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通されたのは、流石と言う他無い程完璧に設備の整った防音室だった。小さな穴の多くあいたタイルを敷き詰めたような壁と、音響効果なのか一風変ったデザインの天井。アールを描き、床に落ちるまでの形状が目新しい。
薫子が、隅に片付けてあった椅子をちらりと見ると、いつの間に戻ってきていたのか壱を案内してくれた女性がすぐにそれを引っ張り出してきた。優雅に腰掛ける様は絵になっている。手のひらを差し向けて、彼女は壱に自分の目の前を促した。素直に従う。
「社交はここまでとして。では黒沢君、あなたの出来る事を全て見せて貰えるかしら」
「はい」
いくらか砕けたような口調になりながらの言葉に、壱は静かに返事を返した。サックスをケースから取り出し、マウスピースをつけ構えるまでの動作を、女性2人が見詰める。
大きく息を吸い込み、口をつける。壱のアルトサックスはそれで正しく命を吹き込まれた。指先がキーを押さえ、管を通った息吹が音色に変わる瞬間。この楽器を志す者に取っての全てであり、また壱にとって何にも代え難い最高の瞬間でもある。
マリー・ゴールド。
目の前の女性、楡原薫子の弟、楡原康臣が学生時代に作り上げた逸品であり、また壱がその腕に心底惚れ込む同級生が編曲という形で新たな形を見出した名曲。
序盤の静かなパートは、サックスで全てを代用した。ユキを、咲を、若菜を、可奈子を思い出しながら、あらゆるプレイを即座に脳裏に組み立て、指の神経に伝える。原曲ではともすれば暗すぎる程の第一楽章だが、可奈子の手腕はそれを感じさせないよう、むしろ明るいテーマを背景に練り上げていた。
第二楽章はそれに輪をかけて、あるいはスイングのような軽やかさと疾走感を繰り出してくれる。ベートーベンの月光をモチーフにしたのではないかと後になって気付いたマリー・ゴールドではあるが、楽器も変われば奏者も変わり、そこには1つの新しい芸術しか残らない。
ふと、意識を薫子に向けると、目を瞑り眉間に小さく皺を寄せているのが解った。だが不思議と、壱は彼女の機嫌が今どうなのかを気にする事は無かった。良かろうが悪かろうが、今自分は最高に楽しい瞬間を過ごしているのだ。黙って聴いていろ、とすら思う。
第三楽章。これは原曲でもそうだが、水準以上のテクニックと、恐らくは才能が必要と思われる。若菜やユキは水準の奏者ではあるが、酷い言い方になるとはいえ才能という物とは聊か遠い。可奈子はそれを口にこそ出さないがパートへの奏法の振り分け方で如実にそれを語っていると言っていい。要するに、チューバとユーフォニュウムの譜面は「簡単」だ。
しかし2本のフルートとアルトサックスについては、原曲に並ばんとするかのように難解なフレーズが続く。可奈子が自分を買っているという事でもあり、また自信があるという事でもあるのだろう。咲の腕前もまた、認めている。メロディーを担当する事になるこの3つの楽器の譜面は、場所によっては真っ黒と言って良い程に難易度が高い。
そしてそのハードルの高さが、壱を何度も喜びに導く。描けない筈の空気を描く、と言った画家が誰であったかは思い出せなかったが、正に出来そうもないフレーズの連発を乗り越えていくのは快感でしかない。
下から上へ。上から下へ。そしてまた上がり、停滞を見せたと思えば即座に身を翻す。
メロディーという生き物を自在に操るこの作業は、壱の人生にとって最もはっきりとした狂喜をもたらすものだ。
そして第4楽章に相当する箇所へ。ここではロンドの形式を取っているだけに、緩やかながらも同じ小節の繰り返しが増える。だが耳の肥えた者には、これがただの繰り返しではないとすぐに解るのだった。薫子もまた、時折小さく頷いて見せている。
5人が揃っての演奏となると、豪華なリレイションが重なりに重なるこのフレーズを、壱はディレイをかけるようにして表現して見せた。気づくと最初に立っていた場所から1歩半は薫子に近付いており、自分の自己顕示ぶりに内心笑う。
