12
「見さらせ!」
「うおお、超すげえ!」
「ははは自分の才能が怖いわ!」
「やべえ、咲さんマジで出来る人だったんですね……」
引退し、学園祭の演奏を新生吹奏楽部の手で成功させ、そしてすぐに受験に入るともう3年生と関わる機会は殆どと言っていいほど無くなったのだが、咲は壱の前には頻繁に姿を現してくれた。そのうち、彼女の息抜きがてらの買い物などにも付き合うようになり、格好の暇つぶし相手を務めるようになって、3ヶ月。
12月に入って程なくして、咲の推薦入試の結果が返って来た。その結果を見せ付けてやるから出て来い、という咲の命令に従い、壱は近所の喫茶店で彼女と落ち合っていた。
結果は、彼女が珍しく見せた満面の笑みでも解っていたが、合格である。国内でも有数の音楽学校の声楽科への推薦入学を難なく決めていた。咲の本分が歌にあると知ったのは、ごく最近である。
「いやでもここ難しかったんじゃないですか?」
「あたしゃ天才だからな!」
「まあ、それは認めますけどね」
戯れに連れ込まれたカラオケボックスで初めて聴いた咲の歌は、筆舌に尽くしがたいと呼ぶに相応しい歌声だった。荘厳とも華麗とも違う、しかし確実に人の心に何かを残していくようなそれは、彼女の性格をそのまま表しているようでもあって、とにかく素晴らしいの一言に尽きたのである。
吹奏楽部で全く楽器もやらずに、しかし人柄だけで居たのではないという事が解ってほっとしたのも、以前の話だ。
「つってもね。ホラ、君達が凄く頑張ってくれたでしょ。そういう部の部長だった事も勿論大きく作用してるんだよね」
「また謙遜しなさる」
「いやあ、これで冬の大会を聴きにいけるよ」
「あ、そうか、咲さんこれから超暇なんですよね」
「そうとも。週に8回は私に付き合って沢山遊べ」
「無茶言うなおい」
壱の他人に対するスタンスは、劇的に変化した。誰にでも気さくに話しかけられるようにもなったし、何より自分自身の主張をはっきりと出せるようになった。その所為で揉め事もあったりはしたが、きちんと筋道を立てて理性的に話をすれば、必ずまとまるものなのだと学んだ。
理性的であること。壱が、何よりも望んだことだ。
ただし、吹奏楽部の咲をよく知る部員達からは冗談交じりに「桐田が男だったら黒沢になる」というような事を言われるようになった。確かに、壱の言葉や会話の入る語彙の殆どは、咲から持ってきたものが多いと言えば多い。
そんな事を打ちひしがれながら話したら、咲は手を叩いて喜んだものだった。
その頃には、壱と咲の関係は周知の事実のようになっていて、実しやかに交際が影で語られたりもした。それは当然だろう、壱だけを選んで後輩と遊ぶ咲の態度は、誰が見ても好意以外の何物でもない。
だが現実では、壱も咲もそういう点については触れていないのだった。
「でもいいなぁ試験休み。まだ3ヶ月近くあるじゃないっすか」
「その為に3年間頑張ってきたしね。黒沢君だってサックスがあれば楽に入れると思うぜ?」
「どうですかねえ。そんなに立派なもんだと未だに思ってないんですけど」
「まだまだ卑下する癖は抜け切らないねえ」
「年季が入ってれば大体誰でもこのぐらい出来ますよ」
「ううん、君は凄い。特に部内でやってる時の黒沢君は才能全開だと思うし」
「ああまあ、褒め言葉として」
「ふへへ、照れよるわこやつめ」
ぐっと突き出された拳が壱の頭をこつこつと叩く。叩き易いよう、壱も頭を前に出す。こんなことをしているから疑われるのだろう、と常々思ってはいた。
恋愛感情があるのかどうかで言えば、壱は胸を張って咲の事が好きだと言える。言えるが、どうしても最後の所でそういう感情は揉み消してしまうのだった。それを察しているのか、咲もこれまで以上に壱の心に踏み込んでくることはない。精々、部内でのちょっとした悩みなどに的確なアドバイスをくれたりする程度で、壱の感情に触れるようなことはしないのだった。
物足りないと言えば物足りない。しかしそれを口に出せる程、壱は自分の人格を信用しきっていない。
「とりあえず、お祝いといきましょうか」
「あー、ケーキ食いたいケーキ。実は合格にかこつけて奢らせてやろうと思って下調べをしてきたんだ」
「すげえ用意周到だこの人!」
「ははは、まあ見ねえ見ねえ」
トートバッグから雑誌を取り出し、折り曲げてあったらしいページを素早く開くと、咲はテーブルの上に広げて見せた。ぱっと目に入る真っ白な生クリームに包まれた、数段に及ぶ背の高いケーキ。
