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漸く終業式が終わった。
校長による「これで先生からの話はおしまいですが」からの更なる話術展開によって予期せぬ長期戦を強いられたが、生徒たちは餌を檻の外にぶら下げられた空腹の猛獣がそこを破ったが如く学生業から解き放たれた。
「自由千万!」
「新語を作らない」
「だって夏休みなんだぜ!?」
「わかったから」
疲れた顔を全く隠さずに言うユキに尚も絡んでやろうと思った所へ新田教諭が教室に顔を突き入れてきた。
「水着と一緒にモラルも脱ぐなよ。あと黒沢は俺の所へ来い。以上」
それだけ述べて去っていった。
ざわめくクラス。
「なんて無茶な担任なんだ」
「ていうか黒沢この流れで呼ばれるって何やった」
「俺は潔白なんだぜ?」
「疑問系じゃねーか」
「ついにハーレム崩壊の危機に」
「ハーレム言うな」
生徒たちの励ましとユキのやはり疲れたような否定を背に受け、壱は一路職員室へ。
途中、こちらも解散が早かったのか咲と鉢合う。
「あ、お疲れ様っす先輩」
「ホイお疲れさん。今日の調子は?」
「いつだって元気ですぜ!」
「そいつは良かった。ちょっと先生に呼ばれてるから先に行ってておくれ」
「ラジャりました!」
豪快に敬礼をかまし、拳をぶつけて別れる。何も社交辞令で体調を聞いたわけではないのだが、咲には病院に付き合ったこともあってか余計に壱に具合を隠すような所がある。困ったものだった。
彼女の表情がいつもより白く見えたのは忘れないことにして、職員室の扉を開く。
「失礼します」
「おう、来たな」
壱の声に反応して新田教諭が顔を上げる。南教諭の姿が無い事を不思議がりながら、傍へ。
「ていうかあの呼び出し方は酷くないっすか!?」
「男は噂されてナンボだ」
「ゴシップですよゴシップ」
「気にするな。で、呼び出された理由は解ってるんだろ?」
「俺は不順異性交遊なんて……」
「やろうぜ!」
「やっていいんですか!?」
「いや、悪い」
咳払いを1つ。
「プロになるかならないかの話だよ」
「ですよね」
「決めたか?」
試験休み中、壱は殆ど家から出ることもなくずっとそればかりを考えていたと言っていい。無論吹奏楽部の件も忘れてはいないが、今は安定期に入り始めている部の事よりも、よりセンセーショナルな問題ではあった。
なるかならないか。
二元論は、事の他苦手だった。極端な思考回路を時折発揮してしまうだけに一入である。
故に壱は曖昧かつ最適な回答を持ってきていた。
「会うだけ会うって形で1つ」
「そう来たか」
「ダメですよねえ、普通」
相手は楡原康臣を始め、多くのアーティストを抱える決して小さくない音楽レーベルの代表である。そういう人物にとりあえず会うだけというのは馬鹿にした態度ですらあった。
それでも、壱はここで是か否かを決める事はしなかった。不安だからと言ってしまえばそれまでだが、どちらかというと今そちらに気を取られたくないというのが本音だ。可奈子の事も、吹奏楽部も、プロを志すことになれば全て置いていかざるを得ない。
「ぶっちゃけ遊び足りないっす」
「実にいい回答だなおい」
「なれるかどうかは置いといて、なっちゃうとそれは無理でしょ?」
「まあそうだな。ふむ、そう来たか」
じゃあこの話は忘れろ、と言われるものとばかり思っていたが、新田教諭は腕を組み1つ2つ頷いて見せる。
「よし、会うだけ会え」
「……え、本気ですか? だって相手は」
「まあ大層な方ではあるが、別に機嫌を損ねたら殺されるわけでもない。会うぐらい時間があればいいだろ」
「それは予想してなかった返答」
「意外性は大事だな」
笑って、新田教諭は席を立つ。壱の肩を叩き、ついてこいという仕草を見せた。黙って続く。
校内教師専用の喫煙所は放課後になったからか喫煙タイムに入っていたらしく、今尚若干空気が白い。そこへ加勢せんばかりに新田教諭は煙草に火を点けた。
「そういやお前は煙草はやるのか?」
「まさか」
「別にバレずに吸ってるなら咎めないぞ」
「ていうか、楽器考えて下さいよ楽器」
「ああ」
肺活量がどのぐらい煙草の影響で落ちるのかは知らないが、どの道弱ってしまうのなら吸うつもりは無い。
父は愛煙家だったが、壱がサックスをよくやるようになってからは目の前で吸わなくなった事をなんとなく思い出していると、新田教諭は大きく煙を吐いてから携帯電話を取り出し、腕時計を確認。メモリーを呼び出したのか、数度のタッチで耳へ当てる。
「ああ、私です。今は……そうですか。いえね、先日お話したサキソフォニストの話で」
特に緊張した様子も見せず、新田教諭は続ける。
「とりあえず会わせてみたいなと。本人の意思はハッキリしてませんがね。……ええ。それだけのもんです。もう1人居るには居るんですが、まあこっちは時間がかかりそうですし」
可奈子の事だ、と直感する。同時に目の合った新田教諭が唇の端を持ち上げた。
「はいはい。ええ、居ますんで。相手は高校生ですからやんわり頼みますよ?」
そこまで言って、新田教諭は携帯電話を差し出してきた。面食らう壱。
「話したいそうだ」
「お、俺とですか」
「普通に話せば大丈夫だ。ほら、あんまり待たせるな」
