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手には、少し厚みの増したクリアファイル。中身は、細かい事までは解らないが要するに可奈子の将来を簡単に決めてしまえる程重要なものが詰まっている書類の束だ。要するに契約書というやつである。
金額的な事は何1つ言わなかったし、甘い事も1つも言わなかった。ただ薫子は、手を変え品を変えしたものの、言っていた事は「うちで演奏をしろ」の一点張りでしかなかった。それが逆に、可奈子にとっては耳に良かったと言えば良かった。
ただ、決定的な一言については、あまり思い出したくはない。とりあえず他の部員が来る前に、これは鞄の中に仕舞って置こうと決めた。
どうかしら、といくらか凄みの混ざった微笑みを向けてくる。
プロに、と言われても、可奈子には特に答えは無い。
「興味、ありません」
「あら」
言葉の割りに、あまり拍子抜けした様子は薫子には無い。ただ黙って見つめ、再び口を開く。
「何かご事情でもあるのかしら」
「特には」
「では、物は試しというか、1度体験という形で収録においで願えませんか? きっとあなたの気持ちを動かすものがあると思うのだけれど」
「興味ありませんので」
「おい鶴岡」
新田教諭が焦ったような声を上げるが、無視した。いきなり出てきた知らない女性に何を言われても、特段の感動も無い。こうして誘うからには、今の自分の演奏を好ましく思ってはくれたのだろうが、だからと言って可奈子にはフルートでどうこうしようというつもりは今の所無いのだった。
将来という観点で言えば、途轍もなく美味しい話なのだろう。確かに楽な事ばかりではないかも知れないが、自分にとって唯一のポジティブな行為が、そのまま自分の立身に繋がる。自分以外にもプロになりたいと思う人間は山のように居るのだから、今この瞬間に頷けば全てが決まるというのは幸運の一言で表せるものではないのだろう。
そこまで理解していて、しかし可奈子は頷けなかった。進学クラスという分類のされたクラスで学業にはそこそこ励んでいるものの、進学をするつもりは無い。というよりも、高校を出た後に何をするかなど、可奈子の展望には無いのだ。その全てを決めるのは、父である。
父が常に自分を手元に置いて、これまで通りの生活をするというのなら、それでもいい。いずれどちらかが死ぬ事で終わる関係なのだ。それは、薫子の誘いに乗っても、可奈子にとっては同じ事でしかない。
だから、どうでも良かった。このまま強引に引っ張られでもしたら多少は困っただろうが、あの父がいつまでも自分の不在を許す筈が無いのだ。だから、今のうちに心を閉ざしておく。簡単な、可奈子の処世術だ。
しかし薫子は納得しないらしい。
「あなたの気持ちを解るとは言わないわ。それに、この話に乗ったからといってあなたがいきなり幸せになるという約束も勿論出来ない。むしろ辛い事の方が多いくらい」
「はい」
「でもね、可奈子さん。あなたの演奏は、人に聴かせて初めて意味を持つわ。私も音楽を齧った身で、手前味噌だけれど才能ある弟の演奏を身近に聞いてきたから、これだけは言える。まず自分の為に、それから半分を人の為に演奏出来なければ、そこで終わってしまう」
「……解りません」
青臭い事を言うものだ、と冷笑的な気分には、何故かならなかった。言葉に、切実なものを感じるからだろうか。いつから自分はそこまで他人の言葉を理解するようになったのか。
ただの気紛れでしかない。そう言い聞かせて、再び首を振る。新田教諭はもう何を言わない事に決めたらしい。
「そう頑なにならないで。今のあなたは、ただ単に、フルートしかないからフルートをやっているに過ぎない。こういう言い方は失礼かも知れないけれどね」
驚いて、思わず薫子の顔を見てしまった。真剣な表情から向けられる眼差しには、何か意味深なものを感じる。
フルートしかないからフルートをやっているに過ぎない。
その通りだった。この女は何を知っているのか。
「それを、良かったらもっと素敵なものにする手伝いをさせて欲しいの。駄目かしら」
再び優しい笑顔に戻って、薫子は小さく首を傾げながら問うてくる。
もっと素敵なもの、という漠然とした言い方が、何かざわついたものを可奈子に感じさせた。意味は解らないし、これまでの言葉に比べれば断然に曖昧模糊としたものでしかなかったが、どこか壱に説得を続けられた時のような気分になりかけている自分を、見つけた。
「……私より、良い人が居ると思いますけど」
「それはそうね。勿論、あなたより才能のある人、腕の良い人は数え切れない程居る。でもね、私はあなたのフルートが好きなのよ。今日初めて聴いたけれど」
壱と、全く同じ言葉だった。思わず握り締めた拳が、きゅうと小さな音を立てたような気がする。
その言葉は、壱もきっと解っていないだろうが、何よりも嬉しい事だった。他人とはいえ自分の家族、その姉が、手を取って教えてくれたもの。可奈子にとっては、やはり譲れないものだった。それを良く言われるのは、やはり嬉しいの一言に限る。
目が、泳いだ。癖だった。
「何も、あなた1人にいきなり全てをお願いするというのではないわ。それこそ、黒沢さんと一緒に始めてもらってもいい」
「黒沢君と」
「彼からは一応、色好い返事を頂いてるのでね。とは言っても、彼なりに区切りがつくまでは、私の所へは来られない様子で」
困ったように笑う薫子の表情と、まだプロにはならないと何でもない事のように言い放った壱の顔が、何故かだぶる。
