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呟きとメヌエット  作者: camel
夜道に奮うリレイション
32/71

 8月の、丁度盆に当たる初日、壱は実家へ向かう電車に揺られていた。

 時間にして2時間と少し。土産になるようなものは何も無かったのがそこそこに申し訳ないが、正直なところ壱は帰郷が楽しみで仕方が無かった。

 壱にとって、何よりも優先したい事が、家族である。父母と兄、それに妹という構成の人員が、壱にとっては何よりも誇らしく、また尊いものだった。所謂養子である壱は、場合によっては疎まれたかも知れない環境で育ったにも関わらず、しかし家族は皆等しく壱に愛情を注いでくれた。

 拓の目を傷つけた時ですら、叱りもしなかったのである。壱が心に「刃物を異常に恐れる」という病を抱えていると知っているとはいえ、実の息子の目を養子が抉ってしまったのである。放り出されてもおかしくなかった筈だと、かつては何度も思ったものだった。

 だが今こうして帰郷を楽しみに出来るというのも、全ては家族のお陰であった。帰れる場所があるというのは何よりも有難いものだと思う。

 考えてみれば、引っ越してからの壱は殆ど孤軍奮闘だったと言っていい。自ら望んだとはいえ慣れない新環境に問題の多かった吹奏楽部の建て直し。特に鶴岡可奈子というどこか己を見るような少女との立会いは、重労働だったとすら思う。合間に様子を見に行けと指示した父にも、それに乗った兄にも、やはり感謝しか無い。

 だからこそ、或いは学校のことは忘れて、育った場所で過ごす。胸が躍らないわけがなかった。

 田舎特有の、極端に発展した駅前を過ぎ去ればすぐにありふれた住宅街に差し掛かる。申し訳程度にコンビニエンスストアがある程度で、商業面ではこの町はあまり栄えているとは言い難い。その分、緑豊かな風土が、様々に農業を発展させている、牧歌的な「田舎町」である。

 たかが数ヶ月とはいえ懐かしい景色を眺めながら、しかし自然に曲がり角では曲がっていく自分の足を頼もしく思いながら進むと、自宅手前の辻で見知った影を見かけた。

「翠」

 声をかける。びくりと体を縮みこませてから、影はそっと振り返った。気持ちよく日焼けした顔に、雑に結った一房の黒髪。くるくると良く動く瞳は、まだ数メートルの距離があるここからでもはっきりと見えた。

「壱にい」

 呆然と、零れる様に口から出たのは、懐かしい舌足らずな自分の呼び名。

 拓、壱、ときて全てが一文字名の兄弟の末っ子、妹の翠だった。年齢に比べればひょろりと長い上背が、スポーツバッグを事も無げに抱えた姿は中学2年という年齢に似つかわしくない程に逞しい。

「今帰り?」

「あ、うん」

 スポーツバッグを持ってやりながら歩きつつ、そんな事を言うと、翠も慌ててついてくる。

「どうなのよバスケ部」

「ええと、あ、翠レギュラー取れれて」

「れが1個多いな?」

「取れて」

「うむ」

「っていうか何してんの!?」

 やっと突っ込まれた事に、壱は安堵した。このまま自宅に入ってごく普通に迎え入れられたりしたら今夜は枕を濡らさずにはいられなかった所である。

「意味わかんね! 意味わかんね!」

「落ち着け翠。そしてただいま」

「帰ってくるならそう言えよー!」

「それじゃサプライズにならないだろー」

「ああもう!」

 意味のわからない叫びを上げながら状況確認に入る妹。たかが4ヶ月だが、やはり変わらないこの物腰に内心うれしくなる。

「畜生おかえり!」

「怒りながら言うなよう」

「ほんとにもう、何しに帰ってきたの?」

「お前に会いに来たに決まってるじゃないか」

 言いながら顎を指先で持ち上げて見せると、翠は見る間に日に焼けた頬を赤くした。長男が変人で次男も変人であるその末っ子は、何故だか男に妙に免疫が無い。

 慌てて壱の手を振り払い、呼吸を整える翠。実にいい動きである。

「じょうじゃんだ」

「はい?」

「冗談じゃないやい!」

「元気いっぱいだな翠は」

 爽やかな兄の笑顔で全てを流し、そうこうしているうちに自宅へ辿り着いた。

 黒沢家は所謂「児童養護施設」を併設している。田舎ならではの広大な敷地の半分は幼稚園の園庭のようになっており、この暑い中駆けずり回る子供とそれを持て余す様な職員が見えた。

「減らないな」

「うん? ああ、うん」

 足を止めて思わず眺めてしまった壱を追い越し、振り返りながら、翠は頷く。

「しょうがないんだって拓にいが」

「色んな意味でな」

「うん?」

 わからない、という顔をする翠の頭をぽんと叩いて、玄関を潜る。

「ただいま」

「ただいまー! お母さーん! 壱にいー!」

 警報を鳴らすが如く小走りに先に上がっていく翠の靴を、苦笑いをしながら揃えて、壱も続いた。

「お帰りなさい」

 リビングに通ると、そこではテレビを見ながら雑誌を眺める母の姿があった。ちょっとだけ顔を上げて壱を認めると、ごくごく自然に微笑んでみせる。今朝方出かけた者を出迎えるような、有り触れた出迎えだった。何故だか、そんな事がうれしくなる。

