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「もしもし」
「あ、ごめんね夜に」
「珍しいじゃない。どうしたの?」
楡原薫子との邂逅、或いは面接を翌日に控えた夜。
「うん、明日の部活なんだけど、俺休むか遅くなると思うからその連絡をね」
「そうなの。どうして?」
「ちょっと野暮用というか……ううん、面白くなったら話せると思うんだけど」
散々な評価を貰いでもしたら笑い話には出来ないのである。ユキは気にしたようにふうんと相槌を打ったが、深くは聞かない事にしたらしい。
「わかった。他の子には?」
「まだっていうか、ユッキーが皆に伝えてくれると助かるんだけど」
「4人しか居ないんだから皆にかけてあげたら? 若菜なんか喜ぶわよ」
「何、ユッキーはなんか暗躍してるの?」
「まさか。ただあの子は黒沢君を最近やけに信頼してるし尊敬してるしね。元吹奏楽部の一件も、何かいいアドバイスしてくれたんじゃないの?」
「アドバイスっていうか、ちゃんとハッキリさせたら? って言っただけなんだけどね」
そこまで言うと、ユキはおかしそうに笑う。
「うーん、若菜はホントに黒沢君の事好きねえ」
「えぇー?」
「恋愛感情かどうかは別としてね。だって私何度も若菜に同じような事言ったもの」
「なるほどなー」
「ま、いい事じゃない」
「嫌われるよりはよっぽどね」
「というわけだから。私は連絡を回さないのでよろしく」
「はいよー、楽しそうにしやがって」
「笑い話、期待してるからね」
それじゃとユキは一方的に電話を切ってしまった。なんとなく腕を組んで若菜の顔を思い出す。確かに頼られる事は悪い気はしないのだが、と考えて、あんまり深く悩んでもしょうがないと思い直した。メモリーから若菜を呼び出し、コール。
2コール程ですぐに繋がった。
「やあ、夜分にごめんね。今大丈夫?」
「あ、うん、ぜんぜん」
「……寝てた?」
やけに間延びしたような、抜けたような返答だった。
時計を見てみる。22時を少し回った頃だ。高校生としては健康的と言わざるを得ない。
「ああ、うん、ううん、普通」
「寝てたのね、ごめんよ起こしちゃって」
「大丈夫」
ごそごそと、衣ずれのような音が聞こえてくる。布団から這い出たのだろうか。
「連絡なんだけどね。とりあえず明日、俺部活を休むか遅れるかすると思うから」
「あれ、そうなの?」
「ちょっと用事が入っちゃってね。どのぐらい時間がかかるかも解らないし」
「そうなんだ。どんな用事?」
「面接みたいなもんかね」
「バイト?」
「ま、細かいことは上手くいったら話すよ」
「そっか」
くぁ、と大きな欠伸が聞こえてきた。女性の平均よりよほど背の高い若菜だが、その秘密はこの健康的な睡眠ぶりにあるのかも知れない。
「いや本当にごめん、休んでたのに」
「ううん、黒沢君から電話貰ったの初めてだし、うれしいよ」
ユキに妙な手合いの事を言われた直後だけあって、そんな返答にも思わず言葉が詰まる。寝起きという事もあってか無防備な台詞ではあるが、それでなくともこれは男を勘違いさせるには十分だと感じた。
「んじゃ、ゆっくり眠っておくれ」
「あ……ええと、黒沢君?」
「はいよ」
「うん、あの、ちゃんとお礼したこと無かったよね」
「お礼?」
「元吹奏楽部の人とのこと。本当にありがとう」
「ああ」
礼を言われるような事ではないと思ったが、若菜の性格もあってこれは素直に受け取ることにする。
「どういたしまして?」
「なんで疑問系なのー? ほんとに感謝してるのに」
「いやいや。今更堅苦しいじゃない、そんなの」
「でもこういうのはちゃんとしときたいから。ほんとに助かりました」
「なら良かったよ」
「わたしだけじゃなくてね。多分皆、黒沢君には感謝してると思うし。こういう時じゃないとどうしてもね」
「というと?」
「部活が出来るようになったのも黒沢君のおかげ。特に鶴岡さんは黒沢君が居なかったら来てくれなかったと思うし」
「そんな事は無いんじゃないかな。お鶴さんはやっぱり最後には合流してくれたと思うよ」
「っていうか、あそこまで黒沢君に気遣われてる鶴岡さんにちょっとジェラシー的な」
笑いながら若菜はそんな事を言う。集団の中では埋没していくようなきらいのある彼女だったが、2人きりだと内面を吐露するのも苦手ではなくなるのだろう。そういうタイプは少なくない。
「フフン、困ったもんだね俺のモテっぷりにも」
「そうだよー、だから大変なのはこれからかもね」
「何ですかその脅しは」
なんとなく怖い展開になりそうだと察して、茶化すことで壱は話を流すことにした。特技ではある。