それが理由なのかどうかは解らない。そもそもプロになってしまえば、多くの男性との折衝も発生するだろう。そういう事を考えても現実的ではないのに、壱が共に、となればどうにかなるのではないかと思えてしまった。
内心、悔しさが仄かに漂ってきた。それは一応封じ込めておく。
父の存在もまた、目を瞑れるものではないのだった。
「やっぱり、難しいかしら?」
「……有難い、ですけど」
「そう」
言って、薫子はまた微笑み、少し体を引いた。可奈子との距離は半歩程。その、離れた距離がやけに遠く感じられる。
「今日は、ここまでにするわね。ごめんなさい、悩ませてしまって」
「いえ」
「でも、これだけさせて貰っていいかしら?」
鞄を広げ、薫子は中からいくつか書類の入ったクリアファイルを取り出して、差し出してくる。思わず受け取ると、何やら小難しい事が羅列された紙と、何か書き込むのであろう欄が目に入った。
「黒沢さんにも同じ物を差し上げたわ。でも可奈子さんには、捨ててもらっても構わない。でももしその気になったら、是非彼と一緒に、持ってきて欲しいの」
「受け取れません」
「1つだけのワガママだと思って、受け取って貰いたいのよ。本当に、捨ててもいいから」
ね、と砕けた口調で締めくくって、新田教諭に何か目配せをしてから、薫子は出て行った。残った新田教諭が長い溜息を吐く。
「お前、物怖じしねえな」
「……」
「あの人の入れ込みようも解るけどね。いや、大したもんだよ、鶴岡」
最後に豪快に笑って、新田教諭も出て行った。
部員達が登校してくると、今日は昨日に比べていくらかは真面目な取り組みになっているように感じられた。自分の不機嫌が伝播したのだろうかとも思うが、そもそも一応は部活と言う枠組みで活動を行うのだから、自分の顔色1つで露骨に変わったりしないで欲しいものではある。
1時間程、壱を欠いた合奏を続けた。誰かがミスをしたりすれば1度止め、可奈子がそれなりにニュアンスや注意を語る。ユキも咲も素直に聞いてくれるのでやり易かった。若菜だけは常にしょぼくれたような顔になるのであまり多くを伝えられなくなってしまうのだが、彼女なりの努力はよく理解できているつもりである。だから、悲惨な表情で頷かないで欲しいのだが、上手くそういう事を言葉に出来ないのだった。
それにしても、咲はともかく若菜とユキにここまで譲歩をさせたという現実が、時折可奈子には信じられない事のように思えてくる。あれ程の事件を起こした自分なのだ。だというのに、助言も諫言も聞き入れてくれる。何か、自分1人が部内で取り残されているような気分に、しばしば襲われた。
こういう時に壱が居ればと、昨日から壱の不在が不愉快で仕方が無かった。あの男は他人の機微に聡く、またいやらしい言い回しも多いが考えを言葉にする事に長けている。可奈子が多くを語らなくても1を聴いて10を知るような所もあるし、何かと助かるのだ。
だが不在である。サックスが無いと合奏もどこかまとまりを欠くし、悪い事だらけだ。
休憩を挟むと、不意に軽薄な電子音が鳴り響いた。驚いたような顔をして、ユキがスカートのポケットを探る。携帯電話だったらしい。可奈子は必要性を感じないために持っていないが、こういう場面に遭遇するとやはり要らないと考えざるを得ない。いきなり呼び出されるのは不愉快だろう。
「あはは、マナーにするの忘れてたわ」
誰に言うともなく笑って、ユキは携帯電話に出る。二言三言を交わして、可奈子を始め全員を見渡しながら、大丈夫だというような事を言った。
壱だろう、となんとなく直感する。こういう勘はあまり外れない。
「黒沢君、明日になるってさ」
「そうなんだ、良かったね咲ちゃん」
「だからなんでこういう時にあたしにかけないのかなあの人はー!」
「あ、咲ちゃん代わる?」
「代わります代わります!」
咲が騒ぎながらユキにしがみついたりしているのを横目に、漸く戻るのか、と思った。思ってから、まだ2日も経っていないのだとも重ねて思う。壱の不在がここまで自分の感情を掻き乱すのかと思うと、やはり不愉快でしかなかった。
色々とまくしたてた咲の後に若菜と続き、予想通り自分にもユキの電話が回ってきた。ちょっと躊躇って、出てみる事にする。扱うのは初めてだが、単に受話器と思えばいいのだろう。
「もしもし」
「や、お鶴さんかい。元気かな」
「何してるの」
「実家でちょっと色々な整理をね。もう聞いたかも知れないけど明日には戻るんで。練習サボっちゃってごめんよ」
「この、忙しい時期に」
「だから申し訳なく思ってるってば」
いつもと変わらないテンションだったが、どこか沈痛なものを感じる壱の声は、電話越しだといくらか高く聞こえた。
「何か、あった?」
「……何かある、の方が正しいんじゃないかね。まあいずれ話す機会も……あるかどうか解らないけど。とりあえず心配はしてくれなくてもいいよ」
「してない」
「冷たいなぁもう。そこが素敵だぜ」
「うるさいから」
「はは、うん、なんか元気出たよ。やっぱ君の辛辣さは1日空けると寂しいね」
なんとも弱気な言葉だったが、壱なりに何かあるのだろうと完結する事にした。実家となれば、あまり多くは知らない彼の過去に関わる事もあるのかも知れない。そういう事なら、尚更自分が首を突っ込むべきではないだろう。
「じゃあ、臼井さんに、代わるから」
「ありがとね。頑張って」
返事はせずに、ユキに回す。またいくつかユキが言葉を交わし、それで通話は終了となった。
お互いに何を話したか、というような交換が始まったが、可奈子は特に何も言わなかった。言える様な会話をしたつもりは、少なくとも可奈子には無いのだった。




