5
一先ず若菜の到着を待とうという事になり、可奈子は暑そうに胸元を扇いで風を入れるユキに、飲み物を買ってきた。こういう事を自発的にやるようになった自分にも、内心驚きはある。以前なら、飲み物を買ってきたらどうだと言うだけだったろう。
突然姿を消し、パックのジュースを手に戻ってきた可奈子を驚きの表情で見てから、しかしユキははにかんで礼を言い、口をつけた。可奈子も一緒に買ってきたものを啜る。
「あーもう、なんであんにゃろうは居ないかねこういう時に」
一息ついたのか、ユキの苛立ちは壱に向いたらしい。髪を掻きながら、吐き捨てるように言う。
「確かに、間が悪いわね」
「あ、そうだ、黒沢君にはどうしようか。部長だし、気にしてたし、一応」
「止めた方がいいわ」
「なんで?」
「彼にだって、こういう環境を忘れていたい事も、あると思うし」
不思議そうな顔をするユキだったが、そう、とだけ呟いて壱への連絡はしない事に決めたらしい。
今の壱は、恐らく何か、大きな事をしようとしている。誰かが見れば笑えるような事かも知れないが、少なくとも壱にとっては大切な、何か。
それは直感というよりも想像でしかないが、昨日の電話口の彼から察するに、きっと重大な事に違いないのだ。それは恐らく、可奈子にしか解らない。どこか通じる物を感じてしまった人間に、何も無いとはどうしても思えないのだった。
「どうなのかしらね、咲ちゃんは」
「私には解らない」
「そうだろうけどさ。心配じゃない」
ユキも不安なのだろう、取り留めないながらも色々と喋る。それに対して、可奈子も曖昧に相槌を打つ。
どうも自分は夏のコンクールとは縁が無いらしい。そう思うのは簡単だったが、今このメンバーで合奏をするという行為に対して、またそれが出来なくなるかも知れないという現実に、ひどく残念な気持ちが競り上がってきている事に、気付いた。
それもまた、可奈子にとっては驚きだった。自分はフルートさえ出来ていればいいだけで、部活動はその方便でしかなかった筈なのに、今はこの有様だ。咲の体調も心配で、胸がざわつく。壱の不在がいちいち気になるし、ユキにも気を使ってやりたいとつい今しがた思ったばかりだった。
これだけの心境の変化、というよりも殆ど別人のような心理を抱く事に、うっすらと恐怖のようなものを可奈子は感じる。その正体は解らないが、少なくとも壱と吹奏楽部の影響だろうと思えば、納得は出来た。
その一翼を担う、普段からずっと五月蝿い後輩が倒れた。
「どうしたものかしらね」
「ん……まあ、なんだろうね。ある程度覚悟した方がいいのかな、これは」
「こういう気分だったのね、臼井さんたちは」
言うと、ユキはちょっと笑って首を振る。
「コンクールがどうこうよりも今は咲ちゃんの方が心配だわ」
「……」
「去年は確かに、あんたに腹が立って仕方が無かったけどね。多分無理が祟ったんだろうけど、咲ちゃんの一生懸命さを取って怒れる程、薄情じゃ無いつもり」
「ごめんなさい」
「何が」
「去年の、コンクールを」
「理由、教えてくれるの?」
「聞けば、鼻で笑うような理由だけど」
「聞かせてくれる?」
可奈子の方を見ず、ユキはそう言った。可奈子もまた、ユキの表情を伺いはしなかったが、話してみようか、という気分になっていた。
暫く黙ったまま時間が過ぎ、可奈子は口を開いた。
当日になって、3度目の妊娠をしていた姉の体調が急変した事。それまでの流産で、ノイローゼ気味になっていた事。そして、ついに自失した姉の姿を見た時の心境。結果、最早何も出来なくなった、自分の、どうしようもない心境。
そのどれも、ユキにとって納得のいくものではないだろう。しかし彼女は1つ1つを頷いて聞いてくれた。どこかがさつなイメージを持っていたが、ユキはむしろ若菜よりも繊細な心の持ち主かも知れないと考えを改める。
「なるほど、ね」
「ごめんなさい」
「ううん。まあ、連絡ぐらい寄越しても良かったんじゃないかとは思うけど……今更、ね」
ちょっと笑って、ユキは頬杖を突き、窓の外を眺め始めた。何かあるのかと可奈子も目をやるが、暑そうな空と校庭が見えるだけである。
「私はさ。やっぱやりたかったよ、去年」
「うん」
「でもま、巡りあわせだからね。鶴岡の言い分を解りたいとは思わないし、かといってあんたの気持ちが解るとも絶対に言えない」
気持ちは解る、と言われなかった事が、むしろ可奈子にとっては嬉しかった。当然な事だが、誰にもあの時の可奈子の心境など理解出来る筈が無いのだ。
「縁が無いなぁ、夏のコンクールに」
思わず吹き出した。怪訝そうな顔のユキに、首を振る。
「同じ事を、考えたから」
「あはは」
「去年は自業自得だけど、ね」
「言われて見ればそうじゃん。縁の無い部員にしたのはどこのどいつよ」
冗談めかして笑うユキを追うように、可奈子もまた沸いてきた笑いを隠さなかった。
楽しいから、という気分で笑ったのはいつ以来だろうか。そんな事を取りとめも無く考える。
「鶴岡、変わったね」
「……」
「今は部員が少ないから、仕方なくうちらの相手してるのかと思ってたのよ、正直」
