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呟きとメヌエット  作者: camel
無関係のロケーション
40/71

 午後の練習もそろそろ終わるという頃。

 流石に部員達にも疲れが顔に出ている。特に咲などは、体が弱いという事もあってか、いくらか顔色が白いように見えた。

「菱沼さん」

「あ、はい」

 声をかけると、驚いたように振り向く咲の顔色は、やはりあまり良いとは言えないものだった。保健室に何度も世話になっている都合、仮病の人間と本当に具合の悪い人間の振り分けをする保険医を長く見ていた経験から、顔色の良し悪しぐらいは解る。

「具合は?」

「ぐあいですか?」

 きょとんと、何を言われているのか解らない、という様子の咲に調子を狂わされる。或いは惚けているのかも知れないが、だとしたらこれ以上踏み込む事は可奈子にとっては大仕事だった。

 どうするか迷って、一応言うべき事は言っておく事に決める。

「顔色があまり、良くないから。休んだ方がいいわ」

「そんな事ないですよ」

 ちょっと言葉に詰まったような言葉だったが、咲は笑って返してくる。壱はこれを強引に切って捨てた上に病院まで連行したというのだから、成る程大した者であると感心せざるを得ない。

 とりあえず言うべきは言った。

「そう」

「はい」

「無理をしても、誰も喜ばないから」

「……」

 自分ではこんな事しか言えない。もっと色々と優しい言葉を交えて宥めすかす壱を見ていた筈なのだが、実践は出来そうに無かった。

 可奈子と咲の空気を察知したのか、若菜と喋っていたユキが口を開く。

「あれ、咲ちゃん調子悪いの?」

「そんな事ないっすよ、心配し過ぎですって」

「あ、でも、確かに顔色良くないかも」

 若菜の後追いに、内心ほっとする。3人がかりでなら、咲を丸め込めるかも知れない。

「ほら、あたし美白ですし」

「何言ってんのよ普段は健康そのものな肌色してるのに。んじゃちょっと早いけど今日は解散しようか?」

 ユキの提案に何か言おうとした咲の肩に、触れた。びくりとして振り向く彼女の目をじっと見ると、それ程待たずに目を逸らす。やはり、少なくとも疲労は溜まっているのだろう。

「じゃ、解散ね。お疲れ様。明日は午前で、小枝ちゃんも来るから。戸締りしよっか」

 てきぱきと指示を出すユキに、もう何も言えないと思ったのか、咲は楽器を片付けながら小声で可奈子に謝った。不貞腐れたような態度ではなく、しかしどこか悔しそうな顔。

 可奈子も人に誇れる程健康ではないし、そもそも病が発症すれば立ってすらいられなくなる体だが、それでもここまで無理をしたがるという咲の気持ちは理解が及ばない。自分の言えた事ではないだろうが、と前置きをした上で、本番の事を考えれば抑えることも必要だろうと思うのである。だが咲には、休憩や自重という言葉が無いかのように、常に喋るし、常に全力で事に臨む。

 それを、好ましいと思っている自分に気付いて、可奈子は驚いた。他人の人格に興味を持った事は無かった筈だが、咲に対してはそういう気持ちが否定し難くあるらしい。尤も、自分のような女に好かれても彼女も迷惑半分であろうと思えば、口に出す気にもならなかった。

 片付けと戸締りを終えると、まとまって昇降口まで向かい、途中で3人と別れる。可奈子以外は電車での通学だ。

 別れ際に咲の顔を見よう、と思ったのだが、俯いた彼女の表情は春から少し伸びたサイドの黒髪が遮ってよく見えなかった。なんとなく残念に思いながら自宅へ足を向ける。

 歩きながら、貰った書類を取り出してみた。契約書と銘打たれた紙が一番上で、その他には楡原薫子のレーベルに関わる規定らしきものが何枚もの紙に渡って列挙されている。そのどれにも興味は惹かれなかったが、しかし今自分の心変わり1つで何かを大きく踏み出せるかもしれないこの紙切れの束が、可奈子にはひどく重荷に思えて仕方が無かった。

 薫子は自分を買ってくれている。新田教諭もまた同じであるからこそ、ああいう形で対面させたのだろう。それは喜ばしい事ではある。だが、自分にとってのフルートは、薫子が言ったような「他人のために」聴かせられるような立派なものではない。空腹になれば食事をするように、フルートがあるからそうしているだけに過ぎない自分の演奏など、すぐに化けの皮が剥がれるに決まっていた。或いはそうしない事が楡原薫子という人間の手腕なのかも知れなかったが、今より更に虚飾に塗れた自分の演奏を世に出すなど、それこそ御免である。

