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「すごー!」
楽譜を見て真っ先に解り易いリアクションを見せたのは咲だった。
両手で掴み、顔から離すようにしながら絶叫である。
「鶴岡先輩すげー!」
「少し、うるさ」
「おまけに美少女! グレート! マーヴェラス! ファンタスティック! ジーザス!」
「……ジーザスは、違うと思」
「大好きー!」
「痛い」
散々好き放題に賛辞を述べ、おまけにハグまで決めてくる後輩を、可奈子はどう扱っていいのか解らない様子だった。
「咲さんは吹奏楽部最強だな」
「わたしも今そう思ったよ」
「鶴岡がああだからねぇ……」
溜息混じりに評する女子2名と肩を並べ、壱も咲のパワーに恐れ入っていた。体が弱いというのが本当に冗談なのではないかと思うほど、咲はよく喋りよく動く。
だが彼女が全身を使って絶賛する程に、可奈子の作り上げた楽譜は見事なものだった。
マリー・ゴールドはあくまでピアノソナタである。故に、ブラスアンサンブルへ編曲をするとなれば、どうしても削ったり追加をしたりしなければならない部分が存在し、そこは完全に可奈子のセンス任せとなっていたのだが、彼女はそれを期待以上の出来でやって見せた。良い演奏家が良い作曲家とは限らないが、可奈子の場合その方面への才能も優れているらしい。
「楡原康臣も喜ぶだろうね、これ見たら」
「有り得るな」
「気になってたんだけど、その人そんなに凄いの?」
楽譜を再度見直しし始める可奈子の髪で三つ編みを作り始めた咲を放置し、ユキは腕組みしながら問う。
「凄いっていうか、まあ有名ではないんだけどさ」
「そうだね。あんまり露出の多い人じゃないみたい」
「ふうん?」
「俺はジャズとかその辺が好みだから、名曲カバーとかやってる人だし必然的に耳にする機会が多いんだよね。それで、興味持ってイージーリスニングのコーナー探してみたら結構アルバム出てて」
「好きな人は本当に好き、ってタイプだよ」
「そうなんだ。今度CD貸してよ若菜」
「いいよ、いくつかアルバム持ってるし」
「エメラルドが良いんじゃないかね? 入門用には特に」
「あー、わたしあれ好き」
自分達の先輩の話題で盛り上がっていると、ふと視界の隅で可奈子が嘆息しているのが目に入った。気になって視線を送ると、気付いた彼女は首を振る。
話があると言っていたので、その時にでも聞けば良いかと思い直し、壱は手を挙げた。
「よし、そろそろ練習すっか」
号令1つで、部員は各々楽器を手に取り所定の場所へ。車座で、可奈子を始点に右回りへ咲、若菜、ユキ、壱となる。壱と若菜はユキの隣で低音をしっかり聴く必要があり、咲は可奈子と共に2本のフルートでメインを走る為の布陣だった。
尤も発表の場においてもこの状態ではいけないので、いずれ改善していく必要はあるだろう。とりあえず個人練習を重ねるべき今は、これでも良しとした。以前の学校でも、似たような構成で、似たような車座を作っていた事を、ぼんやりと思い出す。
「そんじゃ、吹けるところから吹いてみよっか。自由にどうぞ」
「はーい」
咲が元気に手を挙げて、個人練習は始まった。
おおよそ未曾有の音色の重なりだったが、それは非常に楽しいものだ、と壱は素直に思えた。
「窓閉めたー?」
「うん」
「準備室の鍵はー?」
「だいじょぶですよー」
「歯磨いたー?」
「はいはい」
「本当だなユッキー」
「絡みづらい振りを寄越すな」
「ごめんよ」
部活も終わり、夕方。徐々に日は伸びてきているものの、5時を回ると流石に薄暗い。
「そんじゃお疲れ。鍵は俺が」
「よろしく部長」
ユキが手を振りながら廊下へ出て行き、若菜と咲もそれに続く。ずっとフルートの手入れをしていた可奈子の方を見、壱は鍵をちょっと振って見せた。頷き、彼女も廊下へ。
「鍵は俺が行くから、お鶴さんは帰っていいよ」
「……話がある、って」
「そうだった」
「忘れてたの」
「冗談に決まってるじゃないか」
「面白くない」
「精進します……」
痛烈な言葉に苦笑いを返し、鍵を手の中で弄びながら職員室へ。なにやら会議に借り出されているとの事で南教諭は居なかったが、とりあえず所定の位置に音楽室の鍵をぶら下げておくだけはしておいた。
「で、話?」
昇降口へ向かい、靴を履き替えながら言うと、可奈子はちょっと考え込むような仕草をしてから、頷く。
「どんな?」
「楽譜に、ついて」
「手伝えって?」