「そうね、最初はそうだったと、思う」
「あんたも正直だなぁ。ま、それでもこうして話が出来るようになったのは、良かったよ」
「どうして」
「私も、あんたのフルートは好きだからさ。最近はしょっちゅう聴くようになって、余計好きになってきた」
よく自分の演奏を褒められる日だ、とぼんやりと思い、可奈子は少し考えてから頭を下げた。
「ありがとう」
「何よ改まって。鶴岡も私の演奏褒めてくれた事あるでしょ」
「臼井さんの演奏は、しっかりしてるから。だから、私も1人でやるより上手く出来て」
どういう言葉にしていいか解らなかったが、今感じているものを、なんとかユキに伝えたいと思った。そういう心の動きにまた驚き、しかし敢えて抑えようとはしないでおく。
「なんかホント、変わったわね」
「そう?」
「うん。柔らかくなったよ。あんた可愛いんだから普段からそうしてればいいのに」
思いもかけない言葉に目を丸くしてしまいながら、可奈子はどこを見ていいか解らなくなってしまった。ユキが視界の外でクスクスと笑う。
「黒沢君のお陰なのかしらね」
「関係無いと思う」
「まあ、あいつのお陰だと考えると悔しいからね私も」
「なんで?」
「いきなり出てきて、今まで同級生の誰にも出来なかった事やってのけられたんじゃ、立場が無いじゃない」
「変なの」
可奈子の言い方こそが変だったのか、ユキはまた小さく吹き出して、机に突っ伏した。どうしたのかと思っていると、扉の開く音。
「おはよ……あれ、2人だけ?」
声に振り向くと、若菜。入るなりの彼女の言葉で、可奈子も現状を今一度再認識する。
「そ、うちらだけ」
「そっか。咲ちゃんは? また調子悪い?」
「まあね。とりあえず荷物置いたら?」
「うん。今日もあっついねー」
思わず若菜の顔を注視してしまいそうになったが、ユキが平然と頷き返すのを見て落ち着いた。彼女達の空気ややり取りというのは、可奈子にはやはり計りづらい所がある。
鞄を机に置き、中から小さなタオルを取り出して、いつからか下ろした前髪をかき上げながら額を拭う若菜。その作業が終わるのを待ってから、ユキが口を開く。
「若菜」
「うん」
「咲ちゃん、今朝病院に運ばれちゃったのよ」
「ん……え、なんて?」
半笑いのような顔で、可奈子とユキを交互に見ながら、しかし言葉の意味を徐々に理解していったか、若菜の表情はすぐに不安そうなものに変わる。
「だ、大丈夫なの? っていうか、病院は? お見舞いとか」
「落ち着きなさいってば。ああもう、マジで連絡しないで良かったわ……」
「本当にね」
「えと、どういう意味」
まだ完全には事態に追いついていない若菜に、ユキが順を追って説明を始めた。今朝になって南教諭から連絡があり、咲が病院へ搬送されたと知らされた事。既に登校していた可奈子にはその旨を伝えてある事。同時に、いきなり若菜に連絡をしても混乱させるだけだと考えて、今まで待っていた事。
最後の1つが若菜には気に入らないらしかったが、しかしこの有様を見せられてはユキの判断の方が正しかったと言わざるを得ない。
「ともかく、お見舞いには行かないと」
そして全てを聞いた上で出てきた言葉がこれだったのだから、最早言い訳の余地は無いだろう。
「あのね、若菜。今何日?」
「えと、13日」
「コンクールは?」
「……」
不安そうな顔が更に青白くなるのを、見て、可奈子は内心溜息。見て取ってか、ユキは椅子に座りなおしながら、続ける。
「そういう事よ。今咲ちゃんの所に押しかけたら、多分滅茶苦茶追い詰める事になると思う」
「そんな、でも、そこまで大変なの?」
「まだ解らないのよ。今小枝ちゃんから連絡待ち」
沈鬱な雰囲気を隠さずに、若菜は押し黙った。それはそうだろう、彼女は特に咲を可愛がっていた。壱がするようなものとは正反対の、甘やかすばかりのものではあったが、咲の不調や顔色を気にするのは、いつも若菜だった。そういう心配りは出来るのだが、或いはそちらに感けるばかりに、周囲の状況を見誤るタイプらしい。
静かになる音楽室。考えて、可奈子は席を立った。
「鶴岡?」
「こうしてても、仕方ないから。練習を」
「鶴岡さん、心配じゃないの?」
若菜から、抗議の意思を含めた目で見られる。以前なら、そのまま受け取って黙殺した所だろう。
「心配しても、何も変わらないでしょ」
「だからって」
「菱沼さんが、大丈夫なら、コンクールに出る事になるんだから。今する練習は、無駄じゃない」
「……」
「鶴岡の言う通りね。若菜、心配なのは解るけど、やっぱここでうだうだ言っても仕方無いんじゃない?」
言いながら、ユキはチューバを取りに準備室へ消える。それを目で見送り、再び可奈子を見つめる若菜。今度は抗議ではなく、なんとなく居たたまれないような色が見て取れた。
「ごめんね、鶴岡さん……」
「何が」
「なんか、かっとなっちゃって。わたしちょっと混乱してるのかな」
力無く笑って、若菜もまた準備室へ向かった。入れ違いに出てきたユキが、可奈子にちょっと肩を竦めてくる。
可奈子も同じように返した。
壱が居れば、とは、今度は思わなかった。