「ま、とりあえず明日は仲良くね」
「はーい」
「お疲れ様、おやすみ」
「うん、おやすみ」
通話を終えると同時に溜息が出た。嫌だとか苦手だとかそういう次元ではなく、単純にこの手の話の展開に持っていくのは性格上対応のケーススタディが少なすぎて困るのである。
続けて咲へ連絡したが、不在のようだったので留守番電話に伝言だけを入れておいた。メッセージを聞くほど彼女が几帳面かどうかはこの際置いておこうと内心無礼な事も考えておく。
可奈子は携帯電話を持っていない都合、自宅しか繋がらないが、不在という事で取次ぎを断られた。中年の女性の声だったが、可奈子をさん付けで呼んでいた辺り母ではないのだろう。お手伝いさんか何かなのだろうかと想像し、とりあえずの疑問や不安を打ち消すべくサックスを取り出した。
恐らく新田教諭は可奈子のことも推している筈である。だが、彼女はこういう事にいきなり頷く程能動的ではないだろう。フルートが心底好きだというのは可奈子の偽らざる本心であろうが、かといって急激に現実味を帯びた「プロ」という次元には特にリアクションも取ろうとしないのではないかと想像出来る。
ともあれ、事が終われば、彼女にもその辺りのことをなんとなく聞いてみたい、と思う。
天気は晴れだった。夏の日差しが厳しいアスファルトを、壱はサックス片手に歩く。普段の格好で良いと言われたものの、流石に少しは身奇麗にして出てきた。構えるなという方が無理な話である。
楡原薫子。その名をインターネットカフェで調べてみれば、壱の耳には入ってこなかっただけで随分と有名な人間である事を知った。楡原康臣のインタビュー記事やCDなどは数多く目に耳にしてきた壱だったが、氏が姉の存在を仄めかしたような事は無かった所為だろう。
楡原康臣の実の姉であり、ピアニスト。同時にシン・ド・アリッサという音楽レーベルを個人で立ち上げ、そこから弟の康臣他少なくない数の高名なアーティストを輩出しているという。そういう人間と、これから会うのだと思うと緊張の方が圧倒的に上回る。
12時を回る10分程前から、壱は駅前に立っていた。迎えを寄越すとは言っていたが、果たしてどうやって接触するのだろうか。
そう思っていると、モスグリーンのジャガーがロータリーに入ってきた。運転席から降りてきたのは、きっちりとしたビジネススーツを着た女性。見るからに「出来る女」といった風体で、そして若菜のような隙は見当たらない。
まさかな、と思っていると真っ直ぐに壱に歩み寄ってくる。顔立ちがハッキリ見て取れるようになると、その表情が極めて機械的な程に無表情である事が解った。
目の前に立つ、女性。上背はそれ程無いが、ピンと張った背筋がそれを感じさせない。サイドに綺麗に流された髪が、くっきりとした目鼻立ちを強調し、その目鼻立ちがまた無機質な印象すら抱かせる。不思議な人だと壱は心底思う。
「黒沢壱様で宜しいでしょうか?」
「あ、はい」
「初めまして。楡原薫子の代理でお迎えに上がりました。どうぞ車へ」
体を半分ずらして壱を促す女性。周囲の目がその場違いさに気づいたのか続々と集まってくるのを居心地悪く感じながら、壱は足早に車へ向かった。後部座席の扉を音も無く開かれ唖然としそうになりながら壱は素早く乗り込む。ジャガーのシートは想像以上に柔らかい。
そうして、静かに滑り出す車。
「30分程で到着します。窮屈ですがご容赦を」
「いえ、全然」
喋りも極めて機械的ではあるが、不思議と不快感は無い。楡原薫子の秘書か何かなのだろうかと想像する。
高速道路に乗ると、車は大して揺れてもいないのに、窓の外を見ると続々と他の車を追い抜いている辺り、結構な速度が出ているのだろう。
会話も無い社内の30分は苦しかったが、漸く都内に出ると同時に、女性は口を開いた。
「間も無くです」
「はい」
以上である。誰かに助けを求めたい壱だった。自分から話を振ろうにも、運転中の女性の背中はそれを拒否しているようにも見えて辛い。
だがそんな事で諦めては後悔するのだと壱は思い直した。無闇にテンションが上がる。
「あの、お姉さんは楡原薫子さんの秘書か何かを?」
「はい」
沈黙。
空気は思い。
実際ここから出して欲しい壱である。
「……ええと、何故僕をいきなり見つけられたんでしょうか?」
「失礼かとは存じますが、先んじてお写真を拝見しておりましたので」
「なるほど」
「はい」
沈黙。
結局後悔する壱だった。
都内の環状道路と合流し、下へ降りると、程なくして見えてくる建物の地下駐車場へジャガーは滑り込んでいく。ガードマンらしき男が改めて背筋を伸ばすのが目に入った。とことん別世界である。
