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練習は、やはりというか、全く捗らなかった。若菜は無論の事、ユキもキーを眺めてぼうっとしている時間の方が長かったし、可奈子もまた気付くと途中で演奏を止めていた。ここまで自分の心を揺さぶる存在があったものか、と思わざるを得ない。
そんな、形だけの部活時間が30分も過ぎた頃になって、ユキが慌てたように立ち上がり、ポケットから携帯電話を取り出した。
「もしもし小枝ちゃん?」
そんな第一声の後、ユキは重たい物を持つかのように携帯電話を両手で持って、何事か会話を交わす。若菜がたまりかねたように可奈子を見るが、首を振って返すのみにとどめた。
程なくして通話は終わり、ユキは携帯電話をポケットへ。
「ユキちゃん」
「微妙、だってさ」
「微妙……?」
「ともかく、今日明日にどうこうなるような事じゃない。今は投薬も済んで、目も覚ましてるってさ」
「そ、そっか」
ほっとしたのか、若菜が力なく崩れ落ちるように椅子へ体を預けた。可奈子も、知れず漏れた溜息を隠さない。
微妙、というニュアンスは解らないが、ともあれ絶望的ではないのだろう。それだけでも、収穫と言っていいのかも知れない。
「さて、どうしようか。このまま練習続ける?」
「お見舞い……」
「と若菜は強硬に主張するんだけど鶴岡はどう思う」
「南先生はなんて?」
「今は小枝ちゃんがついてるみたいだから、見舞うだけなら、とは言ってくれたよ」
若菜を見る。縋るような目だった。
壱ならどうするか考えて、可奈子は頷いてから、口を開く。
「顔だけでも、見てきたらいいと思う」
「鶴岡さん」
「そうだね、とりあえずこのままじゃ落ち着かないか」
ユキもそもそも見舞ってやりたかったのか、素早く腰を上げて楽器を片付け始めた。若菜もそれに倣うのを見て、可奈子もまたフルートに軽くクロスをかけてからケースへ仕舞いこんだ。
ここまで他人の心配をするのも初めてかも知れないと思いながら、戸締りの確認をし、揃って学校を出る。病院は丁度ここから歩いていける場所にある秀峰大学病院という大きな病院で、途中見舞いの品になりそうなものを買い込み、真っ直ぐに向かった。
病室の番号は既にユキが知らされているらしく、迷わずに進んで行く。階段を上がり、2階のフロアの少し奥まった大部屋に、咲は居た。
「咲ちゃん」
真っ先に駆け寄ったのは若菜だった。南教諭が立ち上がって3人を迎える。
「みんな」
「ま、練習にならないしさ」
小声で言うユキの言葉に頷きながら、ベッドに横たわる咲の顔を見た。
呼吸器をつけられ、昨日見たような青白い顔のまま空ろな眼差しを向けてくる後輩の姿は、嫌でも姉のものと重なった。若菜が何事か声をかけているが、咲は特に反応を見せない。
「ごめんね柴崎さん、今ちょっと薬が効いてうつらうつらしてたから」
「あ、そうなんですか……ごめんね、咲ちゃん」
ベッドに身を乗り出すような体勢だったものを少し引き、若菜は咲の頬にかかった髪をちょっと払う。喋るのも辛そうな顔だったが、何か言いたそうでもあった。
無言で、咲とそれぞれが見詰め合う。どのぐらいの間そうしていたのか解らなかったが、不意に目を閉じて顔を背けた咲の瞼から涙が零れるのを見て、可奈子は胸を打たれた。そうなってから初めて、菱沼咲という後輩を取り巻いているこの現状を、たまらなく憎らしく思っている事に気付く。
何故彼女がこんな目に遭うのだ、という理屈も論法もあったものではない、しかし明確な苛立ちが、延々と胸中を駆け回る。
咲の涙を見てか、何も言えなくなっているユキと若菜を押しのけるようにして傍に立つ。
手を取った。冷たい、となんとなく思う。
「菱沼さん」
「……」
閉じていた目をゆっくりと開いて、背けていた顔をそっと戻し、咲は可奈子を見る。怯えとも悲嘆とも取れないような表情が、また可奈子の心をざわつかせた。
「先生、話は、出来ますか?」
「……うん。呼吸器はあくまで補助だから……でも、あんまり長くは」
「菱沼さん、少し、話していいかしら」
間を置かず、咲は小さく頷いて、呼吸器を外す。やっと顔が見られた、とそれだけを思う。
「菱沼さん。あと、1週間しか無いわ」
「……ごめ」
反射的に謝ろうとした言葉の先を制して、可奈子は続ける。
「養生して、早く、戻りなさい」
それしか言う事は無かった。咲は押し黙り、目を閉じて、頷く。
可奈子が廊下に出ると、南教諭だけは傍に残り、ユキも若菜も一緒になってついてきた。
