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1年前。
入学式を恙無く終えた新入生は、着慣れない学生服を正しながら、それぞれ教室へ戻って行く。その流れに、壱もまた黙然と従う。中には既に気の合う相手を見つけたのか、楽しげに会話を交わしながら進んでいく者もおり、壱はそんな同級生達を眺めながら内心小さな溜息を吐いた。
家に帰り、家族を相手にすれば、それなり以上に喋ることも出来たが、やはりどうしても壱には赤の他人というものに馴染む事が出来なかった。どうしても1歩以上身を引いて構えてしまう所がある。それは、また同じような――拓の目を奪った時のような――事があるのではないかと考えてしまうからだった。
それでも、無口でありながら、同世代に比べて圧倒的な楽器の腕前を持っていたためか、吹奏楽部は元より中学時代は「落ち着いた」キャラクターが立っており、不便はしなかった。しかし殆どの友人が別の学校へ行ってしまった事もあり、また同じような扱いを受けるまでは色々と面倒がありそうだと思うと、今度は実際に溜息も出るというものである。
担任教師の特段有難くもない挨拶を聞き、入学式の日程は終了となった。思い思いに立ち上がって、やはり輪を作りながら出て行くクラスメイトを横目に、とりあえず吹奏楽部に入部する為の手続きをしようと、壱も重い腰とサックスのケースを持ち上げる。既に180を超えていた上背故に、壱が立ち上がると周囲が聊かぎょっとして目を向けてくる。これにも早々に慣れて貰いたいものだと、やはり溜息。
体育会系の部活勧誘に、恐らくは体格を見てか何度も誘われたりしたが、既に部活は決めている旨を伝えながらやり過ごす。確かに外から見れば、自分の体格は勿体無いのかも知れないなと他人事のように考えながら、特別教室が集まっている方面へ進んだ。
音楽室はすぐに見つかった。また溜息。好奇の目が嫌というよりも、安定した距離感に落ち着くまでの期間がそれこそ落ち着かない壱にとって、知る人の居ないこの部屋へ入っていくのには聊か抵抗があるのは確かだ。しかし、入らない事には部活に参加する事も出来ない。覚悟を決める。音楽に対してだけは、一応生真面目な壱であった。
「失礼します」
ぼそりと呟くように言いながら入ったのだが、扉の開く音に敏感な学生達はすぐにこちらを見た。男女それぞれ20人前後。そのうち、1台のノートパソコンに向かっていた女生徒が、すぐに立ち上がって口を開く。
「お、新入生?」
「そうです。入部希望で」
「咲すごい!」
「部長マジで神通力か何か持ってんじゃないすか?」
何やら騒がしくなる室内に取り残されたような気分になりかけた所で、咲と呼ばれた、最初に声をかけてくれた女生徒が歩み寄ってくる。その表情は、殆ど読めないと言っていい程に真顔で、拓に言われた人心の読み方の何1つも通用しない防御の固さがあった。
髪は、持ち上げて離せばそれこそさらさらと音がしそうな程に柔らかく揺れ、肩を境に2つに分かれている。二重瞼のいくらか彫りの浅い目元にはむしろあどけなさがあるように見えたが、引き締められた口元には頑迷と言っても良さそうな程の意思の強さが封じられている。肌は普通よりも白く、荒れ1つ無い頬が、ちょっとだけ持ち上がった。
笑ったのだ、と気付いた時には、彼女の口から声が出ていた。
「いや騒がしくてゴメンね、今パソコンで自作の占いをね」
「はぁ」
「最初に来る入部希望者が男か女かを賭けていたところでさ」
「なるほど」
「まあいいや、とりあえずようこそ。私は桐田咲、部長になので媚びへつらうように」
周囲から笑いが漏れる。壱も一応の愛想笑いを計算して返しておいた。その程度の事は出来る。
「じゃ、こっち来て座って」
いきなり掴まれた手に驚きながら、しかしされるがままに引かれて着席する。すぐに、別の生徒がB5を半分にカットしたようなサイズの紙とボールペンを出してくる。
「クラスと名前と。あと希望の楽器とかあれば」