再度突き出される携帯電話を受け取り、恐る恐る受け取る。
「もしもし」
「もしもし、黒沢さん?」
聞こえてきた声は、存外若いものだった。新興の音楽レーベルとはいえ、代表というからにはもう少し年上の人間を想像していただけに驚く。
「あ、はい。黒沢壱といいます。ご紹介に預かり」
「あまり緊張なさらないで結構ですよ。楡原薫子といいます。名刺はご覧になられたとか?」
「ええ、すみません、そういう方に会うだけなんて」
「新田先生が随分推されるのでね。珍しい事なんですよ、こういうのは」
クスクスと笑う声に釣られ、壱もなんとなく乾いた笑いが出る。ただの高校生に過ぎない自分に丁寧な言葉を使われているだけでも恐縮なのだが、それ以上にたおやかそうな声に壱は無闇に心拍が上がる。
「それで、そちらのご都合は如何かしら」
「あ、それはもう、暇な学生ですから」
「そうですか。では、来週……ああ、黒沢さんは夏休みに?」
「ええ、明日から」
「解りました。来週月曜日では?」
言われてカレンダーを思い出す。金曜日の今日から数えると、要するに明々後日だ。意外とせっかちな人なのか。
ともあれ、壱の方は部活こそあれ1日そこから抜けても問題は無いだろうと判断し、頷く。
「はい、問題ありません」
「では決まりという事で。楠台にお住まいでしたね?」
「ええ」
「それでは12時に駅に迎えを。楽器だけ持って、普段通りの服装でいらしてください」
「解りました」
「楽しみにしています。ああ、もう1度新田先生に代わって頂いても?」
「はい」
マイクが拾わないように大きく息を吐きながら新田教諭へ電話を渡すと、氏は心底楽しそうな顔でそれを受け取った。
「代わりました。ええ、面白いやつなんですよ、本当は。はい。そいえば、あいつはどうです? ……なるほど、落ち着くところへ落ち着きますかね。わかりました、今度からかってやりましょうか。ええ、では」
笑顔を崩さないまま通話を終え、新田教諭は吸いさしに再び口をつける。
「どうだった」
「いや、若い人だったんでびっくりしましたよ」
「会えばもっと驚くさ」
意味深な言葉を残して、新田教諭は部活に行けと告げながら去っていった。
新田教諭と別れ、音楽室へ向かいながら、壱は薫子との会話を思い返していた。
新田教諭はどうやら随分と壱のサックスを買ってくれているらしい。確かに下手ではない。というより、いきなりやれと言われても即興で1時間は埋められる程度にレパートリーはあるし、テクニックについても特別不安なものを持っているわけでもない。
だから、その程度の人間はどこにでも居るだろうという所に行き着くのだ。そして、或いはこれが新田教諭の言う「チャンス」なのだろうとも思う。自分と全く同じ腕前の人間が居たとして、しかし自分は幸運にもシン・ド・アリッサの代表と懇意な教師が居た。たったそれだけの差であるが、その差は絶対である。
捨て鉢ではないが、ダメでもともと、という心境が今一番近いと言えた。
「遅れまして」
「おつかれー」
音楽室へ入ると既に4人全員が揃っていた。ユキがひらひらと手を振って出迎えてくれる。
「で、何で呼び出されたの?」
「君らに手出すなよ、って」
「えー」
「なんで不満そうな声を出すの咲ちゃん」
壮絶な顔をして咲の肩を揺する若菜に勿論冗談だと継げながらサックスのケースを開く。
音楽に、というよりもこの楽器に触れたのは壱がまだ4歳になる前だった。兄に怪我をさせた事件の後、更に言葉も感情表現も減った扱いかねるような子供だった壱に、父は色々な手段を講じてくれたことをぼんやりと憶えている。
例えば運動であったり、玩具であったりしたが、そんな中父が若い頃にかじっていたというサックスに、何故だか壱は随分と心惹かれたのだった。それから今日まで、毎日欠かさずに何かしらの形でサックスを吹き続けてきた。それが仕事となるかも知れない可能性というのは、喜んでいい事の筈だ。
「黒沢君」
「……あ、何?」
頭を回想から現実へ戻す。可奈子が顔を覗き込んでいた。というよりも、接近すると可奈子は自然と壱の顔をしたから覗き込む形になるのだが。
「ぼうっとして」
「眠いんだ」
「ちゃんと、寝てね。それより、5人居るんだから」
「ああ、そうか。合わせをやりますかね」
「ま、待った!」
「はい若菜ユーフォ」
「ひぃっ」
「先輩、若菜先輩がプリティー過ぎると思います!」
「俺もそれを言おうと思っていた所だ」
若菜の進度は相変わらずである。
「柴崎さん」
「な、何鶴岡さん」
「頑張って。ね」
「はい……」
「なんであの2人は妙によそよそしい呼び合いを」
「黒沢君が砕けすぎてるんじゃないの」
「そういや先輩はなんであたしにさん付けですか?」
「ん? ああ、えーと。前の学校に咲って先輩が居てね。その人をさん付けで呼んでたから」
ふと昔を思い返しそうになり、ちょっとした頭痛が壱を襲った。感づかれないように、笑顔を作る。
「はー。それは先輩憧れの?」
「そんなところだねえ」
「そしてそれが連鎖してあたしに劣情を?」
「誰かこの子止めてくれ」
「咲ちゃんはさっきからどっぷり凹んでる若菜先輩を癒してあげてね」
ユキのそんなカットに内心助けられつつ、壱は楽器の用意をした。
頭の中は、シン・ド・アリッサの事でいっぱいだった。