「ウェディングケーキだこれー!?」
「ああ……いい、すごく良かったよ今の返し」
「俺をリアクション芸人に仕立て上げてどうするつもりなんだよう」
「まあまあ不貞腐れるなよう。本当はこっちな、こっち」
違うページを開いて、咲が指差したのは、ごく普通の苺の乗ったショートケーキだった。これはむしろ意外と言うしかない。
「あれ、普通だ……」
「何を言う、オーソドックスこそ至高なんだぞ?」
「その気持ちは解りますけど、咲さんがケーキって言ったら石鹸でも出してくるかと」
「食いたいか」
「いいです」
「でね、咲これが食べたいの」
人差し指を咥えて、姿勢を低くしながら上目遣いに顔を覗き込んでくる先輩の仕草は、壱にとっては中々くらくらと来そうな威力がある。
「うるせえよ自分を名前で呼ぶな」
「ちっ、駄目か」
「や、ケーキ自体はご馳走しますよ。この辺の店なんですかこれ?」
「マジで!? やったね、うんすぐ近くなんだ、行こう行こうすぐ行こう」
まだコーヒーも半分は残っているというのに、咲は家屋に解き放たれた外犬の如く大はしゃぎで壱を急かした。急かされるまま、壱も残りのコーヒーを飲み干して続く。
咲目当てのケーキショップは、喫茶店から歩いて数分の場所だった。普段から特にケーキなどには縁の無い生活をしている所為か、壱はこんな所に店舗がある事すら知らない。見た目には古風な作りのフェイクの煉瓦に覆われた外壁が、どこか郷愁のようなものを誘う。
「へえ、結構立派な門構え」
「ご主人早く! 早く早く! 早く早く早く!」
「落ち着きの無い駄犬みたいだなあんた」
「いいじゃないか、楽しみにしてたんだもの」
壱の腕を取る咲に引きずり込まれるようにして入った店内は、外装に反して清潔感に満たされた作りだった。よく磨かれた床は自分の顔が写りそうですらある。
咲は一目散にショーケースに寄って、指をさす。
「これなんだ」
「へえ、数量限定……あれ、なんか高くね?」
「黒沢君奢ってくれるって言った」
「え、でもこれ相場の3倍ぐらい……」
「黒沢君奢ってくれるって言った」
いつもの真顔に戻られると却って怖いと思いながら、一応それ程の打撃ではなさそうだと財布の中身と相談し合って、壱は苦笑いを浮かべながら頷いた。咲が本当に飛び上がって喜んだので、それも食い止めた。
どこで食べるのかという問いに、咲は間髪入れず「部室」と答えた。OBの職権乱用である。
私服で校内に入ることを別段咎められはしないのだが、あまり目立っても良くないと思い、2人揃って裏門から特別教室練へ向かう。部室の窓の唯一ロックの甘い箇所を外し、靴を脱いで忍び込んだ。
「進入完了。黒沢大佐、性欲をもてあます」
「知らねえよそんな事」
「あ、冷たい」
コントも一応挟んでから、音楽室の机を2つ向かい合わせに並べ、壱はそこにそっとケーキを置いた。蓋を開けると、ふわりと甘い匂いが漂ってくる。咲が狂う程に欲しがる辺り、本当に美味しいのだろう。
「よしじゃあ私は食器を用意してくるから待っててね」
「あ、俺も」
「いいよいいよ」
手伝おうとしたのを軽く流され、音楽室に取り残された。仕方なく、適当に椅子を引っ張り出して座る。
咲と2人だけで、しかも他に生徒が来る気配が無い状況だという事に気付いて、聊か狼狽した。したが、やはり彼女は壱の内側までは踏み込んで来ないだろうという事も簡単に予想できて、苦笑いと溜息が出る。そうさせているのは自分も悪いと解ってはいても、どこかで咲程の人間も、許容しきれないのだった。
今朝から続く頭痛を自覚。この所そんな事が多い。苦しいというほどでもないので家族にも言っていないが、こうも頻繁にあると病院へ行った方がいいだろうかとも思う。
そんな事を考えた辺りで、咲が戻ってきた。ぼやけた視界を、頭を振ってはっきりさせる。
「どうしたね」
「ああいや、大丈夫です」
「具合でも悪い?」
心配そうな顔をして、咲が1歩こちらに近寄った。
まずい、と即座に判断した。「まずい」という言葉が脳裏を掠める刹那の暇すらなく、壱は頭を押さえて椅子から転がるようにして落ちる。咲の慌てた声。駆け寄ってくる足音。傍にしゃがみこんで伸ばされた手首を、壱は掴んだ。
「あっ」
咲の驚く声を聞くのは初めてではないだろうかと、どこか遠くで思う。
がっちりと握った手首をそのままに壱は立ち上がると、今度は空いている咲の肩を掴んだ。彼女の表情が驚きから苦悶に変わる。壱の手の中で、咲の細い手首と肩が悲鳴を上げた。
