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「ここ」
「おー、これは、中々」
「でしょ。さ、入ろうか」
南教諭の案内で、やや郊外に位置するレストランを訪れた。「南先生を自由に出来る権」の発動である。飯でも奢ってくれと頼んだ壱の為に選んでくれたのが、ここだった。
大人しい、北欧風の外装は今流行りといった雰囲気だが、中に入ると一転、悪く言ってしまえば古く臭い内装に彩られている。ともすればうらぶれたような印象を受けがちだが、調度品の類が丁寧に手入れをされており、店主であろう人物の拘りや美感が伝わった。
真っ白なクロスのかけられた猫足のテーブルを挟んで座る。南教諭も普段の着まわしスーツではなく、落ち着いたオフホワイトのドレスシャツにネックストール、黒いスラックスにラメの入ったミュールと、年齢相応の格好だった。こうして見ると、教職者だとは思えない。
伏せてあったグラスを立て、音もなく水を注ぎ、去っていくウェイター。
「黒沢君、一杯飲む?」
「アンタ教え子の前で飲む気か」
「いいじゃない。今はプライベートだし」
「……じゃあ、一杯だけ」
「退学」
「え、なんて?」
「冗談よ」
笑いながら、南教諭は人を呼ぶと、何やら長ったらしい名前のワインを頼む。整った所作でそれを受け、再び去っていくウェイター。
「中々洗練されてますね」
「楠台に置いとくには勿体無いお店」
「料理の方は?」
「私の中では5つ星。コースだから、直に来るわ」
「楽しみっすね」
言いながら壱がジャケットを脱ごうとすると、再び音もなく近寄るウェイター。先ほどから隠密行動が過ぎる。
おっかなびっくり預ける様を、南教諭は頬杖をついて見守る。
「こういう所殆ど来ないもので」
「そうみたいね。いいのよ別に緊張なんてしないで。テーブルマナーも守らなくていいんだから」
「そうさせてもらいます」
程なくしてワインが注がれ、静かにチーズ。酒の良し悪しが解る程よく飲むわけではないが、このワインは美味いと言う他無い。
「美味しい?」
「ええ。ワインって苦手なんですけどね」
「私もそうなんだけどこれは美味しく飲めるのよ」
「にしても、高いんじゃないんですか、ここ?」
「黒沢君はそんな事気にしないでいいの」
笑って、南教諭は椅子に座りなおし、頭を小さく下げた。
「有難う。貴方のお陰だわ」
「え……ああ。吹奏楽部ですか?」
「絶望的だったもの。廃部になるのが先か、部員が復帰するのが先か。後者は殆ど見込めなかったから、黒沢君の存在を聞いた時、これが光明ってヤツだなと思ったわ」
「そんな大袈裟な。俺は別に何もしてないんですって。ユッキーも若菜嬢もお鶴さんも咲さんも、皆自分の意思であそこに居る」
「でもね、切欠とかって大切でしょ。黒沢君の一言が、大した事は無くても絶対的な理由になってると思う」
「なら光栄ですけどね」
肩を竦めると、南教諭は楽しそうに笑った。学校でも微笑む彼女を見るが、流石にこういう場所になると、その表情にもくだけたものがよく見えた。教師というのも、存外大変な仕事なのだろうなと思う。
スープが運ばれ、前菜が終わった頃、店内の明かりが少しばかり落ちた。
何かと思っていると、テーブルランプにウェイターが1つ1つ火を灯していく。
「いい趣味ですね」
「これが好きで、少し遅くに来たのよ」
オードブルが続き、その味に驚く壱を見ながら、南教諭はやはり嬉しそうに微笑みながら、食事をする。
教師というより、殆ど保護者といった印象だった。
「美味しかったです。ご馳走様」
「喜んでもらえてよかった。もう一杯どう?」
「俺を酔わせてどうするつもりだ頂きます」
「ホント面白いなぁ君は」
酒の所為か、口ぶりもラフになりつつある南教諭に恐悦とばかりに頭を下げながら、注がれたワインに口を付ける。時折空調に煽られてか、ゆれるテーブルランプが、彼女の表情に翳りを作った。
「何かあったんすか?」
「……ちょっとねえ」
「言ってみなさい。おじさんが相手になろう」
