1
「いとふゆ!」
「いとふゆ!」
「は?」
揃って奇妙な叫びを上げる龍一と壱に、ユキが気持ち悪そうな顔をする。
「いとふゆを漢字で書けばいいよユッキー」
「……あ、終わりって事ね」
「やっべテンション低いよどうしてくれよう龍ちゃん」
「さあ臼井も一緒に」
「嫌だ頭悪い」
「おっと、臼井さんは頭良いつもりらしいぞ黒沢」
「フッ」
「何鼻で笑ってやがんのよ」
「で、実際どうだったよユッキー」
「まあ、ギリギリ……かな」
「補修とかなったらマジ困るからねマジ」
「あ、そうか。お前ら部活潰れんのか」
「そうなんだよ、だからこう、勉強会なんてものを青春時代らしくがんばってみたんだけどね、どうもね」
「無力な私を若菜は許してくれるわ」
「だといいよね」
「仲の良いやつらだな」
ちょっと笑って龍一は鞄を抱え、女のとこ行って来る、と言い残して消えた。成績が似たようなものであろうと全てにおいての敗北感がつきまとう壱である。
期末試験が終了した。壱にとってはあらゆる意味で終了となった。赤点こそ無いだろうが、成績の著しい低下は里帰りの際のウィークポイントになりかねない。
「さて黒沢君、今日は?」
「練習してすべて忘れようぜ!」
「現実逃避……」
「それとも2人で愛の逃避行がいいかい」
「そういう事ばっか言ってると大事な所で誰も信じてくれなくなるわよ」
「うお、何その重い台詞」
そんなやり取りをしながら、一路音楽室へ。先についていたのは若菜。
「あ、お疲れ様2人とも」
「どうだった若菜嬢?」
「うん、勉強したとこは出来たよ」
「今若菜がすごい事言った」
「え、な、なんで?」
「若菜嬢、やっても出来ねえ人種が居ることも理解すべきだ」
「はー」
言葉の意味は解らないがとにかくすごい事を言われたような顔をする若菜である。
「ともあれ、試験は乗り切ったんだ。あとは練習に集中すればいいだけさ!」
「黒沢君それ、現実逃避……」
「おや、若菜嬢も俺との愛の逃避行がいいかい」
「あー、楽しそう」
「見ろユッキー、若菜嬢のリアクションは素敵だな?」
「ハイハイごめんね」
「そういえば、咲ちゃんは?」
部室を今更のように見回しながら若菜が言う。
「一年生は確か日程短いよね?」
「そうだったのか。俺は知らないな」
「まあ、じきに小枝ちゃんも来るでしょ」
「それはどうかな」
「本当にあの人顧問でいいのかしらね吹奏楽部」
「あはは」
困ったように笑う若菜の声に重なるように、扉の開く音。ちょっと視線を下げて、漸く壱は可奈子を認識。
「お疲れお鶴さん」
「ん」
珍しく声に出して返事をしながら、可奈子は一番近い席に手荷物を置き、そのまま真っ直ぐ壱の正面に立った。
「お?」
「先生から伝言で。菱沼さん、今日は、帰ったそうよ」
「ありゃ、どうして?」
「体調を、崩してるみたい」
「そうか」
「体調って、大丈夫なのかな? どこ悪くしたんだろう?」
「そこまでは」
「咲ちゃん、あんまり体強くないんだったわねえ。あの調子だから忘れてたわ」
チューバを運び出しながらユキは失礼な事を言う。
彼女の体については、壱はそこまで多くを知っているわけではない。ただ彼女自身病院という機関を嫌っている事と、しかしそれでは彼女の体にすぐ変調が訪れてしまう事ぐらいしか解らない。だから、正直な所どうやって気を使ってやればいいかも解らないのだ。
「まあ自重してるんなら安心なんじゃないかね?」
「黒沢君意外に冷たい」
「そんなこと無いよう」
「あの子は、無理をするものね」
「鶴岡なんか知ってるの?」
「印象」
「あー、まあねえ」
「ま、気にして咲さんがモリモリ元気になるわけでもないし。4人だけどとりあえず練習しようか」
「それなんだけど」
サックスを取り出そうとする壱を引き止めるように、可奈子が袖を引っ張る。
