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家に戻るなり、父の部屋に呼ばれた。
家に居る家事手伝いや姉の介護をする人間は、可奈子の状況を恐らく察してはいるのかも知れないが、特に何をするでもなかった。誰だって我が身が可愛いに決まっている。自分の考え方が殊更変わっているのだという自覚ぐらいは、可奈子にもあった。
父の部屋は、屋敷の一番奥にある。何の声も音も届かない、小さな窓があるだけの、小さな部屋。
「何をしいてた」
入るなり、そう言われた。黙って、可奈子は正面に立つ。
車椅子に座ったままの父、鶴岡陽一が、傍らの杖を振り上げ、可奈子の二の腕を殴りつけた。痛むが、顔にも声にも出さない。
「このところ、帰りが遅いようだな」
聞いている方が痰を切りたくなるような、しわがれた声で陽一は続けたが、可奈子はやはり黙り続ける。何を言っても、無駄にこの男を過ごす時間が長引くだけなのだ。だったら、黙って頭上を通り過ぎるのを待つ方が懸命だと、何年も前に理解している。
可奈子の顔を睨み付け、陽一は再び杖を振り上げ、今度は腹を突いてきた。ぐっと、肺の中の空気が押し出されたような呻き声が漏れる。咳き込み、床に膝をつけると、今度は肩を叩かれた。左、右と、リズムを刻むように往復する杖。立ち上がろうとする度に、一際強いものが来るので、今日はそういう気分なのかと可奈子はどこか遠い気持ちで思う。
可哀想な男だった。
鶴岡というのは、この辺りでは有名な家だった。横の繋がりも大きく、また財力もあるが故に、代議士や官僚にまで一族の人間や知人が居たり、そもそもその名前からして影響力を与えているという。
そういう家の長男であったらしい鶴岡陽一は、今になって酒食に塗れた生活が祟ったのか、今や満足に歩き回る事すら出来ない。それでも、彼の兄弟や彼自身の名義、不動産などが、こうして無駄に生き永らえさせている。
権力を追うこともままならなくなった陽一の欲は、行き場を失い、その一部が拾ってきた子供に向いている。そんなものなのだろう、と可奈子は当たりをつけていた。直接聞いたわけでもないし、知りたいとも思わないが、こんな無抵抗の子供を叩いて喜ぶというのは、可奈子から見ても解る異常性だった。
だからか、幼少期から続いているこの行為が、あまり苦ではない。この男にとって、可奈子は最後の砦なのかも知れなかった。暴力という一方的な父の感情は、確かに痛みや痣、出血という形で表に出てくるが、可奈子にとってはある意味では会話なのだった。
漸く止んだ殴打に気付き、可奈子は立ち上がった。車椅子に座ったまま、鋭い視線を向けてくる。そして、伸びてきた手が可奈子の喉を掴んだ。ぐいぐいと締め上げられ、呼吸が苦しくなる。
男性恐怖症の原因は、間違いなく陽一だったが、可奈子は不思議と陽一に触れられても体調を崩したり眩暈を起こしたりはしなかった。それは壱に対するのとはまた違う理由があるのかも知れなかったが、やはりこの「父との時間」を過ごす時だけは、どうでもいい事の1つでしかない。
可奈子の顔が青ざめるのを見て満足したのか、陽一は可奈子の体を押し出すようにしながら解き放った。それきり、目を合わせようとせず、じっとチェストの辺りに視線をやる父の姿を見て、可奈子は部屋を出た。こうなると何を言っても反応しなくなるのである。終わりの合図でもあった。
部屋に戻る前に洗面台で鏡を見る。首に小さな痣があったので、ファンデーションを隠し場所から取り出し、上から塗った。廊下などで家付の人間に見咎められでもしたら厄介だ。傷を見て、表立って文句を言おうというような勇者は居ないのかも知れないが、念の為である。
それから自室で制服を脱ぎ、長袖の服に着替え、バスルームへ向かう。
浴室内の大きな鏡の前で、新しい痣を確認した。杖の凹凸がいくつもめり込んで内出血を起こしている。押すとじわりと痛みが走る。溜息を小さく吐いて、シャワーを浴びた。
湯にまみれる、傷だらけの白い肌。肉などどこにもついていない、貧相な自分を、なんとなく他人のような思いで眺めていた。この所、壱に傷を見せた時の事を思い出す。もっと嫌そうな顔をするだろうと思っていたが、壱は何か危険なものを見るような、壮絶な顔をしていた。
あれはなんだったのか、と考える辺りで、シャワーの熱さに気付く。少し水を足しながら、石鹸を手に取って泡を取った。
手だけは、傷1つ無い。庇って来たからだし、父も殊更に狙わなかったからだった。
朝になり、朝食を取ると、可奈子は自室でフルートを取り吹き始めた。部活は午後からである。