言われるまま、クラスと名前を書き込み、希望の楽器の欄にサックスと手早くペンを走らせ、手渡す。
「くろさわ……」
「はじめ、って読みます」
「ああ、イチだからね。サックス希望っと」
部員達の微妙に多い視線に辟易しそうな中、咲は何度かうんうんと頷いて見せてから、ノートパソコンに何事か打ち込む。
「オッケー、入部完了」
「ありがとうございます」
「んん、堅いな君は。もっと適当にやろうぜ?」
「や、咲が適当すぎるだけだと思うけど……」
「なんだとう、あたしゃいつだってマジだぞう」
「楽器なんか殆どやらないのに?」
「楽器の話はするな!」
突然立ち上がって、絡んでいた女生徒のスカートをめくろうとする咲。必死な声を上げて逃げ惑う女生徒。唖然として、眺めるしかない。
「あー、ゴメンなこんな部長で」
これも上級生だろう男子生徒が、苦笑いをしながらぽんと肩を叩いてくれる。
「あいつ、楽器駄目なんだよ基本的に」
「部長って呼ばれてましたよね」
「まあそうなんだけどさ。あいつより楽器の上手いやつはいくらでも居るんだけど、部長が出来るのはあいつしか居なくて」
「人望のある人なんですね」
「そんな立派なもんでもないけど」
また苦笑いをする男子生徒にも自己紹介を受け、壱も返す。すぐに割り込んできた別の上級生たちが口々に話しかけてくれる。意外とすんなり収まることが出来たかな、と心中でほっとした。
ふと、思い出したように咲がこちらを向く。
「ところで黒沢君」
「あ、はい」
「サックス吹いてくれない? 一応今後の編成の為にも、君の腕前は知っておかないと」
「楽器なんかほとんど出来ないくせに偉そうな部長でゴメンね黒沢君」
「楽器のことは言うな!」
再びスカートめくりに奔走し始めようとして、咲は思い直したらしく咳払いを1つ。何を誤魔化すための咳払いなのかは全く解らない。
「あー、で。皆も聴きたいでしょ?」
「そうだね、折角だし」
「あ、いやでも」
「遠慮すんな黒沢、超下手でもお前より下手な部長が居ると思えば安心できるだろ」
「今度はお前か! なんだ部長になってくれっていうからなったのにこの扱いは! タマ引き抜くぞ!」
「咲はそろそろ恥を知った方がいいと思うな」
「そっちの方がフェチっぽい?」
「いやまあ、うん、そこから直していかないと駄目ね……」
「言いたいことがあるなら言いなさいよ! スカートはめくるけど!」
再び取り残される壱。
騒動は5分ほど続いて終わり、漸く壱にお鉢が回ってきた。長い髪を指先で払いながら、真顔で咲が口を開く。
「やあゴメンね黒沢君。私ってばシャイだから好みの男が現れるとついはしゃいじゃうのよ」
「いつも通りだったじゃない……」
視界の端で股間の辺りを押さえながら悲しげに蹲る女生徒の突込みを無視しながら、咲は「とりあえず吹いてくれ」と続けた。
どの道この中で演奏する事になるし、今日はまだ1度もサックスに触っていない事もあり、壱は頷いてケースの蓋を持ち上げた。集まる視線。
「おお、結構高いやつじゃね?」
「そうですね、値段は結構」
「こりゃ期待出来そうじゃない」
色々な憶測が飛び交う中、ちょっと見つけた指紋をクロスでふき取り、準備を済ませた。咲の方をちらりと見ると、腕を組み足を組みしたポーズで1つ頷き返してくる。
大きく息を吸い込んだ。音色を吹き込む。
ジャズだが、恐らくは誰もが1度は耳にしたことがあるであろうスタンダードナンバーを選んだ。始まってしまうと、壱の耳には殆ど回りの音は入ってこなくなり、自分の奏でるサックスの音色だけが世界に残るような錯覚に陥る。緩やかな、それほどのペースは無いものの刻むような音符の連続をアドリブを加えながらはきはきとこなしていった。指を動くがままに、音を響くがままに、楽曲という体裁を意識するまでも無く、整った音楽が顕在していく。その瞬間、手から、体から楽曲が浮き出す瞬間が、壱にはたまらない。
時間にすればほんの数分、演奏を終え、大きく息を吐いた。一瞬の静寂の後、大きな拍手が返ってくる。
