5
「読めない」
「すいません……」
「一応、皆に配るものだから」
「解ってはいるんスよ? 解っては」
言い訳をしながら、壱は可奈子の溜息を聞き、項垂れた。
雨が多くなり、そこかしこに紫陽花が咲き始めた頃。
結局、盗まれた楽譜の回収は不可能と考えて、管理は壱がする事になった。そして、失われた部分の修復を、手伝う事にもなった。
他のメンバーにも声を、と思ったのだが、元々2人でやるのも問題がある所を、複数人でやると混乱を生むという可奈子の言により却下された。確かに、同じ小節を繰り返し演奏をする手法が多いソナタ形式のマリー・ゴールドを複数人で編集するとなると、どの部分がどこなのか、といったような混乱は起きかねない。
とはいえ、黒沢壱は鉛筆を持つ事に慣れていなかった。音符、休符、記号、その殆どが可奈子の「読めない」の一言を以って切り捨てられるのである。確かに壱からしても、読めない物は多かった。何故こんな象形文字を生み出せるのかと思うような音符の羅列は、いっそ恐怖すら沸き起こる。
「うーん……向いてないのかね?」
「さあ」
「べ、別にわざとやってるわけじゃないんだよ? ほんとだよ?」
「それは、解る。一生懸命、やってくれたし」
「良かった」
「でも、意味が無いでしょ」
「ワァ」
「いいわ。私には、なんとか読めるから」
「苦労かけるねぇ」
病床の老人を演じながらそんな事を言うと、可奈子はまた溜息。
教室では目立つから、と可奈子と壱は放課後、図書室で作業をしていた。勿論ここでも人目にはつくのだが、表立って物を言い辛い環境ではある。
「そういえばさ」
「何」
「お鶴さん、どうして吹奏楽部に戻ってきてくれたの?」
「……」
「最初は嫌がってたじゃない」
何となくそんな事を問うと、可奈子はじっと壱を見据え、それから再び作業に戻る。
「寂しいなぁ……」
「嫌がってたのは、黒沢君が、五月蝿いから」
「……あれ、俺嫌われてる?」
「そうね」
「即答か!」
「五月蝿い」
「……成る程、これがいけないのね」
「解ってくれて、嬉しいわ」
言いながら微笑む彼女を見て、可奈子なりの冗談なのだろうと理解した。そういう所も、可奈子にはある。
ただ、根本的に他人との駆け引きを好まないタイプなのだと言えた。好まない、というよりは忌避すらしているようなものである。聞けば、ユキや若菜に対しても、以前からこんな様子だったらしいし、それは今でも基本は変わっていない。人数が少なくなった事で、ある程度の諦観と共に、接近を許しているような所があるのだろう、と壱は読んでいる。
暫く、可奈子の執筆と、それを見て可能な限りの清書をする壱の作業音だけが響いた。
無言の、しかし重苦しくない空気は、いくらか態度の柔らかくなった可奈子を感じさせて、中々新鮮ではある。それでも、今日もまた彼女は「父」に暴行を受けるのだろうし、昨夜もそうであったに違いない。
「あとどのくらい?」
「……4分の1、ぐらい」
「そうか。じゃあ今日はこの辺にしておこうか?」
他の部員は、出来ている所までを練習中である。若菜は壱にも練習をしたほうがいいのではと具申したが、少なくとも他の面子より習得には時間のかからない壱に、その必要は無いと可奈子が割って入った。あの瞬間の、微妙な空気は思い出したくもない。
ともあれ、全員が揃う、という事に壱は拘りを持っていた。3人が練習、2人が別の場所で別の事、というのは全体の調和に支障を来たす可能性がある。
「そうね。もう、大した量でもないし」
「よし、行こう。一式は俺が」
「はい」
楽譜を全て受け取り、ファイルケースに仕舞うと、揃って立ち上がった。
渡り廊下を通りかかった所で、丁度階段を上ってきた新田教諭と鉢合う。
「お、黒沢。どうだ吹奏楽部は」
「どうも。今の所問題だらけですよ」
「女に囲まれると辛いな」
「誠に」
「誰を狙ってる?」
何の躊躇いも無くそんな事を言い出す新田教諭も新田教諭だったが、壱は負けじとばかりに可奈子へ手の平を差し向けた。