自室でこうしている限り、誰も部屋に入ってこない。少し強い日差しが窓から突き刺さる中、可奈子は昔を思い出しながら吹き続けた。漠然としすぎていて、どんな思い出を反芻していたのかは解らない。ただ、自分にとって幸せだった、今は既に狂人と化した姉との記憶だろうという事だけは、考えずとも解る。それ以外に、楽しい記憶など可奈子には無い。
マリー・ゴールドという、学校のOBが作り上げたという曲は、確かに美しかった。旋律も洗練されたものだったし、何より人に訴えかけてくるものが如実にあった。そこかしこの遊び心も、恋人との共同作業だという顧問の説明を受ければ、なんとなくふざけたのだろうというような構成も理解出来る。
ただ、可奈子の正直な感想としては「出来すぎている」というものが中心にあった。確かに、素晴らしい楽曲だろう。これをピアノで演奏したという楡原康臣の技量も、テープとはいえ確実に伝わってきた。だが、どうにもこの曲は「いい所」しか無いと感じるのである。
例えば、現代国語の授業で読むような古い日本の文学などにしても、良い話と悪い話がはっきりしている。良い話では、人格的に優れた人間ばかりが登場し、時に出てくるはみだしものを、暖かく迎え入れ、許すというような物語である事が多い。逆に、悪い話であれば、誰も彼もがお互いの足を引っ張り合い、いがみ合い、最後には悲惨な結末を迎える。得てして、後者の方が絶対数は少ない。
そのどちらが好きというのではなく、このマリー・ゴールドは「良い話」でしかない。可奈子の感情としては、それがどこか物足りないと思うのだった。
勿論、そういう曲を生み出せたという人間に対する憧れも羨望もある。音楽については、可奈子は自負もあるのだ。これを作り上げた人間は、確かに常人とはかけ離れた才能の持ち主で、嫉妬すらある。
ただ、それがどうした、という気分にもなるのだ。良い曲だ、という一言で済んでしまうようなものを作り上げるのは、或いは簡単かも知れない。文学のように、汚い、醜い、苦しい曲というのは、きっと難しい筈だからだ。
だからこそ、壱がこの曲を一押しした時は聊か不思議な気分にもなったものだった。自分では似た者だと思ってはいるけれど、こういう所に差異があると実感すると、少しばかり肩が落ちるような気分になる。
時計を見上げた。今から出ると、余裕をもって学校に着く。
まだ壱は帰ってこないらしい。それを思うと、またあの中でフルートを吹くのか、と面倒な気持ちも持ち上がってきた。
それでもずっと家に居れば、父が気紛れで呼び出すかも知れない。さっさと外に出てしまうべきだ。
制服に着替え、鞄とフルートを手に、誰にも告げず玄関を出た。日差しが強いので、なんとなく日陰を選んで進む。汗は殆どかかない体質なので、その分体が暖まりすぎると気分が悪くなってくるのだ。
部室の鍵を借りに、職員室へ。顧問の小枝は、まだ新人という事もあってか、夏休みも居ない事の方が多かった。室内を見渡し、新田教諭を見つけ、近寄る。
「おはようございます」
「おお、鶴岡か。鍵だな」
「はい」
新田教諭は、あまり可奈子に接しようとはしてこない。或いは自分の体質の事に気付いているのではないかと思えるような態度を取る事もある。そんな筈は無いと思いながらも、しかし数少ない「話せる」男性教員の1人だった。
だから、次の言葉には驚いた。
「なあ鶴岡、他の部員はまだ来ていないんだろう」
「はい」
「フルートを聞かせちゃくれないかね」
思わず、顔を背けそうになった。壱に対しては、そうすると色々と別の言葉で取り繕ってくれるので、つい身についてしまったという所だが、それを新田教諭にやっても仕方が無い。
「なんでですか」
「いや、お前の腕は知ってるからな」
「じゃあ、いいんじゃないですか」
「そう言うな、お前コンクールにも出るんだろう。その前にちょっとやってくれりゃいいからよ」
珍しい、新田教諭の執拗な物言いに、少し気分を悪くしながらも、可奈子はあまり長引かせるべきではないと観念して、頷いた。あまり幸先の良い1日ではないなと内心溜息を吐く。
鍵を手にした新田教諭の後ろに続く。音楽室につくなり、教諭は窓を開けて、机に腰掛けた。生徒用の机に教師が居るという絵はなんとなく違和感があるなと関係ない事を考えた。
「マリー・ゴールドはどうだ?」
窓の外を見やると、不意にそんな事を言ってきた。どういう意味か、と首をかしげて返すと、新田教諭は頭を掻いて続ける。
「感想だよ。どんな印象を持ってるかと思ってな」
「いい曲です」
