10
「決まらない」
「は?」
「最後、が」
ぼやくような可奈子の声に、壱は読んでいた本から顔を上げた。
期末試験の憂鬱を目の前に控えながら、しかし吹奏楽部は通常運営を続けていた。勿論学業もおろそかには出来ないのだが、かといってコンクールに今までのような腕前で出演するわけにもいかない。
故に、壱と可奈子の経験者組は、図書室での編曲作業の方を優先していた。他のメンバーも顔を出したがっていたが、可奈子の妙に強硬な姿勢によってそれは阻まれた。壱の「複数人での作業は混乱を生むから」というフォローが無ければ、また微妙な空気になっていたかも知れない。
さておき、その作業も終盤までさしかかってきていた。
壱は最早楽譜の清書をする能力については見限られ、単純に可奈子に助言を与えるだけの存在と化している。その助言も、どちらかというとセンスとしては可奈子の方が上なので、奏者の気持ちを汲んだ音符の配置を提案する程度に留まっている。
つくづく役立たずだなと苦笑い気味に言う壱を、可奈子が「別に」と一蹴したのはついさっきの話だった。
「最後って、最後?」
「最後」
「どこ」
体を乗り出して彼女の手元を覗きこむと、言葉通り本当に「最後」の4小節だけを残して全て埋まっていた。
元々ピアノソナタであるマリー・ゴールドをブラスアンサンブルに書き直す上で、可奈子はジャズめいた編曲をしてみせたのである。それは、長すぎる第4楽章までで構成されるマリー・ゴールドへのそもそもの演奏という手間を減らし、そして少数精鋭ならではの、各々の個性を引き立たせるには最適の選択だった。
それ故に、最初と最後は肝心なのである。合奏とは文字通りの物で、最後まで個性ばかりを主張するわけにもいかない。フィニッシュについては、難しい所なのだろう。
「決まらないとはまた珍しい」
「どうすればいい?」
「どうって……んー、どうだろうなぁ」
「……」
「役立たずって思ったね?」
「思ってない、けど。がっかりした」
「その方が辛いわ」
「どう、しよう」
壱から楽譜へ視線を戻し、可奈子は珍しく難しそうな顔をする。
全体の流れを思い浮かべながら、壱も考えた。
「こういうのは、どうかね?」
他に図書室を利用している生徒はおらず、司書も居ないので、壱はサックスを小さく奏でた。
完全なアドリブではあるが、上から下へといった派手な移動はせずに、中央を走り抜けるようなメロディー。それは、マリー・ゴールドの序盤とほぼ同じ構成である。
可奈子はすぐにそれに気付いた。
「それ、最初の方の」
「うん。どうよ? やっぱ元はソナタなんだし、でもアレンジをするんだから、こういう無茶なロンドってのもアリだとは思うんだけど」
「ちょっと、考えてみる」
頬杖をつき、前に落ちてきた髪をさっと後ろへ払いながら、可奈子はまた長考に入る。それを見届け、壱もまた本に目を戻した。雑誌を読んでてもいいから一緒に考えろ、というのは彼女の指示である。
10分程硬直していた可奈子が、ペンを走らせた。カツカツと机を叩く音の後、楽譜を持ち上げて突きつけてくる。
「こういうの」
「どれ」
受け取り、見てみると、成る程壱の提案の通り序盤とよく似た旋律を奏でながらも、全てのパートが最後には同じキーで締めるというデザインである。移調楽器ならではの音質の違いも、キチンと計算に入っているようだった。これには、大きく頷かずにはいられない。
「グゥレイトォ!」
「……」
「悪かったからそんな寒そうな目で俺を見ないで……」
「気に入った?」
「あ、うん。すげえ良いと思うよ。お鶴さんは凄いなぁ」
頭を撫でてくれようと伸ばした手を神速で払われながら、もう1度始めから全ての流れを見る。
見事な作りだった。全体的にハイテンポに編曲されたものの、随所にセンスが光っているのが壱にもよく解る。それでいて、合奏本来の意味を見失わない調和性は、「音楽という科学」に精通していなければ生み出せないに違いないものだった。
完成である。原曲が素晴らしい事もあったが、これ程の物はそうそう有り得ない。
「うん。これなら、聴いてる人間も黙らざるを得まい」
「そう」
「お疲れ様、お鶴さん」
背筋を伸ばし、改めてそう言うと、可奈子は急に居心地悪そうな顔になった。