「ただいま母さん。他の人は」

「男は2人とも園よ」

「壱にいポカリ飲む?」

「飲む飲む」

「荷物片付けてきたら?」

「そうする。翠、上に居るから」

 軽快なやり取りだった。こうして気兼ねなく何の探りも必要なく事が進められるのは、確かにそこに絆があるからなのだと思う。家族という社会では恐らく相当小さい部類に属するコミュニティだったが、それだけに壱はどこよりも自然で居られた。

 ユキを始め同級生や後輩の咲らと居る事にも勿論男性として極めて有難いし楽しいのではあるが、そこにはやはりどうしても虚飾が入ってしまう。沿ういう事を考えずに居られるのが、今の壱には酷く新鮮だった。

 自室はきれいに手入れされており、壱が引越しの朝に見た時と何ら変わっていないようにすら見えた。ベッドには流石に普段使いのものとは別のカバーがかけられていたが、腰掛けると今楠台にあるアパートのベッドなどより余程体に馴染む。

「ほいよ」

「お、ありがとね」

 2階までグラスに注いだスポーツ飲料を持って来た翠にちょっと手を上げて、受け取る。流石に日照りの中を歩き続けた体には染み渡る。

「でもほんと急だったね」

「うんまあ、帰るって決めたのも急だったし」

「いつでも考えなし」

「そんな事は無いぞう」

「ね、お土産無いの?」

「悪いけどそういうのはなぁ。普通の都下だからさ、あの辺り」

「ふぅーん」

 言いながら翠は壱のバッグに手を付け始める。

「何も無いって」

「この際壱にいのパンツでもいい!」

「バカな、お前衣類のフェチに目覚めたってのか」

 ちなみに壱も拓も当然の如く中身至上主義である。中が詰まっているからこそタイヤキは美味いのだとする旨が極意であり基本と言えた。

「ちぇー、ほんとに何も無いや。あ、携帯見せて」

「え? 別に機種変更とかしてないけど」

「ううん、女の子の番号とかあるかなって」

 受け取りながら平素として操作しつつ翠はそんな事を言う。見られて困りはしないが気持ちはよくないのだ。

「返せ!」

「嫌だね! えーっと……ユッキー? 微妙。若菜嬢! これは女の子だ!」

「返せよう! 返せよう!」

「っていうか渾名で登録するなよ壱にい失礼だよ。って翠は「妹」かよ!」

「間違ってないだろう」

「間違ってないけどもっと気の利いたのあるじゃん! ハニーとか!」

「ハニー括弧笑いって」

「括弧笑い付けるな!」

 実力行使に出る壱の腕をするりとかわし、翠は部屋の隅で延々と携帯を弄る。最早止める事は出来なさそうだった。

「ふーん、なんか女の子の名前増えたねえ」

「なんで差が解るんだよ」

「エヘヘ。あ、メールも結構」

「おいメールは流石にひどくね!?」

 再び奪いにかかる壱が漸く携帯電話を握る翠の腕を掴むと、翠はスイッチが切れたように大人しくなった。そうして間をおかず、壱の腰にしがみつく。昔から拓にも壱にもそんな事をするのが癖のようになっている妹であった。

「おかえり、壱にい」

「ただいま。おっぱい大きくなったね!」

「おうよ!」

 何も変わらない妹の素晴らしき成長にエールを送りつつ、帰郷を決めて良かったと改めて思う。


 夕方まで翠と庭のバスケットゴールで脱衣勝負をし限界ギリギリまで裸になった壱がシャワーを浴び終えた頃、施設側から歩いてくる2人が見えた。父と、拓である。

「あ、父さん」

「おう、帰ってたのか」

「うんただいま。拓さんも」

「お疲れさん。風呂使える?」

「俺の残り湯がある」

「ラララカビキラー」

 歌いながら浴室へ向かう兄の背を父と小さく噴出しながら見送る。

「どうだ、調子は」

「うん、お蔭さんで」

「そうか。まあ一杯付き合え」

 促されるようにリビングへ戻ると、既に夕食の準備は整っていた。施設に居る子供たちには、これから職員が食事をさせる手筈となっており、黒沢家は必ず家族と共に食事をするのが倣いとなっている。

「お疲れ様」

「うん」

 夫婦のさりげない労いのやり取り。そんな物も、壱を実家に戻ってきたと思わせる要素の1つだ。

「お前が帰ってきてくれてよかった。母さん、今日はあれ空けるぞ」

「はいはい」

「何?」

「いや日本酒をな。最近減らせと煩いんだよ、母さん」

 苦笑いをしながら、一升瓶を取り出す父。いつでも一杯目は日本酒な男である。

「お前はビールか?」

「いやご馳走になるよ、それ」

「よしよし」

 拓が意外にも日本酒をあまり好まないので、アルコール水溶液であれば科学的なものを除きなんでも口にする壱の帰還は、昨今の減酒令も相俟って渡りに船といったところだったのだろう。枡の角に塩を盛り、まずは壱から父に注ぐ。返しを受け、小さく掲げられる枡。