「それも、ある。でも、問題は、これね」
鞄から、音楽室で見せた楽譜を取り出した。何が問題なのか解らずに首を傾げて返すと、可奈子は溜息混じりに続ける。
「盗まれた」
「……楽譜を?」
「そう」
「誰に」
「さあ」
「元吹奏楽部?」
「どう、かしら」
表情を変えずにあっさりと答える可奈子に、二の句が次げなくなった。
「どのぐらい盗まれた?」
「約半分」
「……なんてクソ下らない真似するかな」
「……」
「元吹奏楽部だろ、そんな頭の悪い事するのは」
可奈子が興味深げに壱を見上げてきた事で、知らず低い声になっていた事に気付いた。
咳払いをしながら、校庭へ。可奈子も少し後ろをついてくるので、歩調を緩めた。
「お鶴さんのクラスには、元吹奏楽部が多いんだってね」
「そうね」
「居辛いんじゃない?」
「そんなの、今に始まった事だと?」
「……それとは、別にさ」
校門を通り、殆ど人の居ない通学路へ出ると、可奈子はどういう意味だ、とばかりに壱を斜めに見上げてくる。
「こういう事を直接言って良いものかどうかとは思うんだけどね」
「何」
「お鶴さん、男が苦手だろ」
「……誰から」
「勘」
「保健室の?」
「勘だって。ああいう人が、お鶴さんの個人的な事を語るわけないじゃない」
嘘だったが、御堂教諭との信頼関係を崩さない為には必要だろうと考えたので、伏せておく。
「まあ、何故か俺は平気みたいだけど」
「べつに……」
「それはいいんだ。今日倒れたのも、それと無関係じゃないんじゃ?」
「どうして」
「楽譜が盗まれた。犯人の目処くらい、お鶴さんなら立てられる。その相手が、男だったとしたら?」
「……」
「詰め寄る君に、もしそいつが犯人でなければ頭にくるし、犯人でもしらばっくれるぐらいはするだろう。そうすると、もう泥沼だね。そのうち、何かの拍子に、腕や体を捕まれたとしたら?」
今になって思いついた事ではあるが、多分筋は通るだろうと壱は見た。
可奈子は溜息を吐いて自分の腕を抱くようにしながら、足を止める。
「黒沢君は。何か、違うわ」
「というと」
「ハッキリとした事は、言えないけど。私は、貴方に、触っても平気だから」
「みたいだねぇ」
そこまで言ってから、可奈子は鞄から腕時計を取り出した。彼女のような女性が着けるには、聊か形が無骨で、何よりバンドが緩すぎる。誰かからの貰い物なのだろう。
時間を確認してから、可奈子はまた溜息。
「前に、私がフルートを始めた、理由を聞いたわね」
「うん」
「まだ、知りたい?」
「……教えてくれるのか」
「大した事では、ないけど。付き合って」
言うが早いか、可奈子は元来た道を戻る。遅れて壱も続き、少し歩くと、以前可奈子が逃げるように駆け込んだ公園へと辿り着いた。
「好きなのかな、ここ?」
「静かだから、ね」
確かに人が寄り付きそうな公園ではない。遊具は無いし、別段手入れがされているわけでもない様子の茂みに囲まれた、ただの小さな広場と言った方が良いだろう。
その隅に置かれた、あまり綺麗ではないベンチに、可奈子は腰掛けた。どうしようかと思っていると、彼女に見上げながら座れば、と促される。
隣に腰を下ろした。可奈子は足を揺らしながらぼんやりと園内を見渡す。
「で、どんな理由で?」
そう壱が切り込むと、可奈子はゆっくりと顔を向け、口を開いた。
「その前に。黒沢君も、サックスをするしか、なかったって」
「……ああ、言ったね」
「どうして」
「言葉通りの意味だよ。俺はサックスをやってないと死んじゃう」
「真面目に、聞いてるわ」
「真面目に答えてる。サックスをやってなきゃ、多分鉄格子のついた病院に入れられてるよ」
「……それは、心の?」
「……そうだねえ」
どこまで話そうか考えながら、壱は続ける。
「俺は頭が悪いんだ。普段は物事をよく見るように教わった甲斐もあって、それなりに社会性を保っていられる自信もあるけどね。ちょっとした事で、二元論でしか語れなくなる状態に陥る」
「二元論?」
「ゼロイチっていうかさ。俺にとって、目の前にある物、人、時間、現象は、有害か無害か? それに尽きるようになっちゃう」
「どうして?」
「うーん……その辺は割愛してもいい?」
語っているうちに、正気でなくなるような気がした。
可奈子はじっと壱の目を覗き込み、それから頷く。
「有難う。まあ、ともあれそういう極端な物の考え方を、根本的に持ってるわけで。そうならない為に、父親がパッチとして与えたのが楽器だったわけだ」