そうして、締めの4小節。ここはあえて自分のパートだけをこなした。突然の空白に目を開いた薫子だったが、壱は頓着しなかった。本来は自分1人でこの曲をやるのではないのだ。
大きく息を吐く。うっすらと首に滲んだ汗を手の甲で感じながら、頭を下げる。
「以上です」
もう1度息を吐き、呼吸を整え、実際の所さっさと帰って合奏がしたいと思い始めていた。
不意に、薫子が立ち上がった。背の程は170程度か、こうして目の前に立たれるとモデルとしても通用しそうなスタイルに目が行く。
「黒沢君」
「あ、はい」
「あなた、その曲」
「ええ、先輩からの借り物です」
片手でサックスを掲げて見せると、薫子はふっと微笑む。
「まずは、お見事」
「ありがとうございます」
「とりあえず、部屋に戻りましょうか。秋乃、冷たいものを用意してくれる?」
「かしこまりました」
薫子に促され、再び社長室へ。応接ソファに再び向かい合って腰掛けると、折りよく秋野と呼ばれたかの女性がアイスコーヒーを持って現れた。自然に手の中でグラスの中身をかき回し、口をつける薫子に倣う。
「黒沢君はサックスをどこで?」
「独学で、と言いたいところですが、ある程度は父が。ただ殆どは独学になります」
「そう。しつこくなるけれど、見事だったわ。あれ程のものは、あなたの同年代を探しても10人見つかるかどうか」
「とんでもない。俺ぐらいの人間ならいくらでもいますよ」
「増長しないのは美徳だけど、あまり自分を安売りしないこと。特にこの世界ではね」
眉をちょっと持ち上げて、薫子はまた微笑んだ。つられて、壱もなんとなく照れ臭くなって笑う。
「あの曲は元々ピアノだったでしょう。それを編曲して?」
「その作業自体は、関わりこそしましたけど実際は同級生の女の子がやってくれました」
「同級生……ひょっとして、鶴岡可奈子さんかしら」
「やはりご存知でしたか」
「ええ、新田先生から何度もね。ただ人格面に不安定なものがある、という事も」
そんな事まで知っているのかと考えて、新田教諭なら当然その辺りも言い含めるだろうと思い直した。推薦する身であれば外す事の出来ない要素でもある。
「それは……まあ、確かにあると思います。あまり人との折衝も得意ではない性質ですね。一応今は吹奏楽部の部員としてやってますが」
「成る程。まあ、今はいいわ。とりあえず私から所感を。まずテクニック、これは申し分無いわ。まだ伸びる余地も大いにあると見ている。表現の仕方もあなたの年齢からは中々考えられない程に懐が深い」
「恐れ入ります」
「強いて挙げるなら、どこかに後ろ暗いものを感じるくらいかしら。失礼な言い方になるけれどね」
「後ろ暗い……?」
「うちの弟もね」
ちょっと目線を外しコーヒーに口をつけ、薫子は間を置く。
「今は立派なピアニストをやっているけれど、あれにも問題が多くあった時期があるのよ。他人を拒絶して、自分が一番辛い人間だと勘違いをして、それでいて誰に当たるでもなく自分だけを傷つけるような、多感な時期が」
「……」
「音楽は、その人格を表現するものだと私は考える。昨今のポップスは見た目と乗りの良さがまずありきではあるけれど、本当に音楽が好きでやっている人間というのは、どこか鬱屈した感情を音色にしているような所が多いと思うの」
それはあるだろう、と壱は思う。可奈子がああいう身空でありながら、それでもその演奏が壱の心を掴んで離さないのは、本質的に彼女の心が音楽に対して極めて純粋な姿勢を持っているからに他ならない。彼女は痛そうな顔をして、それでもフルートが大好きだと言ってくれた。そういう人間の演奏は、やはり人間を表すと言って良いだろう。
「わかります」
「ありがとう。だから、黒沢君の演奏を聴いて、気になったと言えばその点。何かまだ、引っかかっているものでもあるのかしら、と老婆心から感じてしまって」
「引っかかりですか」