「あれ、なんでそんな微妙な顔を」
「だって、黒沢君、そういう事言わないし」
「いやいや、俺だって労う時は労うとも。お鶴さん偉い、だから俺は称えちゃう」
今度こそ頭を撫でてくれようと伸ばした手を、可奈子は掴んだ。それから無表情に壱を見据え、離す。
恐ろしい事この上なかった。
「……や、でも本当に。立派に1個やり遂げたじゃない」
「手伝って、くれたから」
「本読んでた記憶しかねえー」
「それでも」
「ん、まあ、感謝されてるなら有り難く」
恭しく頭を下げながら、壱は筆記用具を片付け始めた。可奈子も当然それに倣うだろうと思っていると、俯いて黙り込む。
「どうしたの?」
「これで、いいのかしらね」
「何が」
「吹奏楽部に、対して」
「ん?」
見当はついたが、敢えて言わせてみた。結構なネガティブの過ぎる鶴岡可奈子には、そのぐらいが丁度良いとも思っている。
「これで、許してもらえるかしら」
「うん」
「……」
即答したのが気に入らないのか、可奈子はじっと壱を睨む。それに笑って返しながら、筆箱を閉じた。
「正確には許しちゃくれんだろうね。だって別に許すような事なんて何1つ無いし」
「好意的過ぎるわ」
「そう思うなら、許してちょって言ってごらんなさい。皆ハァ? って顔するから」
それで終わり、とばかりに壱はバッグに私物を詰め込んで、立ち上がった。
「待って」
鞄を手に取り、音楽室へ移動しようと準備をしだす壱を、可奈子は引き止める。
「何?」
「聞きたい、事が」
「なんだろう」
「黒沢君は、どうして私に、そういう目をするの?」
「そういう目、とは?」
曖昧な物言いだったが故に、壱もとぼけて見せようとは思ったが、心当たりは大いに存在する。
可奈子の「虐待」を打ち明けられ、傷跡を見せられた時のような目を、彼女は言っていた。
「私の体を、見た時の貴方は、痛ましいとか、そういうのじゃ、なかったから」
「劣情」
「……」
「お、怒ったら駄目だよ」
「真面目に、聞いてるのに」
「いやそれは解るんだけどね」
「ああいう目は、姉さんも、しなかった。同情じゃなければ、何?」
何かしら答えないと、可奈子はこのまま食い下がり続けるだろう。
息を長く長く吐いて、壱は観念した。
「お鶴さんは、嫌がるかも知れないけどさ」
「何」
「やっぱり、同情してるんだと思うよ、俺」
「嘘」
「本当だって。同情っつーか……ああ、君もか、みたいな共有感めいたものを。多分、持ってる」
「共有……?」
「俺も、拾われた子なんでね」
苦笑い気味に、短くあっさりそう言うと、可奈子は息を呑んで壱を見た。
「そう、なの」
「うん。だから、お鶴さんに身の上を教えてもらった時、気になるような目付きをしちゃったのかも知れんね」
「……似たもの同士ね」
「まあ俺は、拾われてからは君のような仕打ちは受けずに育てて貰ったから、本当の意味では少し違うかも知れない」
壱の言葉に、可奈子は頷き、それから右手を差し出してきた。
何だろうかと思ってその手と可奈子を交互に見る壱に、可奈子は口を開く。
「手を」
「手?」
「出して」
「ああ、はい?」
出すと、握られる。確かめるように力を込める様には、どこか儀式めいた何かがあった。
「うん」
「え、どういうこと?」
「私は、やっぱり、黒沢君には、触れる」
「ああ」
「男の人はね。力が強くて、体は、大きいし。声は低いし、怖い」
「まあ、俺も野郎より女の子の方が好きだけど」
「……なんで、黒沢君は、平気なのか。ずっと気になってたから」
それは、可奈子にとっては不思議な事だろう。
まず父に暴力を振るわれ、男というものに恐怖と嫌悪感を抱いた筈だ。救ってくれたのが姉だというからには、それも一入となるだろう。そこへ、黒沢壱である。
「そう、黒沢君も」
「お鶴さんはさ」
「何?」
「今を、どうにかしたいとは、思わない?」
「どうにか?」
「その、親父さんの暴力を止めたい、とか」
「……どう、かしらね」
「嫌じゃないの?」
「解らない」
「解らないって」
「あの人には、そうする必要が、あるのよ」
言って、可奈子は頭を小さく振りながら立ち上がった。話は、それで終わりとなってしまう。
