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呟きとメヌエット  作者: camel
無関係のロケーション
37/71

 夢を見なくなる時期が長かったが、この所また頻繁に見るようになっていた。

 夜中。時間は体感では恐らく2時ぐらいだろうか。気付くと、見ていた筈の夢の世界からは放り出され、可奈子の目は天井の模様を眺めているだけだった。

 体を起こし、枕元の時計を確認する。捻った上半身が少し痛んだ。予想通り、2時を少し過ぎた程度の、まだ真夜中と言っていい時間帯である。窓の外はレースのカーテン越しに月明かりと外灯が庭を照らしているのが解った。何も動かない、何も居なさそうな、鬱蒼とした木々の内庭を暫く眺める。

 それから思い立って、可奈子はベッドから這い出た。喉の渇きが酷い事に漸く気付いたのである。

 裸足がカーペットを踏み、足音を消す。扉を開け、長い廊下を抜けて厨房へ。無闇に広いその中で鎮座する、これも大型の冷蔵庫を開いて、ペットボトルのミネラルウォーターを探り出し、持ち出した。部屋に戻って封を切ると、すぐに半分ほど体の中に染み込んで行く。

 部屋の中は暗い。それでも、ぼうっと、姿見に自分の姿が映った。痩せ細った、小さな体。7分丈の袖口からちょっとはみ出ていた痣を隠すように寝間着を引っ張り、残りの水を飲み干す。

 夢の内容はまちまちであった。顔のぼやけた人に囲まれた夢であったり、犬のような猫のような動物に顔を舐められる夢であったり、また最近の出来事がそのまま再生されたりもする。そのどれも、可奈子は不思議と克明に憶えているのだが、実際の出来事以外は全く見当のつかない内容だった。

 夢というものについての科学的な知識など可奈子には無いが、こうして眠っている間に見るのだから何かの記憶なのだろうとは思っている。そうだとしても、支離滅裂な、曖昧な夢の多い事だった。

 あるとしたら幼い頃の記憶が盛り返してきているのだろう。だが、それは無いと可奈子は決めてかかっている。幼い頃に、曖昧とはいえどこか懐かしい気持ちのする夢を見られる程、暖かい生活を送ってきた事は無いのだ。

 物心付く前に、養女に迎えられた。そう教えられている。だから、未だに続いている父の暴力の記憶が、逃避などの心情でそんな優しい夢、記憶に摩り替わるとは思えないのだ。

 窓の外は相変わらず静かで、家の中には人の気配すらしない。それでも朝になれば一応は食事を与えられ、弁当を持ち、見た目には平静を装って外へ出て行く。学校へ行けば、あの大勢の人間の半分が男なのだからたまったものではなかった。

 自分が男性恐怖症と呼ばれる症状にかかっているのだと知ったのは中学校に上がった頃だったが、ともあれ可奈子にとって男性というのは恐怖の存在以外の何物でもない。触れられれば急激に視界が暗くなるし、触れようとすれば吐き気をもよおしてくる。声は低く聞き取り辛いし、力は強く化け物じみている。そんな存在があってたまるか、というのが本心だった。

 それでも、こちらが黙っていればそれ程他人も自分の相手をしない。教師などは何か察しているのか、或いは年齢に見合わない程に醜く縮んだ体を気味悪がってか、必要以上に絡んでこないし、同性もまた様々な理由で自分を遠ざける傾向にある。結構な事だ。

 だというのに、1人、そういう可奈子のルールを破った男が居た。黒沢壱。転校してくるなりまだ残っていたらしい吹奏楽部に入り、部員をかき集めてきた男である。

 最初は、平均よりも大きな体の彼が恐ろしくてたまらなかった。そういう男が自分の演奏に惚れ込んだと繰り返し、追ってくるのも嫌だった。フルートを褒められる事自体は嬉しいのだが、だからといってあまりにも気安い転校生の存在は憂鬱だったのである。

