7
8月に入ると、一層厳しくなった暑い日が続く。
吹奏楽部の進展は上々だった。気にしていた、バッシングめいたものも夏休みに入ってからは当然消え、各部員も気持ちよく練習に打ち込めているらしい。
ただ、気になる事も当然存在した。
「咲さんや」
「はい?」
休憩時間に入ると、壱は咲を廊下から手招きした。何の疑問も抱かずにとことことやってくる様は実に愛らしい。
目の前に来た彼女の額に手をやる。熱い。
叩かれるとでも思ったのか目を瞑ってびくりと体を縮みこませた咲が、ゆっくりと目を開くと、バツの悪そうな顔になっていた。
「やっぱな」
「……」
「どうして無理をしちゃうのかしらこの子は?」
「む、無理とかは別に」
「お熱が出ててお風邪こんこんなのに部活したらダメでしょー?」
「うう、先輩が保父さんのようだ……」
「頑張る気持ちは皆解ってるんだけどね。今日は上がろうか」
「そんな」
愕然と、先は壱を見上げてくる。
彼女の後ろめたさのようなものも、どうにか理解しているつもりだった。並び立って演奏をする以上、自分1人がしょっちゅう休んでいたりするのは良くないという、極めて明快で好ましい思考が咲にはあるのだ。
そういう考え方は正しいし、部活動という集団の中では決して忘れてはいけない事の1つだ。
「俺も一緒に帰るから」
「でも」
「咲さんが来ない事より、無理して来る事の方が、皆に心配かけるんだぜ?」
「ですけど……」
痛そうな顔になりながら、咲はなんとか食い下がろうとするが、笑って壱は取り合わない。こういうタイプの人間は、頑張りすぎる自分というものの制御の仕方を知らない。己の衝動と常に折り合いをつけるようにして生きてきた壱とは、正反対の人格である。
だからこそ愛しいと思うし、同時にやり辛くもあった。
「じゃあ、あと1回皆で合わせて、今日はおしまいにしよう」
「……」
「お返事はー?」
口の中で暫くもごもごしてから、咲は「はぁい」と不貞腐れたように返事をした。どうにかこうして従ってくれるのは嬉しいのだが、彼女の表情の変化を見るとやはり心が痛んだ。
音楽室に戻り、全員に咲の早退を告げると、それぞれ特に難しい顔もせず了承した。若菜だけは必死に咲の体調を気にしたがったが、壱がそれをやんわり押しとどめた。あまりにも心配されすぎると、素直すぎる咲はおかしな捩れ方をしてしまうかも知れない。
最後に1回だけ合奏、という咲との約束を終え、壱は南教諭に声をかけてから学校を出た。通学路を通り駅に向かい、言葉の少ない彼女に出来るだけ明るい話題を振りながら歩き続ける。
「先輩、嫌い……」
「え、なんで急にそんな心に刺さる事を」
「いつもの先輩は好きですけど、なんか、あたしの心配ばっかりする時の先輩は」
「嫌?」
「……だって、先輩はあたしのお父さんでもなんでもないのに」
「そうだねえ」
確かに、自分は咲の保護者でもなんでもない。ただの、学校の先輩に過ぎない。ついでに言えば部活の先輩でもあり、部長でもあるが、だからといってここまで彼女を強行的にどうこうする必要は、一般的に見れば無いのかも知れなかった。
だが、どうしても咲には含むところを持ってしまうのも、壱だった。
同じ名を持つ、かつての学校の先輩。
だから菱沼咲と重なるのかというよりも、そのひたむきさと、無条件の信頼が、壱を苛むような所がある。条件としては薄いものだったが、どうしても壱は咲を見ていると何かしなければ、というような気分に囚われた。咲からすればいい迷惑だろうとも思う。
昨晩、兄から電話があり、里帰りして来い、と言われた。
いい加減帰ろうと思っていたところへ兄の電話である。壱の思考の基準を握っている兄ならではのタイミングと言えた。
「ホラ、咲さんかわいいからつい甘やかしたくなるというか」
「……」
「俺妹居るんだけど、これがクソやかましい小娘でさ。まだ中学生なんだけどね。それに比べると咲さんはやっぱ落ち着いてるし、素直だし、なんとか構いたいなあと」
「嘘です」
「嘘じゃないさ。ただ、咲さんは体がちょっと弱いからね。過剰に心配しちゃうのは税金みたいなもんだと思って我慢しておくれ」
「お姉ちゃんが面倒見るように、って言ったんですか?」
「気にしてあげてねとは言われたけど、別にここまでしろとは言われてないよ。俺が勝手にやってること。迷惑だったら迷惑だと言ってくれていいよ」
「迷惑とかじゃ……」
「まあ迷惑って言われてもやめないんだけどね」
笑ってそう言うと、咲もまた諦めたように口元を緩めた。
改札前で、咲は言葉少なにぺこりと頭を下げて、振り返らずにホームへ向かった。その背が見えなくなるまで見届け、それから壱は踵を返した。汗ばんできたシャツの前を全開にしながら音楽室へ舞い戻る。
「あれ、帰ってきた」
「駄目かよー」
「や、そのまま帰ると思って」
音楽室にはユキだけが残って、チューバにクロスをかけていた。部員たちはとにかく楽器を大切にするので、なんとなく壱は嬉しい気持ちになる。
「他の子らは?」
「飲み物買いに行ったよ。音楽室空にするわけにいかないから私が留守番」
「そっか」
よっこらせ、とわざわざ口に出して椅子に腰掛けると、ユキがちょっと噴出した。
咲の体調についてこれ以上何か言うべきではない。そんな事を考える。
