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楽譜をコピーして配り、個人練習を始め、吹奏楽部は順調に活動を重ねていた。
期末試験も目前だったが、今はただこうして練習しているのが楽しいという非常に良い状態にまとまっていると言える。久々に顔を出した南教諭はそんな壱達を褒め称えつつも、本当は聴いていたいんだけどなどとぼやきながら職員室へ戻って行く日々だった。教師というのもままならないものらしい。
日差しが強くなり始め、湿度と気温が頭の悪い数値を叩き出し始めた為か、特別教室棟はクーラーが効いている。これが、運動部には羨ましいらしく、時折同じクラスの野球部やサッカー部の人間が涼みに来たりもしていた。
そのたびに姿を隠す可奈子を落ち着ける必要もあったが、誰も彼もが吹奏楽部の破綻とその原因について悪意印象を持っているわけではないというのが目に見えて解り、壱はどこか安心した。考えてみれば、吹奏楽部以外の人間からすればどうでも良い事件なわけで、それを証明するかのように、ついでとはいえ演奏を聴いて素直に感想を貰えるという日々が、ただ喜ばしい。
「しかしハーレムな、黒沢」
「うむ。羨ましかろう」
「吹奏楽部ってこう、おしとやか系多い感じするしな」
「あ、同感だ。俺そういうのすげえ好み」
「ちょ、紹介してくれ黒沢!」
「汗臭い体でお入りでないよ!」
「畜生なんだこの王朝!」
この日も廊下に出てサッカー部の顔見知り達と無駄話をしながら、悪い事ばかりじゃない、と思う。
「で、吹奏楽部っていつ演奏会? みたいのやんの?
「8月の終わりごろとか言ってたかな」
「つーか普通に上手いよね、君ら。優勝すんじゃね?」
「優勝とか無いから。金賞とかならあるけど」
「白黒つかないのかよ! 落ち着かねー!」
「血の気多いな運動部」
笑いながら、自分も随分この学校になじんできた、と再確認。
ふと扉が開き、出たまま帰ってこない壱を気にしたのか、咲が顔を出した。
「先輩れんしゅ……あ、こんにちは!」
「やー咲ちゃんこんちわ」
「可愛い! 可愛いよ!」
「もー、褒めても何も出ないですよー」
イヤイヤと体を捻りながら、しかし満更でもなさげな咲に笑い返し、車座から立ち上がって抜ける。
「そろそろお鶴さんが不機嫌?」
「そうなんですよ。先輩が居ないとすぐプリプリしちゃう」
「フフフ、辛いね。あ、じゃあ皆、僕これから花園に戻るから、精々筋肉でも鍛えてればいいと思うよ」
「今なら空中で愛の竜巻すら撃てそうだわ、俺」
「黒沢、窓側に立つなよ、ボール蹴りこむからな」
「じゃーね咲ちゃん今度は結婚してねー」
がやがやと、それでもノリよく返してくれながら去る一団を見送る。
「人気者ですね先輩」
「クーラーと君らのお陰さ」
「でも、サッカー部の人達、皆褒めてましたよ。あたし達の事もそうですけど、黒沢のサックスはすげえ、って」
咲は自分の事のように、嬉しそうにそう言う。いい高さの頭を撫でながら、音楽室へ。
可奈子がフルートの手入れをしていた。
「お鶴さーん!」
「何」
「いや、手入れしてないで練習しようぜ」
「アンタにだけは言われたくないってさ。ねえ鶴岡」
ユキがチューバを抱えなおしながら可奈子に同意を求め、可奈子は壱を見向きもせずに頷く。
「確かに黒沢君サボり過ぎかも」
「いやなんつーか俺はもう完璧? っつーの? ミスもしねえし? みたいな?」
「悔しいっ、悔しいよユキちゃん!」
「あーよしよし」
「不真面目」
「……君の一言はホント心に突き刺さるなぁ」
苦笑い気味に、壱もサックスを取り出し楽譜を目の前へ。とは言え、暗譜は既に済んでしまっている。こと音楽に対しては異常な情報処理能力を誇る自分の脳が、壱は嫌いではない。
大人しいなと思って咲を見ると、カーディガンを羽織っていた。
「あ、咲さん寒い?」
「いえいえ。冷え性なんで、あたし。指先冷たいと、キチンと出来ないですしね」
「寒かったらちゃんと言ってね」
決して低すぎる温度調節ではないのだが、体質の差はあるものである。
壱がサックスを手にし、足を組んで流すように吹くと、他の部員の目が集まった。中断。
「なんでやめんのよ」
「なんで見詰めるのさ。それは愛か恋か憎悪か」
「奇異じゃないかな」
「若菜嬢のバカッ! もう知らない!」
「人気者っすねえ先輩」
「吹いて」
可奈子が、手入れを終えたのか再びフルートを握りながら言うので、頷いた。なんとなく彼女の言葉には逆らいにくい所があるのは性的嗜好とは無関係だと思いたい壱である。
「あ、じゃあ鶴岡さんも」