「鶴岡、いいところあるじゃん」
「そう」
「うん、鶴岡さん優しい」
目元を擦りながら、若菜は心底嬉しそうに言った。よく見ると涙ぐんでいる彼女にユキも気付き、ぎょっとしたように体を引く。
「ちょっ、何泣いてんの若菜。不吉だからやめなさいよ」
「だ、だって咲ちゃん見てたら、なんか」
「情けないなもう。あんたがそんなんじゃ咲ちゃんも安心して寝てられないでしょ」
「可愛そうなんだもん」
「解るけどさぁ……」
「とりあえず、学校に戻る?」
可奈子が言うと、ユキはそうだねと相槌を打ち、若菜は頷いて返してきた。
今やる事と言えば、練習しか無い。無駄になるかも知れない可能性は確かにあったが、だからといってその為に練習をしないのは違う、と思うのだ。
あと1週間で咲が復帰出来るかどうか。考え込みそうになった所で、南教諭も廊下に出て来る。
「ありがとうね、皆」
「何言ってんの、可愛い後輩のためじゃん」
「先生」
「何、鶴岡さん?」
「復帰の見込みは?」
端的に問うと、南教諭は難しい顔になって、何を思ったか3人の横を通り抜けた。ついて来いという事だろうと察して、後に続く。自動販売機の居並ぶ休憩所に人影は無く、落ち着いて話が出来そうだった。ソファタイプの長椅子に、南教諭と向かい合うようにして3人が並ぶ。自動販売機のサーモスタットの低い音だけが支配する空間に、可奈子は今一度疑問を投げかけた。
「どうなんですか」
「やっぱり、微妙な所なのよ。あの子の調子が戻ってもおかしくないし、戻らなくても当然というか」
「はっきりしないなぁもう」
「前にもあったのよ、無理をし過ぎて倒れちゃうって事が。中学生の頃だけどね。体が大きくなって、体内の酸素の量が増えると、あの子の肺にかかる負担は極端に大きくなって」
「どういう病気なんですか?」
若菜が当然の疑問を口にする。1つ頷いて、南教諭は口を開いた。
「あの子、小さな頃に肺水腫って病気にかかりかけてね。まあ、雑に言うと汚い空気に汚れすぎて肺が腐る病気なんだけど」
「肺が、腐る……?」
恐ろしそうな顔になる若菜をユキが目で制するのが、視界の端で解る。
「それで、実際にそうなる前に、患部を切り落とす事になったの。今のあの子は普通の人の4分の3の肺しか無い」
想像も付かないが、それは苦しい事なのだろう。体が成長すれば、当然血液内を巡る酸素の量は多くなる。咲の成長はそのまま咲の負担になるという事だ。可奈子の人体に関する知識ではその程度の事しか想像できなかったが、それだけでも十分彼女の「無理」がどれ程危険なものなのかは解った。
それでも、自重をせず、自愛を知らず、咲は懸命に部活動を続けてきた。或いはどこかで苦しんだ事も一再ではないのだろう。そういう時の後輩に気付けなかった自分を、薄っすらと嫌悪するような気持ちに可奈子はなる。
「鍛える意味でも、吹奏楽をね。水泳をやらせるには危険があり過ぎたから、って」
「でも無理をしちゃった、と」
「うん。常日頃から言い聞かせたし、黒沢君にはお願いもしてあったんだけど、ね」
「あ、そういえば黒沢君は今日帰ってくるってさ」
「そうなの……なんとも、間の悪い事ねえ」
それ以外の表現は無いだろう。苦笑いをする一同。
1つ咳払いをして、南教諭は椅子に座りなおしながら続ける。
「とりあえず、あの子の推移は先生が伝えるから。皆は、練習を続けてくれるかしら?」
「わかりました」
真っ先に返事をする若菜に、ユキも可奈子も後追いすると、満足そうに南教諭は頷いて見せた。
今一度咲の顔を見てから、病院を出た。疲れの見える彼女の表情はやはり普段からは想像も付かないほど変化に乏しいものだったが、それでも意志の強さは見て取れた、と可奈子は思う。あの分ならば、どうにかなるだろう。希望的観測だが、そう思う事にする。
「でも、ほんとにどうなるのかな、わたし達」
たまりかねたように、帰りしな若菜が呟いた。ユキが何か返事をするだろうと思って黙っていたが、彼女もまた難しい顔をして押し黙っている。溜息を1つ吐いて、可奈子が代わった。
「考えても、しょうがないでしょ」
「そうなんだけど」
「柴崎さんは、考えすぎると思う」
「じ、自覚はあります……」
「演奏の時も、色々と考えすぎて、だから躓くんじゃないかしら。少し大きく、構えてみたら?」
「うう、心と耳が痛い」
「いいぞ鶴岡、もっと言ってやれ」
「ユキちゃんまで」
素直な感想を口にしただけなのだが、なんとか空気は変わったようだった。
