10
梅雨の中、珍しく青々と晴れ渡った空と、久しぶりに見るような気のする太陽が眩しい。
運動部で言えば「新人戦」とでも呼ぶのであろう6月のコンクール、そのメンバーとして、壱はすっかり組み込まれてしまっていた。勿論演奏を出来る事についてはとても有難いし楽しみな事ではあるのだが、やはり同級生や上級生に対して微妙に負い目のようなものを感じてしまうのだった。どうしても他人との上手な距離の取り方が出来ない壱にとって、過剰に集団の中で目立つという行為はあまり精神衛生上宜しくないのである。
かといって、今から辞退など出来るわけもなく、内心やはり溜息を吐く。
「どうしたね」
そして壱がそういう気分でいると、咲は必ず声をかけてくるのだった。正直な所、あまりにも踏み込みすぎてくるこの先輩が壱としては鬱陶しい。心配もしてくれているのだろうし、興味本位もあるのだろうが、出来ればあまり自分とは絡まないで欲しいというのが本音だ。
普段通りの部活時間、その休憩中。壱は咲の方を見ずサックスにクロスをかけながら、答えた。
「いや、別にどうもしませんけど」
「おやおや? 顔に書いてあるぜ、僕なんかがこんなに出張っちゃっていいのかなぁって」
驚いて振り向くと、咲の人差し指が目に入った。
「うおっ」
「うわ、ゴメン」
「何すんですか!」
「いやそんなに思いっきりこっち向くと思わなくてさ……っていうかマジでごめんよ、大丈夫かな」
今度はそっと親指を瞼に添えて、覗き込んでくる。いつもの真顔にいくらか心配の色を乗せて、うんうんと唸りながら好き勝手に人の顔をいじくりまわすのだった。
振り払う。
「大丈夫ですから。痛いですけど」
「お、怒ったらイカンよ?」
「怒っちゃいませんよ、事故でしょ今の」
「うんまあ、なんだ。構いたいのが本音でさ」
「咲ー、その辺にしないと嫌われるよー」
助け舟とばかりに、上級生が横槍を入れてくれる。
「あたいもそんな気がしてきたところさ。でも1こだけ聞いてくれるかな」
「はあ」
「君を選んだのは私じゃなく吹奏楽部なのよね。だから、別に人の目なんか気にしないでいい。そもそも、2年しか出ちゃいけないというルールも無いわけで」
「そうなんですか」
「どの道、トミーが出られないとなったら1年生の誰かを使うしかないのさ。するとまあ、腕前的にも楽器的にも黒沢君を選ぶのは自然なこと。別に君を特別扱いしてるわけじゃない」
「わかります」
「ならいいよ。目痛かったら休んでていいからね。ごめん」
言って、壱の頭を軽く叩いてから咲は教壇に戻った。咲の基本的な仕事、というよりも恐らく今後咲の仕事は部長職と指揮である。流石に丁寧な指揮ぶりをしてはいるのだが、吹奏楽部の部長が楽器に一切触れないというのもどういうものなのかとは思う。
さておき、咲の言うように、いつまでもぐちぐちと沈んでいても仕方が無いのだった。そう解ってはいても、そう簡単に気持ちを切り替えられる程、壱の精神構造は単純ではない。
溜息混じりに、顔を洗いに廊下へ出た。鏡を覗き込むと、別段目に異常は無い。
自分の目を見ると、どうしても拓の一件を思い出す。自分が代わりを出来ればどんなにいい事か、と何度も考えたものだった。しかし家族の誰も、拓から片目と多くの可能性を奪った自分を責めなかった。責めたのは、人に向かって玩具とはいえ鋭利なものを振り回した事実だけである。
罪を憎んで人を憎まず、ではないが、要するに家族が壱に対して取った態度はそういうものだった。
その頃から壱の心理は、少しずつだが外に向かい始めたと言っていい。
「おい黒沢」
声をかけられる。振り向くと、上級生の男子。
「なんですか」
「ああ、桐田が呼んで来いってさ。合わせるらしい。さっき見てたけど、目は大丈夫か?」
「ええ」
頷いて、一緒に音楽室へ戻り、少しだけ心配げな顔をする咲にちょっと手を振って、合奏に混ざった。あまり気乗りはしなかったが、それでもこれは義務なのだとして、サックスを吹く。
その日はそれで部活は終了となり、皆思い思いに下校していく中、壱だけは咲の目配せで残っていた。2人だけになると、咲は壱の傍に腰を下ろし、真顔のまま、口を開く。
「やっぱりやめるかい」
「え?」
「嫌々やっても楽しくないでしょ。無理矢理引っ張り出した私の台詞じゃないけど」