「そろそろ、合わせられないと」
「まあ、そうだろうね」
「黒沢君と私は、問題無い。臼井さんも。柴崎さんは、もう少し」
「ごめんなさい……」
「露骨に凹んだわね」
「凹んでるのはユッキーなのにね?」
「久々に血が見たいようね?」
「ごめんなさい」
「続けても?」
疲れた顔をしながら可奈子は再度壱の袖を引っ張る。
「個人の技量は、そこまで重要じゃない。菱沼さんは、元々器用だからいいけど、合わせになれば、別の問題も出てくると思うから」
「まあ、確かにね」
「彼女の分は、私がやるから。今日は一度、合わせておきたい」
「だそうだけど、どうかね両名?」
頷くユキと目を逸らす若菜。
「大丈夫そうだ」
「黒沢君! わたし! わたしのリアクションちゃんと見て!」
「諦めなさいな若菜」
宥めすかしながらチューバを抱えるユキ、既にフルートを取り出している可奈子、両手で顔を覆う若菜。
見事な団結力と言えた。
「じゃ、輪になろうか。リズムは俺から」
「よろしく」
椅子を引っ張り出し、輪になる4人静寂から、爪先で3拍子。たまには聴取に回ろう、と壱はなんとなく思う。
チューバの低音域がシンとした音楽室を押し開き、そこへおぶさるようにユーフォニュウムが中音域を重ね塗り。深呼吸。
メインパートの序盤は、サックスからとなっているこの編曲を、壱は非常に気に入っている。最初は可奈子の遠慮がフルートを遅らせているのだと思ったりもしたものだが、原曲を考えればソナタの第一楽章に準拠する展開なのだ。そこを任されるというのは、奏者としても気持ちの良いものである。
長く長くタイで繋がれたチューバの地盤をユキは難なくこなしてくれる。それがあるからか、若菜は個人で練習している時よりも落ち着いて演奏に入れるらしく、目を閉じて体でリズムを取る余裕もあるようだった。そんな2人の様子を伺いつつ、壱も持てる技術を全て稼動させる。
一巡したメロディーが終わる頃、鳥肌が立った。これは自分だけではないだろうと思いながら、目だけで可奈子を見やる。
横笛にそっとキスをし、薄く開いた瞳はどこか遠くを眺めるように、或いはアンニュイな色も交えながら、彼女の指先は丹念に一巡した筈のメロディーラインを作り直す。急に伸びやかな、例えば鳥が突然羽ばたいた時のような大きな変化を、フルートという楽器の可能性として、彼女は無駄なく、そつなく、そして聴取者に何かを教授するが如く、可奈子は、フルートは、舞う。
フルートという楽器の弱々しい、或いは可憐なイメージとは一線を画すような、力強くも清々しい音色は、才能と呼ぶに抵抗の無い響きがあった。
原曲では第二楽章に当たる箇所へ差し掛かると、ここで若菜の立場が激変する。2本のフルートと共に、表舞台へ立たなければならなくなるのだ。このアレンジもまた、壱の好みと言える。可奈子とは音楽的な趣味が近いのかも知れない。
見ると若菜の顔には明らかに緊張が走っているのが解った。どうだろうかと見守りながらユキと共にマリー・ゴールドの下肢を支えていると、唐突にブレスが入りすぎてしまう。眉間に小さく皺が寄るも、それがまた余計な力を生んでしまうのか、再度のミス。
緊張やプレッシャーに弱いというのは誰でも多かれ少なかれ持っているものだったが、若菜の場合それが特に顕著だった。ふと可奈子に目を移せば、大きな瞳を今ははっきりと開き、若菜を見ている。睨んだりしているのではないが、一言あるぞといった所だろうか。
ふとそこで、ユキが少し腰を動かし、膝で若菜の腿をつつくような仕草をした。それでピンと伸びる若菜の背筋。
そして壱は驚いた。何度かのミスですっかり萎縮し始めていたユーフォニュウムが、しっかりとした旋律を取り戻したのである。対してユキは、心持ブレスを強めてチューバの音色を大きくする。壱もそれに乗った。若菜の顔色は戻らないが、落ち着きは取り戻しているのが解る。