「痛っ」
抵抗するように身を捩る咲を、何故か壱は悦びと共に見ていた。そして、喜んでいる自分を、更に薄皮一枚外側で自覚した。止まらない。
肩を解放し、咲のセーターに手をかけ、ブラウスごと引き摺り上げた。咲の表情に、初めて怯えが混じる。白い肌に覆われた腹部を隠すように腰を引いた彼女が机とぶつかる。
次の瞬間、がしゃん、という音が鳴り響いた。彼女の持ってきた食器が机から落ちて、割れたのだった。それで壱の衝動はぴたりと止む。
手に篭められていた力が緩むと、咲は慌てたように体を引いて、しかし1歩程の、彼女からしたら「危険」な距離を維持したまま、壱の顔をじっと見据える。その足元に、ナイフが落ちていた。
今自分が何をしたのか、漸く壱は理解した。刃物を持つ人間に、無条件に反応する病。それと咲に対する劣情が同時に噴出してきたという事か。顔を真っ赤にし、いくらか乱れた髪を指先で払いながら小さく短い呼吸を整えようとする彼女を見ても、今は何も沸いてこない。
膝から落ちた。またやってしまったのだ、と思った。頭を抱え、或いは許しを請うように、壱は床に額を擦りつける様にして震える。この、敬愛する人間に対して、今自分は何をしたか。
どのぐらいの時間が経ったのかは解らない。長かったような沈黙を、咲が破った。
「大丈夫なの?」
そんな一言だった。何よりも、自分の心配をすべき状況で、咲は壱の身を案じる。それどころか、今すぐ逃げ出した方がいいかも知れないのに、再び距離を詰めて来るのだった。
「黒沢君」
「触らないで下さい」
咲には申し訳ないことをした。どう言葉で飾ろうと、今あるのはそれだけだった。同時に、家族にもこれから迷惑をかける事になると思うと、壱は今すぐどこかで首を括りたいと本気で思う。
かなり躊躇った様子もあったが、それでも咲は壱の肩に触れてきた。慌てて振り払って、むしろ壱が彼女から逃げるように、体を引く。
「黒沢君、顔色真っ白だよ。本当に具合悪いんじゃ」
「俺なんかより先輩が」
「あ、うん」
ちょっと目を逸らして、咲は自分の手首を隠した。骨にまで異常が無くても、痣ぐらいは残っているに違いない。そのぐらい、壱の膂力は強い。
「ねえ、なんでこんな事したの?」
「……」
「強引なのは嫌いじゃないけど今のはちょっと、怖かったな」
「俺は」
「うん」
何か言おうとして、何も出て来なかった。桐田咲という女性に傷をつけたこと。怖がらせたこと。同時に、これから家族に大きな負担と迷惑をかけるであろうこと。そんな現実ばかりが頭の中を駆け巡って、壱の口はもう何も喋る事は出来なくなっていた。
辛抱強く咲は自分の言葉を待っていた様子だったが、諦めたのか、割れた食器を片付け始めた。そんな音を聞きながら、壱はずっと俯いて、黙っているしかなかった。自分が立ち上がっただけでも、今の咲には脅威にしかならないに違いないのだ。
片づけが終わると、咲は椅子に腰を下ろして、壱に向き直る。まだ待つつもりらしい。
次第に、頭にきた。
「何してんですか」
「私かい」
「今度こそ、殺すかも知れませんよ、俺」
「そうかね」
ちょっと笑って、咲ははぐらかす。それで、自分は怒れる立場などではないのだと思い直し、深く息を吐いた。やってしまった事も、これからの事も、気が重い。
立ち上がった。咲は真っ直ぐに見上げてくる。
「帰ります」
「そう」
「じゃあ」
音楽室を出て数歩進んでから、壱は走った。自宅に駆け込んだ後の事は、殆ど記憶に無い。ただ気付けば、兄が自分の両腕を締め上げて下敷きにしていた。また暴れたのかも知れない、と思うと、泣きたくなった。
それ以降、壱は学校を休んだ。していた事と言えば、音楽を聴くともなく垂れ流しにして、膝を抱え、体格には見合わない少量の食事を済ませる事だけだった。何度か学校からも連絡はあったようだったが、全て兄が上手く捌いてくれたらしく、あまり強硬な態度は取らなかった様子ではあった。
年が明けても自室に居た壱の元に、兄は驚くべき事に学校のパンフレットを持って現れた。そして、転入試験を受けろ、とだけ言ったのだった。
中途編入の手続きと試験については、裏に回った金もあるのかも知れないが、上手く行ってしまった。精神的に持ち直したのは、しつこいほどの兄の厳しい言葉と優しい言葉だった事は覚えている。
そうして、黒沢壱は楠白高校に転校する事になった。