「嫌々やってるわけじゃ」
「その割には酷い演奏だったと思うけどね、さっきの。私は楽器は殆ど駄目だけど聴く耳はあるつもりでね」
「……やめると言ったら、やめさせてくれるんですか」
「勿論。ただ、部も一緒にやめてもらうけどね」
思わず目を剥いた。咲の表情は変わらない。
「義務感でやられても困るしさ。君から見たら私なんかちゃらんぽらんのバカに見えるかも知れないけど、一応本気でやってるのよ。音楽は好きだから」
「別にそういう風には見てませんけど」
「それはいいよどうでも。ただ、私は部内を見渡して、1人事情で欠ける中、君を選んだ。だからこれには一生懸命やってもらわないと困る。それは解るね」
表情に変化は無いし、体格は壱よりも随分と小さいのに、咲からは言いようの無い迫力が漲っていた。返す言葉が無い、という状況に陥るのは、兄に言いくるめられた時以外に殆ど体験したことが無い。
「でも君はどうしても周りを気にして気乗りしない。いや、周りに気配り出来ない人よりゃよっぽどいいんだけどさ。だからってそれでやる気が無くなるんだったら、別の1年生を使うよ。やりたい子はやっぱ居るだろうし」
「でもなんで部まで」
「そりゃそうさ、自分にとって嫌な事だってさせられるんだよ、こういうコミュニティじゃ。それを選り好みしようって人とは、私はやりたくない。残念ながら私はこの部の部長なのでね」
そこまで言って、漸く咲は笑った。何故かそれで、壱はほっとする。
「やめろって言いに来たんじゃないのよ。そこは勘違いしないでね。君には是非ともこのまま続けて欲しいから。ただ、どうしたら黒沢君が一生懸命やってくれるかなと考えて、まあここは本人に話を聞く方がいいだろうと」
「……それは、すいませんでした」
「謝らないで。ホラ、黒沢君てちょっと周りに構えてる所があるでしょ。性格なのかどうかは解らないけど、いつまでもそれじゃ辛いと思うし、そもそもそんなじゃ部活なんてやってらんないし」
「構えてるつもりは無いんですよ。ただ、上手く距離が取れないというか」
「距離ねえ」
気付くとそんな事を口走っていた壱を前に、咲は笑うでもなく真剣な表情になって、腕を組み考え込み始めた。こういう風に接してくるのは、鬱陶しいとは思わない。兄に近いスタンスだ、と内心思う。
「確かに他人と上手に距離を測るのは難しいわな」
「先輩は上手いですよね、流石に」
「そうかね。私は基本的に自分を見せることでしか解って貰えないタチだから、そうしてるだけよ」
「まあ、そのいくつかには引きましたけど」
「ハッハー、そいつは褒め言葉だぜ?」
笑って、咲は急に壱の手を取った。驚く間も無く、続ける。
「物理的に距離を詰めるのは簡単なんだよね。これでいい。でも心理的にはかなり難しい。そういうのが苦手で、黒沢君は楽をしよう楽をしようと思って他人に遠慮するのかな」
「……大体、そんな感じだと思います。遠慮ってほど、綺麗なもんじゃないかも知れませんけど」
他人にこうして内面の事を吐露するのは初めてじゃないだろうか、と驚きながら、しかし壱は何故かこの人に聞いて欲しいと思い始めている自分に気付く。そういう雰囲気というか話し易さのようなものを、咲は確実に持っている。部長足り得る人材なのだ、と改めて思い直させられる気分だった。
「慎み深いのは美徳だと思うよ。でもなあ、私や他の人達はもうちょっと黒沢君の事を知りたいのさ。だからいつまでもそれじゃ、嫌われてんのかな? とか思うしね」
「や、皆さん本当に良くしてくれますし」
「んー堅いねえ、君に良くするのなんて当然じゃない。同じ部活に居る人間同士なんだから。その上で、出来れば君を知りたいと思うのは、何もおかしい事じゃないと思うんだけど」
「そうですかね」
「そうとも。もっと自分を語るべきだよ。それで衝突することもあるし、黒沢君はそれが超面倒くせえのかも知れないけどやっぱ避けられない事だからね。もし今後も、人に対して壁を作り続けるっていうなら、私は残念だけど部の結束の為にも君の首を切らないといけない」
「わかります」
噛んで含んだような、子供に言い聞かせるような語り口だったが、それでも壱は咲の理屈が抵抗無く受け入れられた。兄に同じことを言われても、どこかで不貞腐れたかも知れない。あまりにも自分の内側を指差してくる物言いの多い兄に対し、咲は外からそっとそれを教えてくれるような所があると思った。
