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響き渡るドラムロール。
勿論壱の脳内の話だ。
「我がクラスの補修対象者は……」
新田教諭が溜めに溜める。
テスト結果は後日随時返ってくるが、補修に出なければならない生徒が居れば通達される。
今日はそういう日だった。
「我がクラスの補修対象者は……」
「新田先生引っ張り過ぎだって!」
「早く楽にしてくれ!」
「我がクラス」
「やめろォ!」
「はっはっは」
新田教諭だけが楽しそうであった。
「あー、まあ補修受けなきゃならんヤツは居ないから安心しろ。じゃあ良い夏休みをな」
そこであっさりと素に戻ると、担任は気軽に教室を出て行った。クラス中から溢れ出る溜息。
「なんであの先生はこういう事ばっかり楽しそうにやるのかしらね……」
「ユッキーは犠牲になったのだ……新田先生の楽しみの犠牲にな……」
「それだけではないぞ黒沢。学級委員長を含む上層」
「やめろォ!」
「学級委員」
「信じられるか!」
「ねえ、アンタたちのコントはどこで止めてあげればいいわけ?」
相変わらず壱と龍一の絡みには接触し辛そうなユキである。
「ま、補修で部活がつぶれずに済んだのは良い事さ。俺とユッキーが一番危なかったしな」
「そうねえ」
「じゃ、俺は女の所行って来るからお前らは学園生活の思い出作りに励めよ」
「俺は犠牲になったのだ……」
「いいから」
いい加減鬱陶しそうなユキと心底沈む壱に頑張れよと告げて龍一は去って行く。
うなだれてはみたが、しかし期末試験も片付き夏休みに入れば、あとは吹奏楽部に全力を傾注するだけである。壱にとって最大の楽しみが訪れる事になるわけだ。内心は小躍りしたいぐらいに楽しい。
「で、黒沢君今日は?」
「うむ、いつも通りだ」
「投げやりな部長だわ」
「職務には勤勉だぞう」
笑いながら渡り廊下を行き、音楽室へ。揃って入ると、期末という事で清掃の手が入った音楽室は普段の微かな埃っぽさが消えうせて清々しい空気に満ちている。先客の可奈子が目だけで試験の出来を聞いてきたので、壱は親指を立てて見せた。
「良かったわね」
「危ない所だったさ」
「他の人たちは?」
「若菜は元々成績良いし、咲ちゃんはなんだか知らないけど成績良いし」
「ユッキー、僕たちは本当にダメだね」
「今更だわ」
こぶしをぶつけて笑い合う。可奈子は少し引いた目でそれを見ていた。
そこへ折りよく咲と若菜が到着。全員揃うのはなんとなく久々だという気のする壱である。
「お疲れ様」
「おつかれサマー先輩方ー」
「夏先取りだな咲さん」
「下タメ上キックですよ」
「無敵対空!」
「無敵対空!」
「ユキちゃん」
「なんで羨ましそうな顔するのよ若菜」
「……」
「なぜこのタイミングで俺に触るんだお鶴」
「なんか前もこんな流れあったわねえ」
「ユキちゃん!」
「はいはい」
「あら、勢ぞろい」
収拾のつかなくなりそうな流れをせき止めるべくか、今度は南教諭まで現れた。そういえばこの人が居たなと内心無礼を働く黒沢壱。
「珍しいじゃない小枝ちゃん」
「臼井さん、先生の事嫌いでしょ」
「そんな事無いってば」
「で、珍しく現れた先生は何用に?」
「……ええとね」
顔を俯けさせつつ胸部を揺さぶりながら南教諭はアンニュイな表情で流すことにしたらしい。大人だった。
「黒沢君以外の4人にちょっと手伝ってほしい事があるのよ」
「あれ、俺だけ仲間外れ?」
「女子更衣室に入るんだけど来たい?」
「是非」
「小枝ちゃん黒沢君にその聞き方は間違いだと思う」
「先生も今それを痛感したわ」
「理解があるようで何よりです。あとお鶴さんは律儀に俺の脚を踏まなくていいからね」
「そう」
「ジェラシック鶴岡!」
「咲さん意味わかんない」
「でね」
流れを強制的に戻す南教諭である。強引だった。