部員達が、口々にすごいとか格好いいとか誉めそやすのに苦笑いしか返せずにいたものの、それでもやはり気分は良いものだった。場が落ち着き始めた所で、気付けばじっと静かにしていた咲が、立ち上がる。
「黒沢君」
「あ、はい」
「私は君が憎い」
「はぁ」
「ちくしょう! もう君が部長やればいいじゃん!」
「ごめんね黒沢君、咲のいつもの病気だから……」
「イケメンで? 背が高くて楽器上手くて? 何物与える気だコラ!」
「落ち着きなさいって咲、黒沢君ドン引きだから」
天を仰ぎながら喚き始める咲と、取り押さえる女生徒複数。今日何度目だろうと思いながら、しかし壱は唖然とするしかなかった。
壱にとって、桐田咲とは、最初はそういう「よくわからない」存在だった。
吹奏楽部に入部して1ヶ月程すると、近隣の他校との合同合奏会の存在を聞かされた。
適当に椅子に腰掛けた部員達の前に立ち、プリントを手に咲は説明を始める。
「とりあえず去年もやったし皆憶えてると思うけど一応説明すると、要するにこの界隈で本当に楽器の上手い吹奏楽部はどこなのかを決める血で血を洗う戦いなわけでさ」
「うん、ぜんぜん違うな」
壱の前の席に居た男子生徒が半笑いで突っ込んでいくも、咲はそれを軽やかにスルーして続けた。
「とりあえず曲目は去年と一緒。つまんないねー君たち。で、演奏するのは2年全員」
「本当に去年と何も変わらないのね」
「うん。でもまあ、それじゃつまんないでしょ? そこでだ」
女生徒の何気ないぼやきに素早く反応し、咲室内をぐるりと見渡してから、頬杖をついている壱を指差した。自然と自分に集中する視線。
「ここで我らが虎の子を出撃させる」
「は?」
「なーに、わかんないわよ誰も。黒沢君デカいし」
「いや、え?」
「ああ、黒沢なら出しといていいんじゃないかね」
「うんうん」
「いやちょっと待って下さいよ、これ2年生だけでやるやつじゃ」
「トミー、バッジを寄越しな!」
咲がそう言うと、一番前の席に座っていた太り気味の男子生徒――確か富田といったはずだ――が襟のバッジを外し、咲に手渡す。それを手に、壱の机の前までやってくる咲。
握らされる、「2-A」の学年章。
「よし」
「いや何も解決してませんよ!? ていうか富田さんはどうするんですか!」
「ああ俺その日法事で出られないんだ」
肉の乗った頬を緩めて穏やかに微笑む富田に何も返せずにいると、咲は勝手に話を進めていく。
「というわけでトミーの穴を埋めるためにも黒沢君には出てもらわなければならないのよ」
「あ、いや、それは光栄なんですけど、他の1年に示しがつかないんじゃ」
言いながら、同じく新入部員として入ってきた同級生に目をやるが、誰もが笑って首を振る。この2ヶ月で咲の言を覆すことの難しさを壱同様嫌という程学んだ連中である。
「異議のある人は挙手ー」
既にまとめに入ろうとしている咲を止める言葉も思いつかない。確かに、サックスのポジションであれば代役を務める事ぐらいは喜んでやるが、それにしても順序や原理原則に聊か反しはしないかと思ってしまうのである。その程度には、壱の頭は堅い。
しかし誰も挙手はせず、むしろ賛成意見ばかりとなってしまった。自分の腕前が認められている事に喜ぶべきなのかも知れないが、とはいえ急激な決定過ぎた。桐田咲は万事がこういうタイプである。
「よし決定」
「決定って」
「諦めなさい黒沢君……あの子を止めたかったらミサイルでも持ってくるしかないわ」
メガネの、見た目にはむしろ彼女の方が部長に見えると評判の先輩が、諦めたような、しかし嬉しそうな顔で壱の肩を叩いた。
それでも期待されている事は、素直に嬉しい事なのだと思い直し、溜息を隠して頷く。
「わかりました……じゃあ、富田さんの代わりに」
「あ、俺の事は気にしないで黒沢は好きにやっていいよ」
「そうよ、トミーの代わりなんて誰にも出来ないんだから」
今私良い事言ったよね、と訴えるような顔の咲に、やはり壱は苦笑いで応えることにした。