先に立って音楽室へ向かう小さな背中を見ながら、この子に暴力を振るう感覚というのを理解出来ず、溜息ばかりが重なった。
完成した楽譜を、特に勿体つける事も無く部員に見せると、最初に声をあげたのは咲だった。楽譜を一通り眺め、それから諸手を振り回して騒ぐ。
「すごー!」
「そればっかやね君は」
「鶴岡先輩フィーバー!」
「意味、解らないわ」
「大好きー!」
「痛い」
「夢のような光景じゃないか」
「なんで私に振るのよ」
「わたし、解るよ」
ユキを挟んで若菜とサムズアップ。気持ち悪そうな顔をするユキの目が痛いと言えば痛い。
ひとしきり騒いで咲が満足した辺りを狙って、壱は仕切りなおす。
「さて、こうして楽譜が出来上がったわけだが」
「うん」
「なんで顧問いねえんだよ」
「なんで私に振るのよ……同感だけど」
基本的に南教諭は部活動中には居ない。試験が差し迫っていて忙しい事もあるのだろうが、それにしても放任すぎる顧問であった。
「ま、いいや」
「駄目な姉ですみません」
「ええんよ。でね」
楽譜を差し上げ、一同を見渡す。
「とりあえずこれで、我々はコンクールに向けて本当の意味で練習が始められるわけだ。でもその前にハッキリさせておきたい事があってね」
「先輩! あたし上から78の」
「そんな事は聞いてねえ! でも後で教えてね!」
「お断りです!」
「バカやってないで先に進めてよ……」
可奈子が窓の外に興味を持ち始め、ユキが頭痛を堪えるようにこめかみを押さえながら言うので、咳払いして壱は再度仕切りなおすべく咳払い。
若菜が間を埋めるように口を開いた。
「ハッキリさせておきたいこと?」
「あ、うん。スーパーアンケートタイムです」
「おー」
何故か感心する若菜、咲を尻目に、ユキは可奈子にマリー・ゴールドの中身について聞いたりしている。意外と仲の良い2人じゃないかとも思いながら、再三の仕切りなおし。
「ま、笑わないで聞いて欲しいんだけどさ。今でもお鶴さんにイラついてる人居る?」
「は?」
「ほら、見たまえお鶴さん」
「……」
「え、何の話? どういうこと?」
バカにしたように呆れた顔をするユキを遮りながら、若菜が不安げに捲くし立てる。彼女は常に、こうしたワードには敏感らしい。咲はといえば、詳しい事情を知らない身でもある故に一歩引くような形で趨勢を見守っていた。
「お鶴さんがね。楽譜書いたから許してくれってさ」
「そんな、即物的な、意味じゃ」
「そうなの鶴岡?」
ユキの問いに、頷くでもなく首を振るでもなく、可奈子は曖昧な顔をする。
それを見て、彼女はちょっと笑った。
「あのさ、鶴岡。そりゃ私はアンタに対して凄い勢いでイライラしてた時期もあるわ。それは認める、つーか憶えといて。でもね、今でもそうなら、そもそもこんな所にアンタと一緒に居ないって」
「そうだよ。わたし鶴岡さんとまたやれて、嬉しいし」
「大好きー!」
若菜が後を継ぎ、咲が空気を読んだのか殊更明るく可奈子にダイブ。よろめきながら咲を丁寧に引き剥がし、可奈子は落ち着かない視線を彷徨わせてから、壱を見た。
「とまあ、こういう事です」
「何、鶴岡はそんな事気にしてたの?」
「そりゃ気にするだろうさ。実際俺らがどう思ってるかまでは頭が回らなかったみたいだけど」
「あたしは詳しいこと、知らないですけど」
まだ落ち着かない様子の可奈子に向けて、咲が逆に落ち着いた物言いで口を開いた。
「ユッキー先輩も若菜先輩も、鶴岡先輩が嫌いなら、編曲だって任せてくれないと思いますよ」
「だけど」
「そしてあたしは大好きー!」
またも可奈子にハグを決めようとする咲の首根っこを捕まえて、壱は可奈子にちょっと笑いかけた。それで、彼女もぎこちなく笑う。
「い、痛いっす先輩……」
「おやごめんよ」
「げほ、けほっ」
「ご、ごめんよ?」
「暴力沙汰で出場停止か……短い吹奏楽部だったわね」
「ユキちゃん、それは不吉すぎ……」
「外道」
「外道っつったなこの幼女」
「よう……!」
可奈子と壱の極めて無駄な睨みあいを見て、呼吸を整えた咲が笑う。
かつての問題にマリー・ゴールドを手向けるべく、吹奏楽部はこの日本当の意味で、動き始めたのかも知れなかった。