「まあその、女子更衣室に、古い楽器がいくつか残ってるのよ。それをいい加減片付けなさいって怒られちゃって」
「ワオ、面倒くさそう。頑張ってね女の子たち」
「やっぱこれ連れて行ったほうがいいんじゃ」
「先生もそう思うけどそれは彼の思う壺じゃないかしら」
「チッ」
「おお、露骨な舌打ちですね先輩」
「黒沢君なら大丈夫だと思うけど」
「若菜のその無闇な信用は何?」
「……」
「あ、あ、鶴岡さん帰る支度しないで、すぐ済むから」
見事な連携を発揮しながら5人の老若女子一同は音楽室を出て行った。1人きりになるとそれはそれでちょっと寂しい壱。
とりあえず暇つぶしにとサックスを奏でてみる。
マリーゴールドとは関係の無いとあるジャズのフレーズ。昔買ったCDを引っ張り出して聴いてみたら壱の中でリバイバルが始まった一曲で、慌しい程の上下の遷移が特徴的なジャズらしいジャズだ。
やはり楽しい、と思いながら思いつく限りのアドリブを加えてみる。今日はなにやら調子が良いのか、指先も華麗に流れていく。呼吸の入れ方もまた自画自賛したくなる程計画的で、これこそが自分の最大にして最高の特技なのだと思う。
「入るぞ」
一通りを終えて大きく息を吐いた所で、これも珍しいことに新田教諭が入ってきた。目を丸くする壱と少し距離を取って椅子に座る。
「どうしたんすか先生」
「いや、そこでちょっと聴こえたんでな」
親指で入り口を指しながら新田教諭は自然に煙草を取り出し、それから仕舞う。ヘビースモーカーらしい。
「それにしても黒沢」
「はい」
「やるじゃないか、お前」
「あ、サックスですか? いやあ、このぐらいは誰にでも出来ると思いますけど」
練習量だけは同年代の誰にも負けないと自負する壱である。キャリアが長いのだから当然だとも思っているが。
「いや、才能あるよ、お前」
「そう露骨に褒められると恐縮しますね」
「胸を反らしながら言う台詞か」
笑いながら、新田教諭は窓の外へ目をやった。意図的に間を作り、それから壱に向き直る。その目はひどく真剣なもので、思わず壱も背筋が伸びた。茫洋とした印象の男だが、こういう所もあるのだとなんとなく思う。
そして、驚くような事を口にした。
「お前、プロになるつもりはあるのか?」
「……プロって、サックスでですか?」
「そうだ」
その目つき顔つきから、冗談を言っているわけではなさそうだった。笑い飛ばす隙も与えられない。
プロとは、要するにサックスの演奏だけで食っていく人間の事を指す。
確かに壱はサックスが好きだ。吹いている間は何にも囚われない充実した時間をすごす事が出来るし、演奏そのもの、音楽を彩る行為そのものはどんな快感よりも大きく勝る。仕事となればまた違うのかも知れないが、生涯をサックス奏者として過ごせるのだとしたらそんなに幸せな事は無いだろう。
プロになる。楽器を真剣に志す者なら、それは一度は絶対に夢見る事かも知れない。
「なんで、そんな事を?」
「質問に質問で返すな。イエスかノーで答えろ」
プロになりたいかどうか。
自分のサックスの腕は、確かに同年代の中では大きく抜きん出ている所が多いだろう。何より暦が長いのだから、当然と言えば当然だ。
だからプロになれるのかというと、それは違うとも思っている。それだけで奏者を名乗れるのなら、世は音楽家だらけだろう。
「俺には、難しいんじゃないですかね?」
気づくとそんな事を言っていた。新田教諭の目つきが鋭くなる。
「なりたくないと」
「あ、いや」
「なんでこううちの生徒は煮え切らないやつばっかりかね」
面倒くさそうに頭を掻きながら、新田教諭は溜息混じりに言う。
「なれるもんならなりたい。その程度か?」
「……というか、質問の意図が見えなさ過ぎてなんとも」
「もう一度聞くぞ。これが最後だ。なりたいか? なりたくないか?」
「なんか「なりたい」って言わないといけない流れに」
「なりたくないならいいんだよ、それで。適当に楽器やって楽しいってだけでも。そらキリキリ答えろ」