「……」
「痛い!?」
差し向けた手の指を全て曲がらない方向へ捻られた。不愉快そうに、先に音楽室へ歩き出す可奈子。
「仲良さそうだな」
「照れてるんですよお鶴さ……嘘ですすいません」
言いかけた所で可奈子が立ち止まったので、即座に謝っておいた。溜息混じりに音楽室に入っていく彼女を、新田教諭と見守る。
「いや、言葉どおりの意味でな?」
「は?」
「鶴岡はああいうヤツだ。お前、凄いよ」
「それは、どうも」
新田教諭がそういう褒め方をするとは思っていなかったので、壱はちょっと意外に思いながら頭を下げた。
「で、課題曲は決まったのか?」
「ええ。先生はご存知ですよね、マリー・ゴールド」
「……そうか、あれをやるのか」
「やっぱり」
「勿論知ってる。というか、俺は楡原の担任でな」
「そうだったんですか」
腕を組み、楽しげに新田教諭は楡原康臣について語り始めた。
何かといじけがちな暗い男だったとか、頭は悪くないのにバカな選択肢ばかり選ぶとか、おおよそ褒めていない言葉ばかりだったが、新田教諭からするとそれは楽しい思い出らしい。
「あのクソガキが、今じゃピアニストさんだからな。解らんもんだ」
「その、当時付き合ってた先輩の為に作ったとか」
「そうそう。それまで、全く女っ気が無いヤツで、まあ喜んだもんさ俺も」
「意外ですね、そういう話って」
「かもな。お前らからすりゃ、手の届かない程遠い所に居る男かも知れないが、実際あいつだってただの人間だ。キレるし喚くし、学生だってやってた」
懐かしげに、無精髭を撫でながら、新田教諭は続ける。
「それにしてもマリー・ゴールドとはな。あれはピアノの曲だろう」
「それはお鶴さんが編曲を」
「アイツはそんな事も出来るのか?」
「ご存知なんですね、お鶴さんの腕前」
「ああ。あれは、何十年に1人って才能だろうさ。そうか、編曲なんかも出来るわけだな」
「音楽に対する適正がすげえ高いんでしょうね」
「となると、お前らの演奏が楽しみになってきた。完成はいつ頃だ?」
「7月末までには、全員で合わせた演奏も出来ると思いますが」
「そりゃいい。聴かせろ」
「了解です」
楽しみにしてる、と言いながら、新田教諭は胸ポケットから煙草を取り出しつつ屋上へ向かっていった。校内の完全分煙は喫煙者にはたまらないだろう、と思いながら、壱も音楽室へ。
「遅くなり」
「お帰り部長」
「お帰りなさー!」
「長かったね、随分」
「ちょいと新田先生とね。どうよ練習の方は?」
それぞれから進捗を聞くと、中々良いテンポで腕を挙げているようだった。若菜は自信無さげではあったが、ユキから言わせれば随分マシだとの事である。咲はそもそも才能には事欠かない奏者であるし、ユキ自身もまた経験の豊富さが幸いしているようだった。
「そっか。良い調子なわけね」
「先輩方は大丈夫なんですか?」
「言葉を慎め菱沼二等兵。我らを何と心得る」
「サー、失礼致しましたサー!」
「咲さんは面白いなぁ」
ノリよく返す咲の反射神経が愛しすぎて思わず頭を撫でると、後頭部に痛み。
未開封のマウスピース。その進路上には、背を向けた可奈子。
「鶴子?」
「誰、それ」
「も、物を投げちゃイカンよ?」
「手が、滑ったの」
「……そうスか」
振り返りもせずに言う様を畏怖しつつ、壱はマウスピースを彼女に手渡した。奪うように受け取り、フルートの手入れに戻る可奈子。
「こりゃ大変だわ」
「他人事だねユキちゃん」
「他人事だよ?」
「うん、他人事だよねえユキちゃん」
「鬼かお前ら」
可奈子の機嫌は戻らないまま、個人練習は再開された。
鍵を預かり、楽譜を預かり、戸締りの確認。他の部員は、全員既に下校した。
サックスを構え、ぼんやりとその作りを眺める。どういう行程を経ればこんな形になるのか、昔はいつも不思議に思っていた。
夕焼けが赤い。目に染みるような斜めの陽光は、明るさとは逆に壱の心を暗くする。