「だそうだよ」
「……黒沢君は、最後まで出来る?」
「無論」
「え、ほんとに?」
「若菜嬢、俺の頭はサックスとエロスの為にあるんだよ」
「嫌過ぎるわそんな部長」
「でも、流石に吹奏楽部のツートップですよねえ」
「ツートップて。まあ、いいけど。じゃ、やりましょうかね鶴子さん」
「誰?」
「この際それはいいじゃない……」
出鼻を挫かれながら、笑って壱はリードに口を付けて、立ち上がった。可奈子もそれに倣うようにして、壱の傍に立つ。
つま先で3拍子。サックスが歩き始める。低音を維持したままの壱を、上から押さえつけるわけでもなく、むしろ併走するように可奈子のフルートが合流。
ぞくりと鳥肌が立った。長い事編曲作業を手伝っていた都合もあって、キチンと彼女の演奏を聴くのは久しぶりだったが、思わずこちらの手が止まりそうな程に、悠々と、フルートという楽器のキャパシティを超えんばかりの音色が壱の心を奮わせる。
負けていられるか、とばかりに壱も技術の限りを尽くした。
マリー・ゴールドは本来ピアノソナタで、第1楽章から第4楽章までで成る。それを、可奈子がジャジーにアレンジした。
故に序盤は大人しく、静かに動き始める楽曲なのだが、それも束の間、すぐに音色は彩を持ち始める。深く静かな湖面を思わせる第1楽章に、明るく愉快な波紋の第2楽章を織り交ぜて、フルートとサックスは螺旋を描くようなフュージョンを作り上げた。
そして、第3楽章。原曲でも最も難所と思われるであろう、激烈なまでの連打の部分を、可奈子はそれぞれのソロという形で纏め上げた。
普段の物静かな彼女のどこにこれ程の熱さがあるのか、と驚嘆するような、情熱的なメロディーがかき鳴らされた。そこは本来、咲と交互にシーソーの如く奏でる箇所なのだが、それを可奈子はアドリブで全て演じてみせる。感性だけではなく技術面でも、鶴岡可奈子は天才と呼ぶに相応しい。
再度、負けるものかと意気込んで、壱もまたサックスに伺いを立てる。頬を目いっぱい膨らませて、あらん限りの自分らしさをぶつけた。楽器という存在、それに救われた自分、音楽という「無敵の言語」を得てから、より多くの世界と対話出来るようになった事を、壱は心底から感謝していた。その気持ちの全てを、リードを通してこの黄金色の楽器へ注ぎ込む。
終盤が近づき、テンポも大人しくなってきたものの、しかしフルートとサックスはその性能を存分に披露し続けた。
ラスト、序盤と同じような旋律、しかしそれぞれの個性を敢えて消すことで一体感をもたらす短いフレーズ。
やってやった、という達成感。間の後、拍手。
「パネェっす! 先輩方マジパネェっす!」
「咲さんは日本語を喋りなさい」
「いやでもホント、凄いわ2人とも」
「わ、見てユキちゃん凄い鳥肌鳥肌」
大きく深呼吸をして、上がったテンションを落ち着けながら可奈子を見る。目が合った。
「どうだった、お鶴さん」
「パネェって、どういう意味?」
「……ハンパねえ、の略語だと思うよ」
「そう」
「え、以上?」
「ううん。黒沢君は、凄いわ。私の意図を、ちゃんと、汲んでくれてる」
「ま、曲作ってる人の一番近くに居たからな、俺。にしてもお鶴さんも見事なものだった。やっぱ君はパネェよ」
「そうでも」
「謙遜するね」
「違う」
「フフフ、プリティーさんめ」
「……」
「あ、踏んでるっ、足踏んでる!」
「仲良いいですよね、あの2人」
「そうねえ」
「ちょっとジェラシー」
「若菜、指噛まないの」
和気藹々、という事場が抵抗無く収まる空気。途中、いくつか悩みもしたが、このまま良い形に落ち着きそうだと改めて思う。
「それにしても、こりゃ私達もゆっくり練習なんてしてらんないわ」
「ユキちゃんはどの辺まで出来た?」
「この辺りまでは」
「早いー!?」
「若菜先輩は?」
「こ、ここがちょっと」
「中盤手前じゃないの……」
「マイペースに頑張りましょうよ」
「優しいね、でもそんな優しさがわたしを駄目にするの、咲ちゃん」
「若菜先輩が半壊してます部長!」
「そうか、ならば俺が手入れをせんといかんかも知れんね。さあ横になりなさい」
「だ、大丈夫だからっ」
「……」
「だから踏んでるの! お鶴さんは俺の脚を踏んでいるの!」
「下品」
「ワァ」
「仲良いですよねあの2人」
「咲ちゃん、ループするから」
騒がしくなり始める音楽室に、ノックが2つ。それから扉が開き、久々に顧問の登場である。
「皆元気?」
「誰だあの人?」
「さあ、うちの学校の先生じゃないの?」
「わたしも見覚えはあるんだけどな。知ってる人ー?」
「あたしの叔母さんに似てます」