「何とは勿論聴かない。結論から言えば、あなたは今すぐデビューしてもいい。最初はスタジオでレコーディングに関わるところから始めてもらって、そう時期を置かず用意した曲にとりかかってもらうような段取りね。この会社はあまり在籍ミュージシャンを遊ばせておかないから」
笑いながら、グラスを弄ぶ薫子にそう言われ、勿論悪い気はしなかった。
だが、引っかかりがある、と言われた事が、壱に小さな頭痛を運んでくる。同時に思い当たった、前の学校の先輩の顔と、兄の言葉が思い浮かんだ。
「まだ楽器で食べていくのかどうかは決めていないのでしょう?」
意識が外へ行きかけたところで、薫子の言葉に呼び戻される。慌てて、頷いた。
「当然でしょうね。あなたぐらいの年齢で、将来を決めろというのは無理な話だと思うもの。だから今日は、これだけ渡しておくわ」
そう言って、薫子は秋野にちょっと手で合図を出した。頷くと同時に動いた秋野が、なにやら書類の入ったクリアファイルを持ってくる。
差し出されたそれに目を通して驚いた。要するに、契約書である。
「決意が出来たら、これに書き込んで持ってきてくれればいいわ。来年でも再来年でも、数年後でもいい。あなたの腕は年月で落ちる程甘くない。才能だけで言えば、うちのアーティストの誰をも凌げる」
「あ、いや、それは勿体無いお言葉で……」
「音楽に関して嘘や社交辞令は使わない性質なのよ、私は。嫌な話になるけれど、例えばあなたが結局金を産まなくても、私はあなたの才能を心底愛しく思うから」
飾り気無くそう言われ、思わず顔が熱くなった。意図は違うとはいえ愛しいとまで言われてしまうと流石に照れの方が先に来る。何より薫子程の美人である。
壱の反応を見て、薫子はやはり楽しそうに笑った。
最後に礼を言い、次の来客に備えるという薫子と別れ、壱は秋野の運転する車で楠台へ向かった。
車内は相変わらず静かだったが、どことなく秋野の背中が、来る時よりも壱を拒否していないように見えたので、再び無駄にテンションを上げる。
「あの、秋野さん」
「はい」
「こういう事って多いんでしょうか? その、僕みたいな若造がスカウトされてしまう、というような」
「現実味がありませんか?」
「あ、まあ、そうですね、実際」
「わかります。ただ楡原も申しておりましたが、黒沢様の腕前は素人の私から見てもお見事なものでしたし、また楡原はそういう事を偽って褒めるような甘い人格でもありません」
「本気にしてしまっていいんでしょうかね?」
「今日初めてお会いした黒沢様よりも、失礼ながら私は楡原の言葉の方に重きを置かざるを得ません」
「それもそうか。ありがとうございます」
言葉数の増えた秋野の表情は後部座席からは見えなかったが、やはりいくらかは柔らかくなっているのかも知れなかった。
楠台駅前ロータリーまで戻ると、ジャガーは走行中と変わらない静かさで止まった。相変わらずの華麗な所作で後部座席の扉を開ける秋野。
「送り迎えまでしてもらっちゃって、今日はありがとうございました」
「とんもでございません。楡原も私も、シン・ド・アリッサへ再びお見えになる日をお待ちしております」
「はい」
「それと」
それでは、と言いかけた壱の先を制するように、秋野はポケットから手帳を取り出し、何事か書き込んで、壱に差し出してきた。
「アキノ……というのは、私の下の名でして。楡原もわざとそういう呼び方をしたのでしょうが」
書いてあった文字は「○秋乃」と「×秋野」という2つの名。その表現の仕方がなんとも外見とは程遠く、内心妙な親しみが沸いた。
さておき、薫子が「アキノ」と呼んだので、当然秋野何某だと思い込んでいたが、違ったらしい。要するに、初対面の女性をいきなり下の名で呼んでいたという事になる。
途端に申し訳なさ満載になる壱。
「あ、いや、知らないとはいえすいません」
「いえ、よく間違われます。苗字が夏海でもありますし」
今度は名刺を出して、秋乃はこの日初めて壱に笑顔を見せた。笑うと、どこか子供のように幼くなるのが、壱にとって意外だった。
収穫の多すぎる日だった、と壱は後にこの日を締めくくる。




