9
黒沢家に引き取られてからも、壱はずっと塞ぎこむ子供だった。
誰を信用する事も出来ず、誰の手に触れることも恐れ、全てを遠ざけ排他的なものの見方しか出来なかったのだ。4歳という、自我を最も強固に作り得る時期、壱の心には何も根付いていなかったのである。
そういう弟を、兄の拓はつまらないやつだと思いながら、しかしなんとか笑わせてやろう躍起になっていた。生来の明るさと、もうじき中学生になるという年齢に似つかない落ち着いた考え方が、そうさせるのである。この少年は、笑うべきだ。子供はそういうものだ。そんな単純な結論しか出ないでもなかったが、しかし12歳の子供が至るにしては極めて卓越したものであった事は確かだった。
だから、日々様々な物、おもちゃや漫画などで、壱の気を引こうとした。中々自分の周りに興味を持とうとしない壱だったが、拓は根気良くそれを続けた。
本人としても、本当なら同学年の友人と外で遊んだりゲームをしたりしたい。だが、壱がその間もこうして1人ぼっちで居るのかと思うと、心から楽しむ事など出来はしないのだ。
有る日、拓は玩具のナイフを見せてみた。突き刺しても、柄に刃が引っ込むという単純な物である。刃先は丸いし、危険も無い筈だった。
「ほら壱、カッコいいだろ」
言いながら手の中で捻り、返ししてみせる。すると、壱の両目が大きく見開かれた。上手く行ったか、と拓が思っていると、壱は驚くべき素早さと膂力でもってそれを奪い取ったのである。
そして、振り回した。何事か叫びながら、拓に踊りかかるのである。やめろという制止の声も、壱の叫びにかき消された。こんな弟は初めて見る。
なんとか取り押さえようと、顔を守っていた腕を解き、手を伸ばした瞬間、その玩具は拓の右目を深く抉った。如何に玩具で、突き刺しても何の支障も無い構造だったとしても、薙ぐような動きについては硬い凶器に成り得る。
あっという間に、右目から血が吹き出した。今度は、拓が声を上げた。
座り込む兄を、壱は血のついたナイフを握り締めたまま、ぼんやりと見下ろす。
父が飛び込んできたのは、そんな時だった。
どうしたいのか、と聞かれて、壱は困る。
どうしたいという明確な目的も意思も無い事に、今更気付かされた。勿論吹奏楽部を上手い事まとめ、コンクールにも出場し、音楽を目いっぱい楽しみたいという気持ちはある。だが拓が言っているのはそういう事ではなかった。
「ハンパで首突っ込むと、ロクな事にならないぞ」
「ハンパって」
「じゃあ、お前はその幼女を今後も面倒見ていく気があるのか? 仮に虐待から救えたとして、その後はどうする。お前が養うのか? 金はどうする? 犬や猫を飼うのとはワケが違うぞ」
「そうだけど、でも見過ごせないし、あの子は」
「だから、ハンパで首を突っ込むなと言ってる。お前がうちに来る時だって、結局手続きやら何やらで半年近くかかったのを憶えてないか?」
黒沢壱が黒沢壱という名を受け、引き取られるまで、随分と長い間病院に居た事をぼんやりと思い出す。全てがどうでも良いものに見えていた頃だったが、それでも周りを動き回る大人の、慌しげな雰囲気だけは記憶に残っていた。
「ま、そういう現実的な話は別としてもさ。釣った魚に餌をやれないなら、余計な事はするなと」
「……」
「少なくともお前は今、まだ引き返せる所に居るわけだし」
「引き返す?」
「単にその幼女に気に入られてるだけだろう。虐待について打ち明けられちまったのはアレだが、ともあれ、このまま忘れて過ごす事も出来る」
「つまり、拓さんはお鶴さんを見捨てろって言うのか」
「そこでループするわけだな。見捨てないならお前がどうやって受け入れるんだ」
「でもそんな事より、今はあの子を助けて」
「それでお前に何のメリットがある?」
「メリットでそういう事をしたいわけじゃない」
「綺麗事だけは一人前だな」
馬鹿にしたように言う拓を、思わず睨みつけると、拓はそれ以上の威圧感を以って見返す。
結局、先に目を逸らしたのは壱だった。
理解はしているのである。何も、可奈子の為に色々と手を尽くす必要性を持つに至るには、絶対的な理由がどこにも無いのだ。同情心も殆ど無い。ただ、同類めいたあの少女をどうにか出来ないか、という曖昧な希望だけがわだかまっているだけで、それを言い当てられた事がままならず悔しい。
俯く弟をじっと見詰め、拓は笑う。