「……」
「俺にとって、楽器はそういう意味でもあるし、勿論楽しい趣味の1つでもある。でもね、やっぱ根っこの方を見れば、やるしかなかったからやった物ではあるのさ」
「無かったら、どうなってた?」
「会う事もなかったろうね、俺らは」
「……そう」
幼少期の壱にとって、楽器という「言語を必要としない表現方法」は、何よりも尊く、絶対的な物として地位を確立した。そもそも今のように、喋ったり冗談を口にするのが得意ではなかった壱にとって、この無条件に表現が効く言語こと「音楽」は、人生というルートの中央を歩く為に、必要不可欠な道具である。
「お鶴さんは、どうしてフルートを?」
「……少し、長く話すけど」
「喜んで」
「喋るのも、苦手で」
「ゆっくり頼むよ」
何故かは解らないが、御堂教諭の言葉を借りれば可奈子は壱を「認めて」いるらしい。
語ろうとする言葉に耳を傾け、壱は可奈子が口を開くのを、じっと待った。
「時間が、必要だった」
ぽつりと切り出した可奈子は、そんな言葉から話し始めた。
「私には、自由になる時間が、無い。家に帰れば、朝までね」
「どういう意味?」
「言葉の通り。私は、鶴岡の家では、指示の下でしか、動く事を許されない」
「……それはまた。軍隊のような」
「そうね。軍隊のほうが、マシかも知れないけど」
「で、それはお鶴さんにとってどんな時間?」
「特に意味は、無いわ。ただ、痛みに耐えるだけの」
「……」
「血や、傷跡に嫌悪を?」
「どうだろう。どうして?」
少し考えるような間を置いてから、可奈子はブラウスのリボンを引っ張り、ボタンを3つ程外した。どうするつもりかと呆気に取られていると、肩をぐっと肌蹴て見せる。
白磁のような、という陳腐な言葉では表現できないような、白い肌を彼女は持っているが、首の付け根から右肩までの間に、それを汚すような痣が点々と落ちていた。
血の気が引く。
嫌悪は無いが、例えば名画にスプレーアートをされているのを目の当たりにしたような、信じられない光景を見せられているような気になった。頭が重くなり、呼吸が曖昧になる。
壱の顔を確認すると、可奈子はちょっと目を丸くして、すぐに服を整える。
「大丈夫?」
「……ああ、大丈夫。いやごめんね、こんなサービスカットに嬌声の1つもあげられず」
ふざけたように取り繕って見せたが、可奈子は意に介さないようにもう1度大丈夫か、と問うた。
首を振って、それから大丈夫だと返すと、頷き、前を向く。
「父は私を殴る。手で、物で。足蹴にも、する。家では、その時間を経てから、眠るのが日課」
所謂「虐待」というやつだ。
足を組み、壱は黙って先を促す。可奈子は言葉を捜すようにしながら溜息を挟んで、続けた。
「私は、貰われた子だから」
「……」
貰われた子。
つまり、里子に出されたか、保護されたかのどちらかだ。言葉の意味を考えると「保護された」というのは彼女の現状を鑑みるに使い辛い言葉ではあったが、事実としてはそうなる。
この子は。
彼女が自分にだけは触れられる理由も、少しだけ壱には見えるような気がしてきた。これだけ似通った条件があるなら、何も不思議な事は無いのかも知れない。
「本当の両親の、顔も名前も、知らない。でも、物心ついた頃から、そうされたから、そんなに、辛くはない。それでも、家の人は、放っておかなかった」
「家の人」
「姉が居るわ。フルートは、姉から譲り受けた。手入れの仕方から、基礎、技術まで、全てを、姉が教えてくれたの」
「お姉さんが居るのか」
可奈子の境遇にとって、それは心強いだろう、と安心した。安心してから、それがどんなに軽率な事であるかを、壱は思い出した。家庭内暴力がそんな要素で解決するほど、甘い問題ではないという事は、よく知っているのである。
「私はその姉から、フルートを、教わった。そうして、小学校からは、吹奏楽部に入れ、と言われたわ。部活に、行っている間は、私は自由だから」
フルートをやるしかなかった。
要するに、部活動という枠に入り、可奈子に少しでも長く父親と離れている時間を作ってやろうというのが、彼女の姉の思惑だったのだろう。
「黒沢君は、サックスが、好きね」
「ん? ああ、勿論」
「私も、フルートが好き。こんな体でも、楽器は、ちゃんと答えてくれる」
「それは、嬉しいな。フルートが好き、か。うん、いいことだ」
「……どうして?」
「吹奏楽部が君に無理矢理フルートをやらせてるよりいいじゃない。君はフルートが好き、俺たちは君のフルートが好き。良い関係だと思うけど」