「そりゃわかる。俺だって手放しに褒めたいからな。もっと細かい事だ。言ってみろ」
本当に面倒な1日になりそうだと改めて思いながら、言葉を探した。
丁度今朝方マリー・ゴールドについては色々と思いもしたが、かといってそれを全部話そうという気分ではない。というよりも、それだけ言語化する程の体力も無ければ義理も新田教諭には感じない。
「構成には、不満はあります」
「ほう」
「冗長な箇所が」
「例えば」
「……」
「面倒臭がらずに教えてみろ」
本当に面倒臭いのだから諦めて欲しいのだが、新田教諭にそのつもりは無いらしい。ばれないように小さく溜息。
「第3楽章は、やりすぎだと思います」
「くどいか」
「好みの、問題ですけど」
「いや、あいつ、今になってそれを言うんだよ。成る程、いい耳だな鶴岡も」
褒められたらしいが、作曲者と同じような感性を持っているからといってそれが優れているとは限らないだろう。楡原康臣が優れた作曲家である事は理解していても、それと同列と言われた所で可奈子への賛辞とは言い切れない。
なんとなくそんな事を考えていると、新田教諭は胸の辺りを少し撫でるような仕草をして、口を開いた。
「お前の音楽性が尖ってるのは知ってた筈なんだけどな。悪かったよ」
「……」
「まあいいや、とりあえず、吹いてくれ」
足を組みなおし、新田教諭は聴く体勢に入ったらしい。
仕方ないか、と考え、可奈子はフルートを構えた。目を閉じる。視界に何かが入る事を、演奏中まで許容したくない。
一番最初の音色を出すと、後はもう一瞬の出来事のように流れ出ていく。編曲の際にウィンドアンサンブルという構成について特に気を使ってはみたが、所詮は素人考えが多い。それでも、自分の見出した、今の吹奏楽部が演奏するに相応しい音符の羅列は、壱の助言もあって素直に「良い」と思える。
音楽的な才能では、壱の方が恐らく自分より優れているだろう。ただ本人にはむらがあったり、尊敬する奏者については盲目になったりとどうにも歯がゆいような所が多い。その辺りが綺麗に無くなってしまった彼を想像すると、一緒に演奏をしてみたいかも知れない、と思う。少し前なら考えられないような事だ。
殆ど無意識に、マリー・ゴールドを演奏し終えていた。終わったと気付いたのは、新田教諭の拍手の所為である。
「成る程な」
それだけだった。一応体力を使うような事をさせたのだから労っても良いのではないかと思うが、どうでもいい事だ。頷いて、フルートを仕舞う。他の部員が登校してくるまでにはまだ時間があるだろう。
ふと、人の気配に気付いた。振り向くと、見慣れない女性が1人。すらりと伸びた上背に、少し気の引けるような思いをしながら、しかし真っ直ぐに見据えられる視線には優しげなものが篭められている事に気付き、可奈子は背筋を伸ばした。
にこりと微笑んで、女性は小さく会釈をしてくる。それに返すと、新田教諭が口を開いた。
「別に謀ろうと思ったわけじゃないんだ。お前が早く出てきたのは偶然だし、この人が来たのも偶然でな」
何を言っているのか解らない。解らないうちに、女性が後を継ぐ。
「初めまして、可奈子さん。楡原薫子といいます」
この人が、と思い、改めて可奈子は頭を下げた。別に萎縮したわけではないが、ともあれ名乗られたのだからそうする。
「鶴岡可奈子です」
「黒沢の一件は聞いてるんだろう?」
「はい」
「その辺りの話をしに、ご足労頂いてた所だ。そしたらお前が折りよく1人で来たんでな、聴いて行って頂こうとこう考えたわけだ」
普段からのらりくらりと、良く言えば超然とした態度の多い新田教諭をしてここまで謙っているのは中々笑えた。この2人の関係は今ひとつ見えないが、壱の件を考えれば橋渡しをしたのが新田教諭だったという事になるのだろう。
薫子は静かな足取りで可奈子に近寄ると、また微笑む。綺麗な人だ、と素直に思った。人間の美醜をあまり気にしたことが無いだけに、それだけ薫子の所作、仕草は目新しいと言っていい程である。
「お噂はかねがね。いつかは新田先生も引き合わせては下さったでしょうけど、今日はタイミングも良かったのでこうして無理をお願いしたまでです。ごめんなさいね」
「いえ、別に……」
「愛想の無いのですいませんね」
「とんでもない。それで、可奈子さん」
「はい」
こうも親しげに下の名で呼ばれるのは随分と久しぶりな気もしたが、不思議と嫌ではなかった。薫子の持つ空気がそうさせるのか。
「あなたの腕前を、是非私の所で発揮して頂きたいわ。黒沢さんの件をご存知なら話は早いと思うのだけど、要するにプロとして活躍して欲しい」