「なあ、壱。ウチだって、お前を中途半端な気持ちで受け入れたわけじゃない。お前という存在を知り、受け入れられるのは黒沢ぐらいしか居なくて、それでもどうするかを親父達は随分話し合った。確かに黒沢家は児童養護施設を持ってるし、そこには色んな子供が居る。けどな、結局は誰も彼もを助けてやる事なんて出来やしない」
「いいのかよ、そんな事で」
「映画や小説じゃないんだ。助けてやった後の話を、あれらは描かないだろ。その後には筆舌に尽くしがたい苦労が無論ある」
「だから見捨てろって言うのか」
「そうは言ってないだろ。だから聞いたじゃないか、お前はどうしたいのか」
再び店員を捕まえてビールを注文しながら、拓は諸手を挙げて笑った。
どうしたいのか。
確かに鶴岡可奈子は今現在、虐待を受けているのだろう。殴られ、蹴られしているという彼女を、壱はどうにかしてやりたいとも思う。
だがそれを、ただ「正しい」とも思えないのは、黒沢家に沢山の遺児、孤児が居るからだった。可奈子に対してそう感じるのなら、彼らにも救いの手を伸ばしてやるべきだろう。
だから、正論は時折崩れる。情緒を無視するからだ。
出されたビールをあおり、拓はまた笑う。
「よーく考えればいいよ。お前には選択肢が山ほどあるから。ただ、今のお前は単に「こうだと良いな」と思ってるだけで、具体的な方法を持ってない。だから、酒の入ってる俺にだって言い伏せられる」
「間違ってるのかな、俺?」
「そうは言ってない。間違ってない、と回りに認めさせる理屈が無いんだ」
鶴岡可奈子をどうしたいのか。
それを、心底から考えた事は確かに無かった。ただ彼女の境遇を哀れむような、或いは親近感のような気持ちがあるだけで、「良くない」とは思いながらも、やはり具体的にどうしていいかというアクションは持っていない。
だからといって、手をこまねいているのも、嫌だった。
「なんとか出来ないもんかね」
「さあね」
「ひでえな兄貴」
「ま、俺が言いたいのは1つだけ。ケツ拭いてから次に行けって事よ」
茶化したような言葉で、しかし拓はすっと目を細めながらそう言った。背筋が伸び、思わず壱はぞっとする。
拓が、こういう目をするのを、壱は初めて見る。小さな「怒り」のようなものを、感じずにはいられない
「どういう」
「先週ぐらいだけどな。来たよ、お前の先輩」
「……!」
「逃げ回って解決できるなら、世の中は平和だろうな」
「先輩は、なんて」
「居ますか、ってな。引っ越したと返したら連絡先を教えてくれと。それは出来かねる、とは言っておいたが」
「……どんな様子だった?」
「さあ。あんなに表情の読めない人は久しぶりだったとだけ言っておく」
拓の言葉も半分に、桐田咲という女性の顔を思い浮かべかけ、やめた。
そろそろ行くかと拓が声をかけるまで、壱は黙り続けていた。
「泊まってけばいいのに。大変だろ?」
「明日仕事だしな俺。休んだら殺されかねん」
「父さんは、相変わらず?」
「竹刀持ってても勝てる気しねえ」
意識して明るく振舞いながら、壱は拓を見送りに駅までついて行った。勿論拓にはそんな事も見抜かれているのだろうが、それ故に付き合ってくれる。尊い、家族だった。
「じゃ、行くわ」
「有難うな、拓さん」
「いいや。まあ暇見て帰って来い。翠がうるさい」
「りょーかい」
「なあ壱」
改札に差し掛かる前に、拓は歩みを止めて壱を見る。意図的な間を置いてから、笑って続けた。
「いや。お前なら上手い事やれると思うよ」
「……」
「殴られた事の無いヤツに、痛みは解らない。もし本当に、お前がどうしても「こうしたい」と決まったら、キチンと相談しに来い」
「それは、お鶴さんを?」
「細かい事は言わない。俺はお前の意見にも反対するし、黙殺もするだろうが、お前が何かを言う権利の一切を保証してやる」
「ヴォルテール、か」
「勉強してるな。意外だ」
喉の奥で笑い、拓は首を振ってから壱の肩をドンと叩く。
「常に明るく生きろ、弟。その為には、手前の不始末は手前でつけなきゃならん。お前の逃避に俺たちはもう付き合ったんだ。その恩返しぐらいはしてみせろ」
「……うん、必ず」
「ならいい。小遣いをやるから女の1人でも連れて来いよ」
言いながら財布から万札を数枚取り出して、拓は壱に握らせた、驚いて返そうとするが、拓はさっさとポケットに手を突っ込んで改札を通ってしまう。
「じゃーな」
「あ、うん。有難う」
「いいってことよー」
ホームへの階段を上り、兄が見えなくなるまで見送ってから、壱は握らされた金を丁寧に皺伸ばしして、カード入れに仕舞った。
考える事が増えた。
増えたが、どこか充実し始めている自分にも、壱は気付いた。




