事を考えて、やめておいた。大人しく、住所にそって歩く。
見慣れた景色はどれも夏のむせ返るような青臭さを引き出し、しかしアスファルトからの熱は楠台に居る時よりも余程ましだった。
どんな顔をすればいいのか、何から話せばいいのか。そもそも、拒絶をされたらどうするか。
考える事は多かったが、そのどれにも答えは出て来なかった。自分がやるべきことを、やる。
若菜に語った事を思い出した。何かにつけ、最後には「ちゃんと謝れ」というような事を言った。偉そうなものだと自嘲するような気分になってくる。その謝罪すらも放り出して半年以上逃げ回っていた男の台詞ではない。
軽トラックが脇を通り抜け、民家越しに田んぼ道が見えるようになってくると、住所に書かれた番地が近くなってきている事に気付いた。電柱に書かれた地名と数字を見比べながら、右に左にと折れていく。
そして漸く「桐田」の表札が掲げられた家を見つけた。ごくごく平凡な、庭付きの2階建て。リフォームでもかけたのか外観は綺麗な部分が多かったが、塀や門を見るに築年月はそこそこにありそうである。
ここで待つかどうか少し考え、それしか無いと思い直し、壱は通りの見渡せる日陰に立つ事にした。傍から見れば不審者かも知れないが、何か言われればその都度説明するしかないだろう。多少面倒だが今はこれしかない。
だが、その面倒もかけずに済むみたいだと思ったのは、いくらも待たずに見覚えのある人影が角を折れて通りに入ってきたのを認めたからだった。
長くも短くもない髪、ごく平均的な身長。歩き方に特徴があるわけでも、何か珍しい荷物を持っているわけでもない。なのに、壱にはそれが桐田咲だと即座に認識出来た。距離にすれば50メートルもありそうなのに、かの先輩以外には考えられない。
向こうも、恐らくは壱に気付いたのだろう。止めそうになった足を、いくらか早足にしながら向かってくる。寄りかかっていた体を起こし、待ち構えるように立つ壱まで、躊躇い無く進んできた。もっと警戒などをしても良さそうなものだったが、桐田咲とはそういう人間だったと思い出す。
蝉の鳴き声が聴こえなかった。代わりに、小さく吐いた咲の溜息が聞こえてきた。
じっと見られる。逸らす事を許さない眼差しと会い続ける視線は、身長差から壱が見下ろしている形なのに、どうにも圧倒的な威圧感を持ってぶつけられ続けていた。
どのぐらいそうして見詰め合っていたか解らない。ただ不意に、咲が鞄を持ち直した事でそれは終わる。
「帰ってたんだ」
何か返事をしようと思ったが、何も出来なかった。
黙っていると、片腕に衝撃。両手で持ち直した鞄を振りかぶって、咲は思い切りぶつけてきた。痛くもなんともない筈のそれが、しかし壱にとっては叫び声を上げそうな程の痛みをもたらす。
「何か、言ったら」
「すみませんでした」
漸く口に出来たのは、そんな言葉だった。咲はあの真顔のまま、頷く。
「用事は?」
「話をさせてもらいたいと」
「わかった」
また頷いて、咲は背を向けて歩き出す。確かにここでこのまま話すには、壱の持っている話題はあまり気分の良いものではない。黙って続く壱を振り返って確認する事もせず、身長からは見合わない程の早足で進む彼女に遅れまいとしながら、駅前へ出た。
その中、時間帯からすれば随分と空いているチェーン展開の目覚しい喫茶店の前に咲は立つ。
「ここでいいかな」
「……そうですね、はい」
「うん」
揃って入り、冷たい物を注文して、店内の中でも死角になり易い場所を選んで座った。向かい合って見ると、やはり綺麗な顔立ちをしている、と素直に思えた。この人の言う事、やる事、全てに影響を受けて、黒沢壱の対外的な人格は練られたと言っても過言ではないのである。そう思うと、自分のした行為への罪悪感と、それでいてそういう人間が存在するという事実への喜びがない交ぜになって、消える。
座って、咲は1つ溜息。
「暑いねしかし」
「はあ」
「向こうではどうなの?」
「どうって」
「吹奏楽部。入ったんじゃないの?」
「あ、まあ、はい」
「そっか」
ちょっと唇の端を持ち上げて微笑み、咲はアイスコーヒーに口をつける。
どうしたのかと壱が聞きたくなる程、当時となんら変わらない咲の物腰に、二の句が次げなくなってしまう。あれこれと言葉を探すも、爪を気にしたり髪をちょっと払ったりという仕草がいちいち目に付いて、固まりつつあった発言も霧散してしまうような気分だった。
「で、話ってなんだね」
「あ、はい」
助け舟とばかりの言葉に、壱は頷いた。なんとか、続けられそうだった。
「まず、すみませんでした。あの時」
「それはもう聞いたよ」
「それでも」
「うん。それで?」
言葉は素っ気無いが、咲の態度は壱が困る程に柔らかい。気を取り直しながら、続ける。
「その、何でああいう事をしたのか。先輩には知って貰おうと思いまして」
「先輩ぃ?」
「……あ、ええと」
「あのさ」
椅子に座りなおし、テーブルに肘をついて指を組むと、そこから目だけを覗き込ませるようにしながら、咲は言う。
「黒沢君が凄く気に病んでるのは解る。うん、正直怖かったからね。でもな、それで見限るほど私は君に辛く当たってきたつもりは無いのよ」
「……」
「それを君から切り捨てるって言うならそれでもいいよ。私は泣くがね」
「でも俺は」
「何を遠慮してるんだい。君はさっき謝って、私は1発引っ叩くことでとっくに許したつもりなんだけどね。いい加減昔の通りにやれないかな」
泣きそうになりそうな程優しい言葉だった。態度も、取り繕ったものではないとよく解るものだった。
だから尚更、壱は言葉に詰まる。こういう人に、暴力を振るった己が、許せない。今更思うような事ではなかったが、それでも吐き気がするような気分になった。
「黒沢君や」
「はい」
「元気だったかい」
「はい」
「良かった」
そう言って半年以上ぶりに見せられる咲の笑顔は、壱の視界ですぐにぼやけてしまった。