簡単に言うと、咲の喋りは壱にとって優しいのだった。
「でもさあ、私もそうだけど、他の皆も黒沢君のこと好きだからね。天才新入生サクソフォニストとかマジ話題性の塊みたいじゃね? そしてそんな青年と音楽室で2人きりとか今のあたいってばマジスキャンダラスじゃね?」
「……今、凄い勢いで部長を尊敬し始めてたんですけど」
「あ、うん。全力で敬えばいいじゃない」
「やめときます」
「ちくしょう!」
握っていた壱の手を離し、咲は頭を抱えて嘆いた。他人の温もりの無くなった手が、少しだけ冷えるな、と思いながら、凹み始めた咲を慰める作業に入る。
「ああいや、一応尊敬はしてますから……」
「本当?」
「ほ、本当です」
潤んだ目――これも彼女の技なのだろうが――を向けられると、流石にどきりとするのだが、壱は努めてそれを隠し、頷く。その瞬間に表情が戻るのだから、やはりよくわからない人でもあった。
「ならいいや。うん。今後も私に敬慕と愛を持って接するべきだよこの1年坊主が」
「退部届けって職員室でいいんですかね?」
「行かないでー!」
立ち上がる壱の腰に縋りつく咲を押し留めて着席。流石に怪しい体勢だと気付いたのか、咲も心持ち恥ずかしげに身を離して、咳払い。相変わらず意味の無い咳払いではある。
「その、まあ、あれよ。うん。頑張ろうか、部活」
「はい」
「明日からはキッチリやってくれると信じているぜ」
「部長にそう言われたら、やらないわけには」
「良かったよ。聞いてくれてありがとね」
言って、本当に嬉しそうに微笑んで、咲は席を立った。自分の鞄を持ち、扉に向かう。
「何してんの? 鍵閉めるからおいで」
「あ、はい」
自分も鞄とサックスを持って、廊下へ。鍵の閉まる、かちゃりという小気味の良い音と同時に、肩を並べて歩き出す。
「そういやさ、黒沢君私の事部長って呼ぶじゃん」
「部長ですし」
「なんかさー、こう、愛を感じないよね?」
「無いですからね」
壱が反射的に言うなり、咲は膝から崩れ落ちて挫折のポーズを取った。スカートがめくれている事にも気付いていない様子である。笑いの為ならなんだってする人なのだと戦慄するしかない。
「無いんだ……」
「あ、いや、すいませんあります……」
「やめてよね、黒沢君がそう言うと心臓に悪いだろ」
「申し訳ない」
「でさ、部長だとやっぱかてえのよ。ここは1つプリティな呼び名をおくれブラザー」
「白レース」
「は?」
珍しく顔じゅうに疑問符を浮かべて、それから咲は思い立ったらしく、慌てたように距離を取った。
「バカな、新入生は透視能力を!?」
「さっきスカートめくれてたんで」
「うわーん! こんな事なら履いてくるんじゃなかった!」
「いやそっちの方が引きますからね俺!」
「はぁ……もうレイプされたも同然だよ……入籍しよう今から」
「すっげえ無茶苦茶言いますねあんた」
「お、柔らかくなってきたね。まあ白レース以外でいい呼び方を考えといてね」
言われて、確かに言葉が軽々と出て行く事に気付いた。自宅以外でここまで気安く話すのは初めてかも知れない。
「部長は凄いっすね」
「まだ部長なのかよう」
「あ、そうか。えーと、先輩とかじゃ変わりないしなぁ」
「桐田咲、なんだよ私は」
「桐田さん……」
「黒沢さん……」
向かい合って指を絡める馬鹿2人の構図が即座に出来上がった。ある意味ではこの瞬間から、壱は咲に完全に取り込まれたと言っていい。
「なんでメロドラマ風に」
「なんかそんな空気になりかけたから。でも桐田さんもなんかなぁ」
「咲さんてのもどうかと思いますけど」
「あ、いいじゃん咲さん。咲さんで行こうぜ」
「わかりました」
「よしじゃあ漫才コンビ咲アンド壱の結成を祝して飲みに行こう」
「わぁー、突っ込みどころ満載だぁー」
「ははは突っ込むのは基本的に前だけにしてくれよ」
「……いやでも咲さんマジで恥を知った方がいいんじゃないすかね」
「結構傷ついてるからな、それ」
そんな馬鹿をやりあいながら、帰路に着いた。
この頃から、壱の発言は彼女を模したような所が多くなったものの、黙然とした人格はいくらか鳴りを潜め、積極的に発言していくようになる。