言われ、腕を組む。
プロとしての活動。それは決して生易しいものではない筈だ。むしろ、プロとしての演奏を求められるのなら堅苦しいことばかりですらあるだろう。そういう世界に身を投じる事が、果たして自分に出来るのかどうか。
壱が黙り込んでも、新田教諭は答えを急かそうとはしなかった。ただじっと、壱を見つめるだけである。
かつて楡原康臣という生徒がこの学校には居た。楡原といえば解体された財閥の一翼だった姓で、そんな男が今はプロピアニストとして華々しい生活を送っている。それを羨ましいという気持ちはあまり無く、しかし同時に憧れは存在した。
そういう男の母校に、ある切欠と共に黒沢壱は転校してきた。ドラマや映画の撮影に使われた場所を訪れるファンのような心境も少なからずあったが、それよりも楡原康臣の感じた空気を自分も、という気持ちが強かったのを思い出す。そして、「ある切欠」の逃避の一部である事も自覚していた。
だから、音楽に対する純粋さは人よりも少ないという見方も出来るし、逆だとも言える。
確かに自分は音楽が大好きでこっちへ来たのだ。だから音楽をやり続けてもいたい。自分の心の駄目な部分をひた隠しにしてくれるのは音楽だけだからだ。音楽が無ければ、黒沢壱は自己を冷静に保てなくなる。
そういう音楽を、生涯続けていけるのがプロというものだとすれば。
そこまで考えて、壱は頭を振った。混乱してきている。
「どうだ」
「ううん……なりたいと言えばなりたいというか」
「またそれか」
「いや、なりたいですよ。正直な所。チャンスがあればですけどね。続けられるかどうかは別として」
「成る程」
どこかで音楽が嫌になるような事もあるかも知れない。それだけが怖いといえば怖い。
だが本心からすれば、サックスを吹き続けて生活するというのは、なんとも言えず魅力的だった。家族もそれを喜んでくれるだろうとも思う。そしてサックス以外が自分に無いことも、強く自覚しているのだった。
「チャンスがあれば、か」
「甘い考えですかね」
「いや、そんなもんだろう。世にプロのアーティストは溢れるほど居るが、そいつらより良い演奏をするド素人もまた溢れる程居る」
「そうでしょうか」
「嫌な話だが、職人は営業が出来ないとただのオタクだ。どんなにいい腕をしていようが、誰かに使われなきゃ持ち腐れだな」
「まあ、確かにそうでしょうね」
「だから、チャンスを掴んだだけの連中でもあるわけさ、今のプロは」
「なんとなくわかります」
「で、お前にチャンスをやろうと思ってな」
「……は?」
新田教諭は立ち上がり、胸ポケットから名刺を取り出した。
シン・ド・アリッサ。
それは、紛れも無く壱のよく知る音楽レーベルのものだ。そしてその名詞に書かれた名と役職に驚いた。
「代表取締役……楡原、薫子」
「こういうコネクションがある。意外だろう」
「え、先生が?」
「俺も昔はそこそこのギタリストでな。プロとそうでないヤツの違いは聞き分けられるつもりだ。そこで、この人にスカウターを教師の傍ら任されてる」
「楡原って」
「そうだ」
多くは語らないが、しかし新田教諭の目は、この代表取締役が壱の尊敬する男と深い関係にある人間だと語っていた。
名詞を受け取り、じっと見つめてみる。
「ええと、つまり?」
「さっきの演奏を聴いて、俺はこの人にお前を会わせてみようかと思ったんだ」
「ただのサックスバカですよ俺?」
「そうそう居ないんだよ、サックスバカなんて。言い漏れたがプロってのは楽器バカだからな。あと演奏バカ。この人も似たような所はある」
「……」
「会うだけならタダだ。まあ辛らつな事の1つも言われるだろうけどな」
「でも、俺が」
「いいね、そうやって悩め悩め。そういうヤツだからこそ、俺はお前を指名したんだ」
考えとけよ、と言って新田教諭は早々と切り上げて出て行った。
壱の手には楡原の姓を持つ女性の名詞が残っている。