学校へ戻り、再び音楽室へ。締め切っていた為に、纏わり付くような暑い空気がこもっていたが、すぐに換気をして事なきを得た。過剰な湿気は色々な楽器にも優しくない。
練習を再開した。3人で、出来るだけの事をやる。サックスも無ければフルートも1本足りないが、しかし可奈子にはきちんと足りない分の演奏も聴こえてくるのだった。この場所で、長い時間演奏を続けてきたのだ。居なくても、当然それぞれの色の出た音色は頭の中で反芻される。
ただそれだけに、不在が浮き彫りになるような気もして、可奈子は寂寥感に似たものを感じざるを得ない。誰かが居ない事に気持ちを動かすのは、恐らく初めてではないか、とすら思う。
正午を過ぎ、午前に割り振られた練習時間も終わりを迎える。言葉数は少なかったが、それだけに充実した濃密な練習をしていたと言っていいだろう。ユキにも若菜にも疲労は見えるが、ただ単に心労から来るものばかりではない事は、なんとなく察する事が出来た。
「そろそろ上がろうか」
3人だけの合奏を終えてのユキの言葉に頷き、可奈子はフルートを片付ける。2人が楽器を準備室へ戻し、揃って音楽室を出た。
不安は多くあったが、それでも、可奈子は今あるこの連帯感を大切にしたい、と思う。家に帰れば、また痛い思いもするだろうが、そんな事は些細なものだった。今の自分は、恐らく、認め難い事ではあっても、この部員達とやる音楽を心から好きになっている。足りなくなって初めて気付くのも愚かなものかも知れないが、実際にそう思えた事が、可奈子にとってはひどく嬉しいように思えた。
昇降口に差し掛かったところでふと思い立ち、可奈子は1人残った。どうしたのか、と尋ねる若菜に大した事ではないと告げて、校内に戻る。保健室へ。
盆休みもありひょっとしたら不在かも知れなかったが、いつか「年中無休だ」と言っていたのを思い出したのである。扉をノックすると、いつものぶっきらぼうな「入れ」の声。
「なんだ、鶴岡か。珍しいな夏休みに」
「今いいですか」
「いいとも」
微笑んで、保健医――壱の言では御堂という苗字の女性の前に腰掛けた。何かデスクワークらしいものをしていたようだったが、それは乱暴に脇へ避けて、可奈子に向き直ってくれる。職業上とはいえ色々とお節介な人だが、こういう所は素直に有り難いとも思った。
「どうした」
「1年生の、菱沼咲を知っていますか」
「ああ、勿論。吹奏楽部だよな」
「体のことも?」
「そりゃあね。入る前に、生徒の重大な疾患なんかは一応私の所まで上がってくる事になっているから」
「倒れました」
「ほう」
単刀直入過ぎる物言いでは有ったが、御堂教諭は特に顔色も変えずに受ける。
「来週、コンクールなんですけど。今病院で、呼吸器もつけてて」
「あの子の事は、南さんに?」
「切除をしたとか」
「ならいいか。そう、菱沼さんは常人より極端に劣った呼吸器系を持ってる事になるな。その彼女が、どうしたんだ」
「出来れば、コンクールに、出して上げたいんです」
「気持ちは解るが、私は別に医者じゃないから、治してやることは出来ないよ」
「それは解ってます。だから、引率を、お願いできないかと」
言いながら、最早可奈子は自分の行動に疑問を差し挟まなくなっていた。ほんの3ヶ月前までならどこを押しても出なかったような台詞である。そういう変化を、何故か今は快く受け入れていられる。原因も何も関係無く、今出来る事をしようと思っているだけだった。
可奈子の申し出に御堂教諭は驚いた顔をしたが、すぐに微笑んで見せた。
「そりゃ、お前が考えた事か?」
「はい。さっき」
「黒沢辺りの入れ知恵じゃなくて?」
「彼は今、帰省してます」
何故ここで壱の名が出るのかは疑問だったが、捨て置いて可奈子が返すと、また1つ頷き、御堂教諭は笑う。
「わかった。そういう事なら断るわけにはいかない。コンクールはいつだ?」
「20日です。殆ど1日がかりになると思いますけど」
「いいよ、引き受けた。ただ、当然の話だけど、菱沼の方……病院が外出を許可しないと駄目だ。私はあくまで、少ししか出来ないあの子の無理に、もう少し余裕を持たせてやれるだけだから」
「解ります」
「それにしても、いい事考えるようになったな」
「そうですか」
なんとも言えない気分だったが、御堂教諭は嬉しそうだった。
とりあえず、こちらが出来る事はこの程度だろう。礼を言い、保健室を後にした。今の気分なら、家に帰っても普段より憂鬱にならずに済むかもしれない。そう思うと、足取りも軽かった。