可奈子が瞼を閉じた。全ての楽器が一度、全音符で集合する。ユーフォニュウムはここで、またベースへ戻っていく。チューバは一休みが入る、フルートだけのソロモーション。第三楽章。
元々2本のフルートが交互に走るパートなだけに省略をするかと思っていたのだが、可奈子は言葉通り1人で咲の分までを演奏して見せた。思わず笑ってしまいそうな程のテクニックである。第三楽章はベートーベンの月光に勝るとも劣らない程の連打が多いのだが、可奈子にとっては何の障害でもないらしい。ほとんど真っ黒、と言って良いような楽譜である筈なのに、その1つ1つが全て己のものだと言わんがばかりに、ソリストらしく自己主張に溢れた、強烈でタイトな演奏。
鶴岡可奈子。生まれや育ちが違えば、今現在確実にプロとして華々しい演奏家生活を送っているだろう。
壱にはそう思えてならない。
第三楽章が終わり、第四楽章へかかる。気を取り直して、と壱は大きく息を吸い込むが、可奈子はフルートを縦に持ってしまった。
「あれ? お鶴さん?」
「確か、柴崎さんはここまで」
「う……うん、そうなんです。ごめんなさい」
「あ、そういうことか」
若菜の進度は部内で最も遅いが、それでも第三楽章までたどり着いていた事に、壱は安心する。
大きく息を吐いた。
「いやー、すげかったね」
「鶴岡アンタ本当に凄いわ」
「私はソロだから、凄く聴こえるだけよ」
「そんな事無いよ、鶴岡さんカッコ良かったなあ」
「うん、マジで1人でやるとは思わなかったぜ?」
「ん」
褒められ慣れていない可奈子は、居心地悪そうになんとなく、といった様子で頷いた。
「でも俺が一番驚いたのはユッキーと若菜嬢かな」
「そ、それはぜんぜんダメじゃん的な意味で?」
「何が若菜をこんなに卑屈にさせたのかしらね……」
「はっはっは、いやいやそうじゃなく。ユッキーがフォロー入れたじゃない途中で。あれでビシッとするのが凄いなと思ってさ」
「私も見たわ」
「あーアレね」
「あ、うん」
苦笑いのユキと若菜。可奈子は興味深そうな顔をする。
「ホラ、若菜は一回しくじるとずっとそれ引きずっちゃうから。途中で笑ってあげるとリセットかかるのよ」
「ユキちゃん、そんなロボみたいな……」
「仲が、良いのね」
「そうだね。美しい友情だね。ゆり色だね」
「ゆ、ゆり色ではないよ」
「何ゆり色って」
「ユキちゃんはわからなくていいの!」
「はぁ」
納得いかなそうな顔で肩をすくめるユキと、あわてた顔を笑顔で取り繕う若菜。信頼感というのは形を持たずに、しかし確実に存在するものなのだと位置は1人納得する。
ふと、フルートにクロスをかけながら、可奈子が自分を見ている事に気づく。
「どうしたのさ、そんな見つめちゃって」
「なんか、手抜きだったから」
「え、手抜きなんかしてないよ?」
「キョロキョロしてたし」
「ああ、いや、今日は皆の成長振りをね?」
「うわ、上から目線」
「そんなんじゃないよう」
「真面目にやってれば、皆評価するのに」
「お鶴さんに褒められた事なんて殆ど無いぞ俺」
「そうかしら」
「うん」
「え、でもこの前」
若菜が何か言いかけた所で、可奈子は急に椅子から立ち上がった。はっとしたような顔をする若菜と、立っているのに殆ど彼女と視線が同じ高さの可奈子。
「この前?」
「う、ううん、なんでもないよ」
「柴崎さんは、まだまだ、練習が必要ね?」
「う、うぐ……」
「ああ若菜嬢、危険なうめき声を出さないように」
ざわざわと騒がしいながら、それでもどうにかまとまりの良い吹奏楽部だった。
それにしても咲の不在が悔やまれる良い演奏だった、と壱はフォローを入れた際に見えたユキの下着を思い出しながら1人頷いた。