 ただ、抗いがたく、魅力的な話である事も、可奈子は否定できなかった。自分の力が試されるという事に対する思いよりも、ずっとフルートを続けられるかも知れないという未来は、想像もした事が無かったのだ。それが現実のものとなるかも知れない。苦労も山ほどあるだろうが、そういう事はそれこそ壱にでも押し付ければ彼はなんだかんだと言ってやってくれるだろう。そう思うと、悩まずにはいられないのだった。

 気付けば自宅についていた。一式を鞄に仕舞いこみ、門を潜って鬱蒼とした並木道を進み、玄関を潜る。無駄に広い敷地内は、やはり人の生きている気配が感じられるものではなかった。

 自室に戻り、クローゼットの一番奥、下着などを詰めてあるチェストの裏に、クリアファイルごと契約書を隠した。何故そうしたのかは考えなかった。


 翌朝、午前の練習の為にやはりいくらか早く家を出て、音楽室で1人外を眺めてみる。夏の日差しと蝉の大合唱をガラス越しに感じながら、溜息。

 鍵を借りに行っても、新田教諭は特に何も言わなかった。後は自分で決めろという事なのだろう。自分に、自分の事を決めるという権利があるのなら、是非ともそうしてみたいとは思うが、実際は可奈子の周囲を縛るものが多くある。父がその最たるものだし、脳内の世界へ行ってしまったまま自宅で療養している姉の存在もそうだ。

 可奈子の立場に誰よりも早く気付き、そして誰よりも早く手を打とうとしてくれたのが、姉の鶴岡昌美であった。彼女とは8つも年が離れているが、可奈子の事を本当によく可愛がってくれたのは今でも鮮明に思い出せる。

 家の中に篭るようになった父が、突然思い出したように可奈子へ暴力を振るうようになったのは、小学校へ上がる直前の事だった。最初は痛みと恐怖が可奈子に泣き声を上げさせたが、次第にそれが無駄な事だと気付いたのと、これを昌美に伝えれば昌美も同じ目に遭うかもしれないという更に大きな恐怖が、可奈子を頑なにさせていった。

 だが当然、体に出来た痣――当時の陽一の虐待は今ほど酷くはなかったが――を可奈子に隠し通す事など出来ず、それ程日を待たずに、姉は現状を察した。

 昌美の言によれば、父はここ数年でめっきり乱暴な男になったのだという。家付の人間にも、外から来た人間にも高圧的で威圧的な態度を取り続け、現状相手にする者が日毎減っていくという、壮絶な転落を始めていたのだ。その中で可奈子に暴力を振るうという選択肢は、成る程確かに有り得ない話ではなかった。

 まだ痛みに耐える程の精神力も無く、また父の愛情の渇望も少なからず残っていた可奈子にとって、昌美は心強い味方だった。家の中でも極力可奈子を1人にしないようについて回り、傷の手当ても丁寧にやってくれた。

 しかし昌美がどうしても傍に居られない時には、可奈子は父の暴力に晒され続けた。その度に増える可奈子の腕や背中の痣を、昌美は涙を流しながら癒してくれたものである。

 そういう日々の中、姉という最大の味方を得て尚、やはり鶴岡可奈子という少女の心は、次第に磨耗して行った。逃げられないよう裸にされ、殴る、蹴るといった行為を受ける中、多くの疑問を父に投げかけたものだったが、そのどれへの返答も痛みでしか返ってこなかった。しかし父を敵と認識する事も出来ず、可奈子の肉体と精神は、ごく小さな物へと固定されていくしかなかったのである。

 昌美と交わす言葉も、極端に少なくなった。というよりも、姉の顔を見る事すら当時の可奈子には出来なくなっていたと言っていい。人の顔を見ると、即座に父の、眉間に大きな皺を作った顔が脳裏を過ぎるからだ。他人という存在への興味や関心を失い始めたのも、この頃である。

 そんな妹を、しかし昌美は決して見捨てはしなかった。しなかったが、父をもまた見捨てられなかったのが鶴岡の長女である彼女の性格であった。何度も迷ったとは言うが、結局の所昌美は父を強行的に、更に言えば刑法に照らす事が出来なかった。実の父を、告発するという行動には最後まで踏み切れなかったのである。

