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若菜を改札まで見送り、アパートに戻ると、そこには変人が居た。
「た……拓さん」
「よう」
壱の部屋の前に座り込んで、絶賛稼動中のポータブルゲームの音量を落としながら、変人は立ち上がる。
黒沢拓。壱の、兄である。
本来は実家、即ちここから電車を使っても2時間以上かかる遠地に居る筈だ。
「どうして」
「お前帰ってくるの遅いな。どこ歩き回ってたんだよ。お陰で寂しくなってきていた所だ。畜生飲み物を飲ませろ食い物を振舞え」
「いや、来るなら来るって言ってくれって」
「それじゃサプライズの意味が無いだろう」
「俺を驚かして何のメリットが」
「いーから屋根のある所へ入りたいんだ」
「あーはいはい」
相変わらずの無軌道ぶりに漸く追いつき始めた所で、壱は鍵を開けた。後ろに、拓が続く。
「相変わらず物少ないな」
「まあねえ」
「本も読まないしな」
「楽譜は読むけど」
「あんなの読めるヤツは変態だ」
「その元締めが何を……酒は無いぞ酒は!」
「つまらん学生だ」
勝手に冷蔵庫を開ける兄を嗜めつつ、壱は苦笑い。
背丈は、壱よりもいくらか小さい。だが、剣道を四段まで修めているだけあり、体つきは平均を凌駕しているといってもいい。壱と並んでも身長差は別段感じさせない程だ。
飄々とした物腰、常に全てを見極めようとする眼差し、そして、眼帯。拓の右目は、摘出されて今は無い。
「とりあえずジュースか何かでいいっしょ?」
「オウヨー」
早速クッションを引っ張って床に寝そべり始める兄の分と自分のコップを出し、パックのジュースを注ぐ。
「はいよ」
「サンクス」
「しかしまた唐突に来たなアンタ」
「おう、我らが妹から伝言を預かってる」
「翠から?」
妹の名は黒沢翠。現在中学生の、最も五月蝿い年頃である。
「うむ。翠を無視して速攻家を出て行った貴様は7つの地獄と8つの炎によって焼かれ死ぬべきだ。詳しくはホームページにて」
「……ぁあ?」
「ブログ持ってるんだって、翠」
「いやそんな事はどうでもいいんだけど。なんでキレてんだあの子は」
「んー、いちにーがみどりをかわいがってくれないからぁー! って事だろう」
「キモい」
「ジーザス」
拳をぶつけ、親指を立て合う兄弟。傍から見なくても謎のやり取りだった。
「いやでも、4月ごろは結構へこんでたぞ、翠」
「そうなの?」
「お前は翠に甘いから」
「拓さんに言われたくねー」
ちなみに、翠はややブラコンの気がある、というのが兄弟の総意である。拓によれば、あの年代特有の年上に対する憧れが、身内に向かっているだけの事だったが、さておきちょっと一人暮らしを始めただけで騒がれるとは思わなかった。
「そんで、それだけ?」
「いやなに、お前の様子を「見て」来いとゴッドファーザーからの指令があってな」
「父さんが」
「どうだ、調子は?」
「今の所、殆ど無いよ」
「気付いてないかも知れないんで言っておくが、お前が「殆ど」って言う時は、大抵「殆ど」以外の部分でいっぱいいっぱいになってるケースが多い」
「……」
「心配かけまいとして誤魔化すのは結構だけどな。俺を欺けるようになってからにしろよ」
言い当てられた、という驚きは無かった。兄は、常にこうして壱の内部へ手を突っ込み、細大漏らさず引きずり出す。それを不快に思う事も多かったが、最終的には、そうした処置をしてくれる兄に感謝しか出来ない。
「まあその辺は今はいいか。学校は?」
「あ、ああ。上手い事行ってるんじゃないかな」
「吹奏楽部は入ったんだろ?」
「うん。つーか、それしか能無いしね俺」
「いいじゃないか、1個でも誇れる物があるんだ。どんな具合よ?」
「地味にハーレムめいてるんだ」
「詳細」
「同年代の子3人と、後輩1人と俺っていう少ないメンツでね。俺以外皆女の子。すごくね?」
「凄い事になってるな。しかもお前転校生だし。どんな事も出来るじゃないか」
「だろう」
「顧問も?」
「実はこの顧問が問題でしてね、お前それどこ産のマスクメロン? ってノリで」
「マジか。よし行こう、今すぐ行こう」
「いやいやいやいやクールに行こうぜ」
猛り始める兄――巨乳派――をたしなめつつ、壱は息を吐いた。
「どうした?」
「いや……とりあえず、全部語っておきたいからさ」
「じゃ、飯でも食いに行くか。どっか良い店ねえの?」
「今日その質問されんの2回目だ。よく知らないんだよこの辺」
「使えねえリトルブラザーだな。ま、駅前まで行けばどっかあんだろ」
言うが早いか立ち上がる拓に続いて、壱も財布をポケットにねじ込みながら続く。
通って来たばかりの駅前は、帰宅ラッシュとも重なり、結構な人出となっていた。ティッシュを配るどこかの店の男や、募金を求める声、クラクションに排気音が錯綜する中を、兄弟でゆっくりと歩く。
こうして拓と歩いていると、やはりこの兄の眼帯は眼を引くらしく、随分と視線が多いように感じた。医療用の眼帯をつけておけば良さそうなものを、兄はよくある海賊のような物を着けている。どんな拘りか気にはなったが、あまり兄の目については触れられない。