 すいと抵抗無く喉を通っていく清酒は、舌触りも水のようで、余程良いものなのだろうと当たりをつけさせる。

「美味いね、これ」

「だろう。高かった」

「うーん、塩要らないかも」

「ところで、どうだ、そっちの方は」

 何気ない仕草でテレビの音量を下げながら、父は言う。

 壱は流石に可奈子とのやり取りや彼女の立場などは伏せたが、殆ど全てを語るつもりで口を開いた。学校の環境、住居の環境。部活動でのやり取りや、その発展に至るまで、自分でも驚く程すらすらと出てくるそれを、父は頷きながら聞いてくれる。

 聞き上手というものがあるが、父は決してそれには該当しない。しないが、何故だか壱にとっては父に語るのが楽だし楽しいのであった。拓に身の上を語るのとは全く違うベクトルの安心感がある。

 話もそこそこに進んだところで、拓が風呂から戻ってきた。冷蔵庫からビールを取り出し、プルタブを切りながらテーブルにつく。

「おお、日本酒」

「お前にはやらん、味の解らないやつが飲んでもしょうがない」

「俺は麦酒でいいんだ」

「誰に似たんだかな、お前の舌の安っぽさは」

 そうこうしている間に翠も戻り、母も座り、夕食となった。決して笑いが止まらなくなるような愉快な雰囲気ではないのだが、ただただ穏やかなそこが、壱にとっては何よりも掛け替えの無いものだと素直に思える。翠が何か言い、拓が冷やかし父が膨らませ、母が諌める。そこに壱がまた悪乗りをするものだから、翠がまた文句を言ったりする。転校をする前と何も変わらない、優しい空気。

 平穏なのだ、と壱は思った。同時に思い出すのは可奈子の顔で、それだけが違うのかな、となんとなく思いながら、壱は箸を進めた。

 母の料理は、美味い。

 食後、自室で着替えなどを広げていると、拓が音も無く入室してきた。剣術の極意と言われる無息の法。無駄な技術力であった。

「なんか言えよ! 俺がオナニーしてたらどうするんだよ!」

「絶頂の瞬間にお前の視界を俺の顔で埋めてやろう」

「弟を不能にして幸せか!」

「はっはっは」

 無駄な高笑いをしてから、拓はベッドに腰掛ける。眼差しは相変わらずその真意を読ませない。

「で、何か決まったか?」

「……いや、あんまり。たださ」

「ただ?」

「うん、拓さんが前あっちに来た時言ってた事もあって」

「お前の先輩の話か」

 桐田咲。

 楠白高校へ転校する前の学校で、壱が所属していた吹奏楽部の部長を務めていた、壱の2つ上の先輩である。今は順当に行けば大学生になっているのだろう。

「ケツ拭く気にはなったわけか?」

「まあ、一応」

「そうか。転校したのも無駄じゃなかったか」

「転校はあんまり関係ないよ、多分」

「そんな事無い。今年の3月頃のお前は、目死んでたぜ」

「そうかな」

「そうとも。でも前に様子見に行った時も思ったが、シャンとしてきたじゃないか」

 あまり直接的に人を褒める事の少ない兄であるが、それだけに壱の変化を喜んでくれているのだろうと思えた。

「それで、具体的にどうする?」

「いやもう、全部ぶちまけるしか」

「引かないかね」

「だとしたら、俺もうここに居ないじゃないかね」

「それもそうか。結局、腹に仕舞い込んでくれたみたいだしな」

「あんな事されたら、普通は警察だよ」

「まあな」

 言葉少なに、拓は横を向きながら小さく息を吐き、続ける。

「わかった。まあ、お前が決めた事だ。キッチリやり遂げて来い。それでどうにかなっちまったら、最大限うちはお前を守るだろう」

「うん」

「やっちまった事は仕方ないんだ。お前の場合事情が事情だから逃がしてやったけど、本当ならこんなに世の中甘くないぜ」

「そうだよね」

「やけに大人しいな」

「いや……だってあの人の場合は色々とさ」

「惚れてたか」

「濁したのに! 言葉濁したのに!」

「ふはは」

 やはり無駄な高笑いをしてから、拓は勝手に壱の部屋にあるゲーム機の電源を入れた。話はこれで終わりだ、という事らしい。確かにこれ以上何か語っても壱自身苦々しい気持ちにしかならないだろうし、何も発展はしない。唐突だが、兄なりの会話術である。

「お前ザンギね」

「吸い殺す」

「そして待ち続ける俺ガイル」

「ヒィッ」

 翠が来るまで連敗を重ねることになる壱だった。

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