 それを、可奈子は恨んだりはしなかった。むしろ、それが当然なのだろうと考えたものである。可奈子とは違い、鶴岡陽一は昌美の実父なのだ。可奈子にとって「家族」と括れる存在は姉だけだったが、やはり昌美が犯罪を犯したとしても、可奈子は警察に通報するような真似は出来ないだろう。それと同じ事だと、素直に思えた。

 昌美は、父の分も含めたように何度も可奈子に謝った。日々の会話の半分以上が、可奈子への謝罪になってしまった。そしてそのもう半分は、姉が自分自身を分け与えるかのように贈ってくれたフルートの手解きとなった。

 教養の1つとして姉は昔からやっていたそうだったが、性に合ったのか長い練習を積み重ねてきた彼女の演奏は水際立ったものだった。その楽器を与えられた時、可奈子にとって1つ、漸く世界が開けたようなものである。ごく限定的な、他人との会話を要さない、演奏という世界。

 そして小学校4年生となった可奈子を吹奏楽部に所属させたのも、姉の昌美だった。この頃少し離れた高校へ通っていた姉は更に可奈子と一緒に居られる時間が限られており、もっと長い時間を家の外で過ごさせたいと考えたのだと説明をしてくれた。

 そういう理屈よりも、多くの人と演奏をする事よりも、可奈子はフルートという楽器に触れていられる時間が喜ばしいと感じられるようになっていった。勿論最初は怪訝な思いが胸中の殆どを埋めていたのが正直な所である。楽器など存在しか知らなかったようなものだし、それが自分に出来るとも考えた事すら無かったのだ。

 実際に吹き始めてもろくな音色にもならず、これさえ有ればいくらかは楽な気持ちで居られるだろうという逃避の意味合いを込めた行為以上の物にもならなかった。それが変化を始めたのは、果たして可奈子とフルートとの相性が良かったとしか言いようが無い。

 以来可奈子とフルートは1つのものだった。どこかで斜めになった気持ちはそのままに、しかしフルートだけは自分と姉を繋ぐ大切なもので、同時に自分の心の内を発露させるに十分なものでもあった。斜に構えた同級生を誰も好みはしなかったが、可奈子にとってそんな事はどうでも良く、ただフルートがあるのだから、それを続けていればいいのだと思っていた。

 才能というものが認められ始めたのは高校受験を控えた頃で、色々と目立つ羽目にもなったものだが、やはり可奈子にとっては「自分の外」で起きている事の1つでしかなく、延々と演奏に磨きをかける結果となり、そしてそれはまた転じ、周囲を驚かせるようだった。

 音楽についての知識も、楽典などを眺めながら培っていった。最近になって編曲という作業に取り組んでみたが、その際には大いに役立ったし、また演奏の上でも無駄な物は見当たらず、音楽に関する全てが、可奈子にとっての全てに成り得ていた。

 昨年、夏のコンクールを待たず、姉が倒れてこの世との接点を絶つ時までは、少なくともそうだったのだ。

 夏は朝が早いし、その当時の事を思い出すから、苦手なのだった。

 ふと、扉の開く音に気付いて振り返ると、血相を変えたユキ。どうしたのだと声をかける前に、彼女は口を開いた。

「鶴岡……良かった、居たのね」

 上がった息を整える事もせず、ユキはごくりと唾を飲んで、続ける。

「あのね。咲ちゃんが、倒れたの」

「……」

「今病院に運ばれて、小枝ちゃんが付き添いで」

 言葉が上手くまとまらないようだったが、状況は理解した。手荷物をまとめて、ユキに寄る。

「私は、行った方がいいかしら?」

「……どう思う? 私も出来れば見舞ってあげたいんだけど」

 ユキも、既に全てを理解しているようだった。当然だろう、壱にほんの2日とはいえ後を任された彼女なら、すぐにそういう事にも目が行くに決まっていた。

「まだ、全部悪い方に、決まったわけじゃないでしょ」

「アンタがそう言ってくれるとは思わなかった」

「私の台詞じゃないわね、確かに」

「あ、ごめん。そういうつもりじゃ」

「別にいいから」

 咲の体調が抜き差しなら無くなったのであれば、コンクールには出られない。たった5人の部員なのだ。それに、咲の代わりなど並大抵の人間には務まらない。

「南先生から、連絡は?」

「まだ無い」

「柴崎さんは?」

「あの子に教えたら突っ走りそうだったんで、とりあえず何も伝えてないけど、そろそろ来るわね」

 腕時計を確認しながら、ユキは汗ばんだ前髪をかきあげた。

 壱が居ない時に限って、と可奈子は溜息混じりに思うのだった。

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