可奈子の書いた楽譜を、鞄から取り出してみる。丁寧な、プリントされたかのような音符の羅列は、規則正しく、時にあやふやに、奏者を導いている。聊かジャズの色が強いこの編曲を、壱はいたく気に入っていた。
だというのに、元吹奏楽部と思しき人々は、その邪魔をする。
勿論、相手の気持ちが解らないわけではない。むしろ、下らないと卑下こそしても、それはあって然るべき行為だと理解出来る。楽譜を盗むというのもその一環だし、ユキにも若菜も、良くない感情と共に向けられる視線は存在していた。
リードに口をつける。
ひとしきり、出来ている所までをなぞる。その後は、出鱈目と言っても良いような即興の連続。マリー・ゴールドは見る影も無く、しかし黒沢壱を乗せて低くも伸びやかな音色は木霊した。
溜息。
どうにかして、元吹奏楽部への返答を作らねばならないだろう。楽譜云々ではなく、直接的な行動に出て来られては、壱も大人しくしていられる自信が無かった。
ただ、その「答え」が如何に曖昧なものかも理解していた。そんな物はそもそも存在しないのである。鶴岡可奈子が気に入らず、今では復帰している彼女と、その吹奏楽部が、ただ目障りなだけだ。そういう感情で動いている集団を止める方法は、恐らく兄も持っていない。
「あら、まだ残ってるの?」
「あ、すいません」
苛立ちに再三溜息を吐いた頃、南教諭が顔を見せた。時計を見ると下校時刻を過ぎて長い。
「どうしたの、悩み事?」
「正に青春て感じですよね今の俺」
「夕日背負っちゃってるものねえ」
「大したこっちゃ無いっすよ」
「そう?」
「強いて言えば、世の中はままならない事ばっかだなと」
「深いわね」
言いながら、南教諭は壱の傍に腰を下ろした。教師として尊敬できるかは別として、壱はこの人の人格が、単純に好きである。以前の食事の時には無茶な事を口走りもしたが、そういう所を引き摺らないという点でもやはり大人の女性だった。
「世の中なんて、そんなものよ」
「寂しいですなぁ」
「別に悟り澄まして言うんじゃないけどね。結局、なるようにしか、ならないもの」
「先生いくつでしたっけ?」
「今年で28です」
「早いな諦めるの」
「結婚しろってうるさくってね、両親」
「うわー、聞きたくねえー」
「なんでよう」
怒ったような顔を作り、それから南教諭は笑う。
なるようにしかならない、というのは同意だが、その「なるよう」について同意出来ないのが人間であると、兄は笑いながら言っていた。
伸びをし、体を捻ると、骨の乾いた音が鳴り響く。
「今のままじゃ、皆が可哀相で」
「……そうね」
「俺はどうだっていいんですよ。転校生だし、そんなに影響は無い。けど、他の子らはね」
「うん」
「楽譜盗まれた話もそう。ああいう方法でしか鬱憤を晴らせないのも、可哀相ですし。そんなのに付き合わされる4人も可哀相です。なんとかなりませんかね?」
「集団で捉えると、どうしてもね。個人個人を説き伏せるなんて無理だわ」
「先生の台詞じゃないっすね」
「今はプライベートタイムだからいいの」
時計を指差し、南教諭は笑う。
「でもね。これだけは言っておくわ。私は仮にも、貴方達の顧問なのよ」
「……」
「だから何をするって事でもないけどね。私という顧問は、存外、便利な盾にくらいなるから。使える所で、使えばいいと思う」
「また自虐的なお言葉を」
「失望もあってね」
「元に?」
「可哀相だとも思うけど」
「大人は言葉を選ぶのが大変ですね」
「よっぽど君の方が大人だわ」
南教諭にも手に負えない状況ではあるが、それでも彼女は自分を盾にしろと言う。
こんなイビツな集団が、果たしてどこまでやれるものか。個々の良さを知り、評価する人間が、どの程度いるものか。新吹奏楽部を、誰が認めるのか。
問題を先送りするのは、結局の所自分の首を絞めることになる。とはいえ、壱には、現状をどうこう出来るプランなど浮かびはしなかった。
無言で夕焼けの中を南教諭と過ごし、どちらからともなく席を立つと、帰路についた。