自重しなければならないのは確かだったが、それを外から言い過ぎてもいけない。何か根拠があるわけでもなく、単純に自分の苦手意識がそう思わせているのだろうということも壱には解るが、かといってあの後輩をこれ以上締め付けても仕方が無いのではないかとも思うのだ。
本当に辛ければ、自分から不調を訴えてくる筈である。咲を信頼するなら、そうすべきであった。
「また難しい顔する」
「ユッキーは俺の顔色伺うの得意だな」
「伺ってるわけじゃないって。いつもヘラヘラしてるから余計目立つだけ」
「ヘラヘラなんてしてねえぞう」
「してるじゃない今」
笑いながら、ユキは壱を指差し、それから表情を落ち着けた。
「咲ちゃん、不貞腐れてた?」
「うん」
「まあ、あの子の場合そうなるわね」
「真面目で、頑固で、何事も一生懸命な子だから。他人がそうしても許容は出来るけど、自分が途中で抜けたり自分が穴空けたりするのは耐えられない」
「高評価ね」
「でもユッキーもそう思うでしょ?」
「うん。ただ、それが周囲に気使わせちゃうって事はまだちょっと理解できてないというか。ま、そこも可愛い所かな?」
「大人だなユッキーは」
「黒沢君には負けるわよ」
「そうかな、すごく母性溢れる感じが」
「母性言うな、まだ若いやい」
「お母さん!」
「うるさい」
少し笑って、それから小さく溜息。
ユキを改めて見てみると、丸い目が何事かとばかりに瞬きをする。
「俺帰るわ」
「あ、そう?」
「うん、実家に」
「……あ、帰るって家じゃなく里帰り」
「帰って来いって言われたのもあるんだけどね。日取りは決めてないけど、少し留守になると思うから、その間皆の面倒見てあげてね」
「なんで私に振るのよ」
「頼むぜ副部長」
「いつの間に!」
「前に南先生と相談して」
「あ、マジなんだ、それ……」
驚愕するユキにひらひらと手を振った。
里帰りをして何かがあるとも思えない。というよりも、里帰りをするとなれば、壱は色々な事に直面しなければならなくなる。気が重いといえば、重かった。ならばわざわざ里帰りをしなければ済むのだが、それは兄が許さないだろうし、壱も自分を許せないままでいる事だろう。
ユキがちょっと眉根を寄せて、顔を覗き込んでくる。
「なんかブルーね、ホントに」
「ん、まあ……色々あるからさ、俺も」
「ゴメンね、頼りにならない副部長で」
「そんな事無いよ、癒されるよ皆には」
「だといいんだけどさ。結局吹奏楽部だって、黒沢君が1人で奔走してまとめたようなもんだし、君からしたらうちらなんか困ったちゃんの集まりに見えるんじゃない?」
「そんなわけないじゃないか。何度も言うけど、皆自力で集まってるんだしさ」
「謙遜するよね本当」
「謙遜じゃないってば」
それきり、言葉の無くなった音楽室に、声。若菜と可奈子がビニール袋を携えて、戻ってきた。
「ただい……あれ、黒沢君おかえり?」
「なんだよう! 帰ってきちゃ駄目なのかよう!」
「黒沢君使い回しは寒いわよ」
「すいません」
「こまったな、黒沢君の分無いよ」
「いや、いいよ別に」
「ううん、買ってくるよわたし。何がいい?」
「いやそんなパシリみたいな。ホントにいいって」
息巻く若菜を落ち着けて、可奈子の包みを見る。プラスチックのケースに入った固形の甘そうな何か。
「……ケーキ?」
「外のコンビニに行くって、柴崎さんが」
汗をかいたのか、可奈子は額に少し張り付いた前髪を払いながら言う。取り出されたそれを見ると、チーズケーキが丸ごと1つ入っていた。
「そんなに食うの!?」
「や、3人居るから……」
「若菜……私3分の1も食えないわよ?」
「私も」
「大丈夫だよ」
何かわからないが自信たっぷりに言う若菜に苦笑い。
用意を始める若菜とユキを尻目に、可奈子は壱の傍に腰を下ろし、じっと顔を見つめてくる。
「なんだい」
「菱沼さんは、どうなの?」
「どうって、体?」
「うん」
「まあ、本人が自分から気にしてくれないことには、なんとも。俺らが外から見ても、限界あるしね」
「そう」
「心配?」
暫く考えてから、可奈子は頷いた。以前なら言下に否定しただろうが、このところ態度の柔らかい彼女は意外と多彩な内面を見せてくれる。
「あれ、ナイフ無いや……職員室とかにあるかな?」
「ああ、あるんじゃない? 借りてくるわ私」
「ありがとうユキちゃん」
不意にそんな何気ない会話が耳に入って、壱の体が凍りついた。可奈子が驚いたように大きな瞳を更に大きく丸くする。
「黒沢君」
「……」
「黒沢君?」
「あ、うん」
「どうしたの」
「あ、いや、なんでもない」
「そうは、見えなかった」
「大丈夫だよ」
「嘘」
「大丈夫だって」
「嘘ね」
「意外としつこいな鶴岡さん」
「私の時も、しつこかったじゃない」
不機嫌が声に出てしまった壱に臆することなく、可奈子は合わせた視線を外そうとしない。奥歯がぎりりと音を立てたのを悟られないよう、ゆっくりと壱は息を吐いた。ユキと若菜はこちらの会話の空気に気付いていないらしく、それだけは内心安堵する。
殊更明るい声を作って、壱は立ち上がった。
「やっぱ俺も飲み物買ってくるわ。ケーキもご馳走になりたいし」
「あ、じゃあ用意しとくね」
そう言ってにこりと笑う若菜と、微かに険しい表情になる可奈子とのコントラストが、なんとなく鮮明に焼きついていた。