少し歩き、即ダレ始めた拓は、適当に足の向いた店に入った。よくあるタイプの和食レストランで、値段もそう高くはないであろう事が伺える。週末という事もあって客入りは中々だったが、変にシンとしているよりも話し易くはあるだろう。
店員に奥まで通され、2人がけのテーブルを挟む。即座にビールを2つ頼む兄に、少林寺的返礼をしておいた。
威勢の良い掛け声で、キッチンまでメニューを通すフロアスタッフ。
「うるせえ店な」
「言うなよそういう事……」
「俺は素直君」
「超初耳」
「今認可されたからな」
「拓さんはばかだなぁ」
「すっころすぞ」
「何語だよ」
「失礼します」
オチをつけるようにジョッキを2つ置き、去っていくフロア。ガチ、と低い音での乾杯を交わし、半分程を喉の奥まで流し込んだ。人いきれとまでは言わないが、混み合って聊か温度の高い店内において、ビールは中々に気持ち良い。
適当に定食風のメニューを注文すると、拓は眼帯に手をやりながら、壱から意図的に視線を外した。話せ、という合図だというのを、付き合いの長さが教えてくる。
「とりあえず、吹奏楽部の現状から行こうかな」
「乳多めで頼む」
「安心したまえ、ちょっとしたイベントもあった」
「メモとか取って良い?」
「いらねえー」
「よし来い」
無駄に張り切る兄に笑い返してから、壱は吹奏楽部の現状に至るまでを端折りながら語った。
元々廃部寸前であった事、そこへ壱が来た事で再開が可能になった事。コンクールの顛末、その原因の少女、そして彼女が抱える影。
再開してからも見え隠れする元吹奏楽部のやっかみ、周囲に気を配りすぎるが故に心を痛める少女、その友人として気を揉むクラスメイト。爆弾を抱えたままの後輩、あからさまな嫌がらせを受けた、渦中の人物。
全てを語ろうとしなくとも、拓は驚くような理解力で相槌を入れてくれるので、思ったよりも短く済んでしまった。
「ふーん」
そしてつまらなそうに締めて、拓はジョッキを空にした。これが素なのは解っているが、流石に転びそうな気がしてくる。
「そんなあっさりと」
「そういうつもりじゃないけどさ。そうか、大変だなぁお前」
「すげえ他人事よね」
「文字通りだしな。んで、お前が一番気にしてるのが、その幼女?」
話している最中、可奈子を幼女と比喩した事が、拓のツボに入ったらしかった。相変わらず読めない男だと心底思う。
「……ああ、うん。幼女なんだけどさ。見た目は」
「すげえ奇跡にめぐり合ったモンだなおい。タメなんだろ?」
「あれはね。見たら驚くよきっと」
「それに、絆されてると?」
再び失礼しますの声とともに、漸く食事が運ばれてきた。割り箸を取りながら、壱は小さく頷く。
「なんで」
「なんでって……なんというか」
「まさか、その子相手に出ちゃったわけでもあるまいよ」
「……」
「マジで?」
可奈子と出会って間もない頃、彼女の目に深いものを見た。
深いもの、というのも観念的過ぎるが、少なくとも爽やかな物ではない事だけは確かだ。そしてそれは、黒沢壱もまた内包している。
「そのお鶴さんなんだけどさ」
「うん」
「虐待されてんだよね、父親に」
味噌汁の入った椀に口をつけようとした手を、拓は止めた。そしてすぐに、残された左目に、鋭い色が混ざる。
「現場を見たのか?」
「いや、本人が」
「……それはマズイな」
「どうして」
「言えない虐待なら外から手を入れようもある。が、虐待されてそれで良いと思ってんじゃねえのかその幼女」
はっきりとした事は言わなかったが、可奈子は虐待を受けている事について、真っ向から拒否するような態度ではなかった。むしろ、病床らしい彼女の姉の事を考えれば、そんな気も起きてこないのかも知れない。自分を救ってくれた存在はもう居ない、という表現をしたのも、彼女に諦めがある証拠だった。
壱が頷くと、拓は面倒くさそうに髪をかいた。
「諦めってのは怖いもんでさ」
「うん」
「お前も、理解は出来るんじゃないのか?」
「……」
「その幼女相手に出ちまったってのも、そういう事だろ。トラウマなんて何を切欠に発症するか解ったもんじゃない」
「トラウマ、と言えば、お鶴さんは男性恐怖症なんだよね」
「まあありがちだな。親父に殴られてりゃ」
「でも、俺には触れる。なんでだろう?」
壱の台詞に、拓は珍しく唖然とした表情を見せた。そんなに驚くべき事なのか。
「多分、だけどな。お前が感じたことと、似たような事をその子も感じたんだと思うぞ。同類相憐れむ、じゃないけど」
「……同類」
「人間心理以外は良くわからないが、その手のシンパシーが物事を解決するってのは珍しい事じゃない」
「そう……」
「そういうことがあるから気にかかるのか?」
「え?」
巡回していた店員に再びビールを頼むと、拓は椅子に座りなおして、壱を見据えた。
この目に、長い間見守られ、諭され、叱られてきた。たった1つの眼差しが、壱の人格の半分以上を形成しているのである。
その瞼を1つ、2つと瞬かせてから、拓は口を開いた。
「どうしたいの、お前?」