「変ね」
「そうかねえ」
苦笑いをすると、可奈子もふっと小さく笑った。楽しいという感情から、彼女が笑うのを見るのは初めてかもしれない。
「吹奏楽部は、だから、私にとっては、理由だった。踊りでも、スポーツでも、料理でも、良かったの」
「そう言ってたね」
「でもね。私は、フルートが好き。最初に、ホルンをやったとしても、フルートを、選んだと思うくらい」
いつになく、可奈子からの言葉に感情や熱を感じた。
何もかも見放したような態度や言動の多い彼女をして、これだけ喋らせる音楽の存在は、偉大だと壱は強く思う。
そして同時に、彼女がフルートに対して決して譲りきれない衝動を持っている事が、単純に嬉しかった。そういう点だけを取れば、自分と同じなのである。
それにしても、と考え、壱は腕を組み、問う。
「これは、答えてくれなくても良いんだけど」
「気弱ね」
「だってお鶴さん怖いもん」
「……」
「え、えーとね? いや、そいう君が、どうしてコンクールに現れなかったのかなって」
音楽が好き。フルートが好き。
吹奏楽部は理由だ、と言ったが、彼女としてもフルートを合奏に合わせて吹くというのは楽しい事の筈だ。まして、ソロを拝命していた身ならば、やる気も起こるというものではないのか。
「今の吹奏楽部の現状は、元を正せばそこだ。君の、ぶっちゃけドタキャンが原因だよね」
「そうね」
「どうしてそんな事を? 不可解でしょうがない」
壱がそこまで言うと、可奈子は大きく長い溜息を吐いた。空を睨み、指を組んで、言う。
「コンクールの日」
「……」
「姉が、病院へ運ばれた」
「……その、フルートを教えてくれた人が」
「そう。以前から、ノイローゼ気味だった事も、あってね。ストレス性の、自律神経失調症を、引き起こした。食事も、ろくに取れなくなって、言葉も、怪しくなった。綺麗だった髪は、殆ど抜けて、見る影も、無くなったわ」
途切れ途切れに、何かを殴りつけるような可奈子らしくない強い口ぶりは、壱に思わず息を呑ませる。
「3度、流産をしてね。ノイローゼは、そこから始まった。病院に着いた時には、もう心はどこかへ、やってしまっていて、以来私を認識することも、なくて」
「それで、コンクールを欠席したのか」
「勿論、連絡の1つも、入れる事は出来た。でも、そうはしたくなかった。迷惑がかかるとも、思ってた」
「だったら」
「私はね」
壱の返しを遮るように、可奈子は音も無く立ち上がり、鞄を手にとって振り返る。
「フルートと、同じくらい、姉さんが好きだった」
「……」
「あの人の無様を、どうして、人に語れるの?」
例えば、全てを語らずに「身内が倒れたから」というような事だけでも連絡すれば良かった筈だ。だが、可奈子はその選択肢を選ばなかった。判断だけを見れば、完全に彼女の落ち度である。
だが、壱にはなんとなくそうした彼女の気持ちが、解るような気がした。
フルートを、技術と共に授けた人。そういう人物が、入院し、無識のようになってしまった現実を受け止めるだけでも、手一杯だっただろう。増して、可奈子を暴力から、少しだけでも救おうとしてくれた存在である。彼女のショックは、取り分け大きかったという事だ。
「私を、フルートを、褒めてくれる人は、もう居ない。居るけれど、「私たちの方」には、居ない」
「それは、悲観的過ぎないかな? いつかは」
「黒沢君。そういうのは、無責任って、言うのよ」
「……そうだね。ごめん」
嘲笑気味に言う可奈子の表情は、どこまでも暗い。
例えば自分の家族が同じような状態に陥ったら、と考えると、壱は身震いする。思いつきで、慰めめいた事は言うべきではないのだ。
「理由は、そんな所。同情を、引くつもりはないわ。黒沢君は、そんな事、しないと思うけど、一応」
「まあ、同情はしないね。しても無駄だし、お鶴さんは嬉しくないだろ」
「だから、貴方には、話してみようと、思ったの」
「それは光栄だ」
「そう」
唐突な、強い風。
ざあ、と木々がゆらめき、可奈子の髪とスカートが靡いた。可奈子は風上を見やり、それから鞄を持ち直す。
「帰る」
「……」
「同情は、しないんでしょう」
「そうだった」
「もう、慣れたわ」
「どうだろうね、それも」
「言えてるかもね」
最後に、また暗い顔で笑って、可奈子は背を向けた。
彼女の境遇に、やはり同情はしないのだが、それでも壱は特別な思い入れを傾けざるを得なかった。