 だがある時、また体調を崩して、気付けば学校を抜け出していた時に、壱は自分を追ってきた。この期に及んで、と頭にきたものだったが、追い払おうと言う可奈子の意思を完全に無視し、座り込んで体調が整うのを待つというおかしな行動を取った。

 その目に、何かを感じた。ただの勘でしかなかったが、確かに黒沢壱という存在は、可奈子にとって何か新しいものを投げかけて来ていた。それを手にしてみようと考えたのは、本当に気紛れだったとしか言いようが無い。

 そうして1度壱を認めてしまうと、何度触れても、何度触れられても何も感じなくなった。それがなんとなく悔しい気もしていたが、彼は可奈子にとって特殊な存在になっていたと言っていい。

 吹奏楽部は再始動した。元を正せば自失した己の行動が全ての原因である。そんな事は自覚していたから、このまま廃部になってしまえば家に居る時間が無駄に長くなるのだろうと少し疲れたように考えただけだ。だが壱は残っていた2人を説得し、自分を許容し、たった1人の新入生を大いに歓迎して、吹奏楽部を立て直したのだった。

 何が目的なのか。ただ楽器がやりたいのなら、1人でやっていればいい。しかし壱は何度にも渡って、自分のフルートを誉めそやし、一緒にやりたいだけなのだと繰り返した。

 喜ばなかったと言えば嘘になる。初めて触れる事の出来た、出生すらよく似た男がそう言うのは、悪い気分ではなかったのだ。

 だからか、色々な事を語ってしまっていた。身の上もそうだし、現状父に日々暴力を振るわれている事、フルートを始めた切欠。そういう事の1つ1つを、壱は時に嬉しそうに、時に神妙に聞いてくれた。他人にこうした話をしたのは初めてだったのでどの程度伝わったかは解らなかったが、それでも自分のような女の話を冷静に聞いてくれるというのは不思議な感覚であった。

 特に父の暴力についての話をした時は、曖昧な反応をしていた。それはそうだろう、世間ではこれを虐待と呼び、可奈子がその気になればすぐに父は逮捕され、刑務所行きという極めて悪質な行為なのだ。だから壱も、これを止めさせたいとは思わないのかと問うたに違いない。

 可奈子には、その気は無かった。父には、そのぐらいしかやる事が無いのだ。その対象が姉に向かわなかっただけでも、良かったと思っているぐらいである。

 ぼんやりと自分の姿を眺め続けていたら、外がうっすらと白み始めていた。夏はすぐに朝が来るから苦手である。


 夏休みの部活練習。

 時間通りに登校すると、居たのは壱を除いた3人だけだった。いつも時間通りに現れる壱にしては珍しい事だと思いながら、一番近くにあった机に手荷物を置く。

「おはよござます鶴岡先輩!」

 真っ先に挨拶をするのは、いつも駆け寄って来る咲だった。とても自分と同じ人間とは思えないほどに落ち着きの無い彼女に対してはどう接していいか解らないのだが、何やら自分を気に入っているようなので、悪くはされまいと好きにさせている事が多い。

 頷いて返すと、咲は少し唇を尖らせて続ける。

「聞きました? 黒沢先輩が帰省してるの」

「そうなの」

 初耳だった。とはいえ、部活時間外では誰かと連絡を取る事など出来ない可奈子には、壱も伝えようが無かったのだろう。

「やっぱりかー、なんかうちらにだけ冷たいですよね、黒沢先輩」

「そんな事無いわよ咲ちゃん、あいつ鶴岡には甘いし」

「あたしはスルーなんですかー!」

 喚く咲を、ユキがなだめる。彼女は当初随分と自分に敵愾心を持っていた筈だったが、気付けば柔らかい態度になっていた。叩かれても罵声を浴びせかけられても当然だと可奈子は思っているが、ユキはそれをしない。これも、壱の存在が大きいのかも知れなかった。