「お待たせしました」
言うなり、女性は車を降り、扉を開く。恐縮しながら降車すると、シートに比べて硬すぎる程のコンクリートの床が安心感を与えてくれた。どうぞ、と目と手のひらで促す女性に続き、エレベーターへ。14という数字を叩くと、静かに箱は上昇していく。
チン、という軽薄な音と共に開いた扉から廊下へ。掃除の行き届いているのがよくわかる、ともすれば滑りそうな床。それに比べて己の安い革靴が嘆いている。
そんな廊下の最奥、レリーフの入ったオークブラウンの扉を前に、女性は体をずらして壱を正面に立たせると、失礼しますと告げる。
「どうぞ」
そんな声が簡単に返ってきた。電話口の声と相違無い。女性が横から扉を開く。
室内は随分と広く、薄いグリーンに染められた起毛のカーペットがまず目に入った。続けて、真正面に置かれている応接用らしい黒い革張りのソファとガラストップのローテーブル。足を踏み入れると、廊下側からは死角になる位置に、レッドブラウンの恐らくマホガニー製と思われる重厚な机と、壁を覆うような同じく赤みがかった茶色い本棚が視界を埋めた。
そして椅子から立ち上がったその机の主を見て、思わず壱は息を呑む。
「初めまして。楡原薫子です」
そう言って握手を求めてきたのは、抵抗無く「美人だ」と言える女性である。年の頃は30に届くかどうかといった所だろうが、年齢相応の芳しさのようなものが全身から漂っていて聊か青少年には毒である。真っ直ぐに、ぶれることなく合う目線は力強く、その容姿も相まって思わず萎縮してしまう。
「黒沢さん?」
「あ、失礼しました」
「緊張されてるんですね。ま、あまり固くならずに」
どうぞ、と言って応接用のソファを勧める彼女に従い、腰を下ろした。手にしているサックスがやけに重く感じられる。
正面に座ると、薫子は黒のストッキングごしに膝をぴたりと合わせ、僅かに傾ける。運転をしてくれた女性の姿は既に無い。
「お呼び立てしてすみません。あまり私はここを離れられないものですから」
「とんでもないです、俺……僕の方こそ、会うだけだなんて」
「いいえ。誰かと会うというのは貴重な事ですから。それにしても、彼女は無愛想で堅苦しい思いをされたのでは?」
ちら、とかの女性が消えた方を実ながら薫子。
「いえ、そんなことは」
「日頃からもう少し笑うように言っているのですが中々。ああ、失礼を」
居住まいを直すようにしながら、薫子はジャケットの内ポケットに手を差し入れ、名刺入れから名詞を取り出し、テーブルへ。その際潰れた果実の動きを壱は決して見逃しはしなかった。そんな所だけは常にクールな己を少しだけ褒めてやりたい。
「改めまして。この通り、音楽レーベルの……まあ、社長ですわね。黒沢さんはここをご存知で?」
「ええ、好きなアーティストが居ますし」
「参考までに聞いても?」
「楡原康臣さんが」
「まあ」
目を丸くして、それから薫子はふっと笑った。懐かしいものを見るような優しい笑顔は、確かに姉なのだろうと感じる。
「愚弟をお褒め頂きまして」
「あ、いえその。こういう事を言うと失礼なのかも知れませんが、僕楡原さん……楡原薫子さんを存じてなくてですね。それで、楡原康臣さんのお姉さんだと最近知って、それで」
「社交辞令では無いと」
「……はい、そうです。ええ」
言葉のまとまらない壱を促すように、薫子は微笑んだままそう繋いでくれた。緊張し過ぎて背中に汗の出てくる壱である。
「手前味噌ですが、あれは良い奏者になりましたから。こうしてお褒め頂くと、やはりいつになっても嬉しいものです」
「と、申されますと」
「昔は酷いもので……そう、丁度黒沢さんと同い年の頃には、ピアノを投げ出したりもしておりましたから」
「そうなんですか」
意外な話だった。今でこそ華々しく活動をしている楡原康臣であったが、そういう時期も当然あったのだと思うと不思議と親近感も沸いてくる。
それから2、3楡原康臣の話を聞くことが出来た。ここ最近の活動予定を熟知していたりする事などから、壱の熱心なファンぶりに薫子はその都度驚いては微笑む。見た目はやや威圧感のある佇まいだが、本質的に優しい人なのだろうと壱は内心結論付けた。居そうで居ないタイプである。強いて言えば、母というのはこういうものだろう、と彼女の年齢を鑑みずそう思う。
そして、会話が途切れた。というよりも、薫子が意図的に間を作った。
「さて、ではそろそろ、黒沢さんのお話を伺いたいと思います」
「はい」
本題だ、と壱はソファに座りなおした。
切り出してきた薫子の眼差しは、それまでのものとは打って変わって、実に厳しいものに変わっていた。