「……もう、先生の居場所は無いのね」
よよ、と扉に寄りかかる南教諭である。
「まあこの辺にして、でも珍しいじゃないですか、この時期に」
「うん、コンクールの日取りがね。8月20日に決まったからその連絡をしておこうと思って」
「随分決まるの遅かったですね」
「伝えに来る時間が無くって」
照れ笑いをしながらそんな事を言う南教諭に軽いバッシングが集まり、再びへこみ始めた教師を宥める。
全てにおいて色々と頭の悪い部でもあった。
「にしても、もうちょい早く来てれば良かったのに小枝ちゃん」
「南先生って呼んでね臼井さん。でもなんで?」
「今黒沢先輩と鶴岡先輩がツートップでエースのパネェだったから」
「咲ちゃん、それじゃわたしにも意味が解らないよ」
壱と可奈子がとりあえず完奏出来るという事で、コンビで吹いた事を伝えると、南教諭は心底残念そうな顔をした。それでも、咲が身振り手振りを交えながら今の演奏の良さを説明するのを、微笑んで聴いている。他の部員は手が空いてしまったので、練習を再開。
ひとしきりの通達が終わった後、南教諭はちょっと腰を曲げて咲に目を合わせると、何事か小さく呟いた。それを聞いて、咲が同じようにちょっと肩を落とす。何事かフォローをし、南教諭がまた何か言うと、不承不承といった具合で、咲は頷いて見せた。
それから、教諭はそんな一連の流れをなんとなく眺めていた壱を見る。
「黒沢君」
「あ、はい?」
「ちょっと」
「なんでしょう」
廊下へ出ると、少し考えるような顔をしてから、南教諭は口を開いた。
「今日の帰りなんだけど、咲ちゃんに付き合ってもらえる?」
「は?」
「あの子、本当は昨日病院に行かなきゃならない筈だったのに、行ってないみたいなのよ」
「うわ、そういえば病弱っ子でしたねあの子」
「そうよー。忘れないでね? で、どうかしら」
「どうも何も、否やはないですよ。そういう事なら」
「そう言ってくれると思った。本当は私がついてあげたいんだけど、時間がね」
「俺はとりあえず咲さんが病院に行く所まで見守れば良いんでしょう?」
「そう。お願い」
「了解しました」
「有難う」
小さく頭を下げて、それから頑張ってねなどと残し、南教諭は戻っていった。見送り、音楽室へ。
咲と目が合い、すまなそうな顔をされてしまった。
「スミマセン……」
「いや、別に方向は一緒だしね。気にせんでいいのよ」
部活を終えると同時に走って帰ろうとした咲を、壱は文字通り捕まえた。それについて他の部員と少々問答をせねばならなかったが、咲の「病院」というワードでそれは落ち着いた。
揃って校門を出、5人が別々の道に乗った頃、咲は目に見えてしゅんとし始める。そして漸く喋った言葉が、「スミマセン」だった。
「病院、嫌いなのかね」
「好きな人なんて居ませんよ」
「看護士さんに会えるのに!?」
「や、そんな事で凄い驚愕されましても……」
「あー、まあ咲さんは小さい頃から体弱かったんだっけ? ならしょうがないのかな」
「はい。お医者さんがどうも苦手で」
「や、や、やらしいことととととかされちゃうの?」
「怖いっす! 先輩怖いっす!」
「ソーソーリー」
後ろから来た自転車に気付き、咲の腕を取って自分の方へ避けさせる。通過を確認してから、元の位置へ。
「やらしい事とか全然無いですけど、その……なんか、作業めいてて」
「作業」
「はい次ー、はい菱沼さんねー、はい問題ないねー、はいどうぞーみたいな」
「あー」
壱も人並みに病気をして病院へは行ったりもしたが、確かに医者という人種は得てして無機質な事が多い。逆に言えば常に患者全てに感情を込めて接していては身がもたないからなのかも知れないが、多感な少女にはあまり良くは映らないのかも知れなかった。
「気使われるのも、なんか嫌で」
「うむ」
「今日のカーディガンの事もそうですけど、本当、あんまり気にしないで下さいね?」
「そういうわけにもイカンさ。咲さんに何かあったらみんな心配するし」
「それが、嫌だから……」
ガードレールを挟んで、車道をバンが駆け抜けていく。揺れるショートカットと不動のツンツン毛束の対比はそこそこシュールである。
「まあなんと言っても、咲さんは年下だしな。可愛がられちゃうのは税金みたいなもんだと思って我慢してちょうだいよ」
「うー……」
「女の子がそんな唸らないで」
終始腑に落ちないような、普段の明るさが消えた咲を心もとなく思いながらも、壱は彼女を病院まで見送った。待合室で菱沼さんと呼び声がかかるまでを雑談で過ごしている間も、彼女の落ちた肩は部活の時間のようには戻らなかった。