「だから鶴岡さん、今日はわたしたち4人だけなんだけど、どうしよう?」

 今度は若菜が、眉をハの字にしながら困ったように言ってくる。あからさまな程に壱に好意を抱いている彼女だったが、可奈子にとってはそれ自体はどうでもいい事だった。男女の機微など知る由も無い。精々、あの壱が何故ここまで解り易い若菜の態度に気付いた素振りを見せないのかという疑問がある程度だ。

 肩を竦めて返すと、若菜はがっかりしたように溜息。中音域の担当が若菜1人だけになってしまうこの面子の中で、合わせの練習をするのはちょっと怖いのだろう。凹んでいる暇があったら練習をしろ、と思うのだが口には出さない。

「とりあえず、個人練習しようか。折角来たんだしね」

 ユキがそう言うと、若菜も咲も渋々、といった様子で楽器の準備を始めた。可奈子もそれに倣う。

 部員達の練度はそれほど劇的に向上はしていないが、よくまとまってはいると思えた。合奏に纏わる理論や経験を多く持つわけではなかったが、可奈子の感想としては「悪くない」音楽なのだった。てんでバラバラであったこのメンバーをここまで纏め上げた壱の所業は奇跡的な事なのかも知れない。

 暫く、個人個人が好き勝手に練習をした。可奈子は通しで2週ほど吹いてみる。楽譜を書いたのは自分なのだから、譜面ぐらいは当然頭に入っているのだ。何も見ず、目を閉じ、フルートに息を吹き込む。

 この瞬間だけが、安らげる。楽器が、自分のような者の吐いた息すら、美しい物に変えて空気に混じり、消えていく。何を喋っても、どんな仕草をしても、樫の杖で叩かれる、その存在すら否定されるような自分でも、ここまでの事が出来るのだと思うと、身震いしそうな程の思いが募る。

 壱のサックスもまた、素晴らしかった。時々やる気を失ったようなものになるのが玉に瑕というやつだが、彼の生み出す音色は、どこか屈託があって、それでいて聴く者に対しては確実に明るくある。性格がそのまま出たようなものかも知れないと思ったこともあったが、それは壱を褒め過ぎているような気がして、黙っている事にした。若菜には乗せられて喋ってしまい、それを彼女は先日漏らしそうになったので、内心焦ったものである。あまり増徴させると、壱はまた面倒臭い事を自分に言うに決まっていた。

 1時間程すると、それぞれに飽きが出始めているのが可奈子には解った。部員が多く居た去年もよく見た光景だったが、これだけ少人数だとは更に際立って見える。特に若菜と咲などは世間話の合間に演奏しているような状態で、ユキはそれを見て困ったように溜息を吐くばかりだ。

 ほんの1週間前、壱も居る5人での練習では、決して見られなかった光景だ。それだけ、壱がこのメンバーにとって無くてはならない者なのかも知れない。そもそも壱が居たら、今の若菜と咲を注意し、下品な事を言ってユキに怒られたりしながら、また自然と真面目な練習に混ぜっ返していく筈だ。

 壱が居ないだけでこの様か。

 内心、そんな権利は無いと思いつつも、部員達に対してどこか失望するような気分になっていた。

 そのうち、この大切な時期に里帰りなどをする壱が許せなくなってきた。さっさと帰って来いと、苛立ち混じりにフルートを吹いたら、ブレスがかかり過ぎて甲高い音が鳴ってしまった。

 驚いたような顔と視線が可奈子に集まる。

「何」

「いや、こっちが聞きたいぐらいだわ。なんかあったの鶴岡?」

「別に何も、無いけど」

「鶴岡先輩なんか怒ってますか」

「別に」

「あの、わたしたちが話しながらやってたから、かな」

 解ってるならやめればいいだろうにと思うが、可奈子は首を振って黙っておくことにする。言ってみても始まらない。

 その日は、ただ延々とそんな無為にも思える時間が過ぎて行った。

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