「本当?」
「あ、金の相談は無理ですよ。場合によってはここからも走って逃げます」
「あはは、そんなじゃないわ」
手を振り、前髪を後ろへ流しながら、南教諭は笑った。
待つこと数分。店内を流れるクラシックが、間を埋めてくれた。
「少しね。自信をなくしたっていうか、ガッカリしたっていうか」
「というと?」
「元吹奏楽部の子達が、ね」
「ああ」
南教諭の耳にも入っているらしい。
それで、何故行動を起こさないのかとは問わなかった。教師だから顧問だからといって、出来る事出来ない事は当然存在する。
「気になりますか」
「勿論。皆本当に良い子だったし、だから残念。気持ちが解らないわけじゃないけど、あんなつまらない真似するくらいなら、戻ってくれば良いのに」
「それが出来ないから、やってる事でしょう」
「それも、解る。でもね、これはもう顧問とか関係無く、迷惑だし、人としてどうかと思う行為でもあるのよ」
自分に言う事ではないと思ったが、壱は黙って頷いた。見た限り、南教諭と年齢の近い同僚も居ない楠白においては、何かと鬱憤も溜まる事だろう。それを吐き出す口として自分が居るのだとすれば、悪い気は全くしなかった。
「黒沢君はどう?」
「俺のほうには、何も。若菜嬢は参ってますね。ユッキーは別段気にした様子はありません」
「……鶴岡さんは?」
「本人は何も語らずです。咲さんは?」
「あの子は1年生だって事もあるけど、元々そういうのを意識しないタイプだから」
「まあ、言ってみても仕方の無い事でしょう。先生の言うように、俺にも元部員の気持ちは理解に苦しむものではないですし。道義的にどうかって問題はありますけどね」
「なんとか出来ないかなと思うのよ。お陰でお酒の量が増える増える」
「飲みすぎはマジ駄目ですよー。先生がここでぶっ倒れでもしたら、それこそ吹奏楽部は背骨を失う事になるんですから」
「そうかしら。私なんて居なくたって皆しっかりしてるし……」
「いやそんないじけないで下さいよ……」
「いいのよ。どうせ先生はみんなのお荷物だから」
「アンタ飲むと絡むのな」
「何よう」
座り始めている目で凄まれ、壱は飲酒中の南教諭には極力関わるまいと心に決めた。
再び沈黙。南教諭のペースは速い。
「飲みますね」
「明日も休みだからね。嬉しいわ、連休」
「連休にかこつけて飲んだくれて生徒にくだまいて最高だな」
「今日の黒沢君は棘がある……」
「先生が駄目すぎるんです」
「ふふ」
呆れたように言う壱に、何が可笑しいのか南教諭は笑い返す。
暫く、お互いに意図的に吹奏楽部の話を避けて、雑談を続けた。音楽的な事も、極力口にしなかった。壱はともかく、南教諭が嫌がっているような雰囲気があったからである。オフの時くらいは、そういうものだろうとも思う。
「そろそろ、行こうか?」
「行きますか」
「今日は、ありがとね」
「とんでもない。ご馳走様でした本当に」
「また、機会があったら付き合ってくれる?」
「喜んで」
「有難う」
疲れを滲ませた微笑で、南教諭はぺこりと頭を下げた。
教師としてどうかは別としても、人間的に好きなタイプではあると壱は思う。むしろ、教師としての側面が強く自覚としてあれば、こうも内面を曝け出したりはしないだろう。そういう点で、信用しやすいし付き合い易い人物でもある。
会計を済ませ、外へ。バス停までを黙って歩き、誰も居ないベンチに並んで座る。壱はここから歩いて帰るが、南教諭はバスを使わないと聊か遠いという。
5月とはいえ夜中ともなると、流石に風が冷たい。ポケットに手を入れ、壱はそっと息を吐き、微かに白くなっていく様をぼんやりと眺めた。
「ねえ、黒沢君」
「はい?」
「怒らないで、聞いて欲しいんだけど」
「事と次第により」
「怒らないって約束してくれなきゃやだ」
「ホントに酔ってるんですね貴女……」
「いいから。怒らない?」
「あーはいはい」
面倒くさそうに壱が返すと、南教諭は背もたれに預けていた体を起こし、じっと横から顔を覗き込む。視線が気になって壱が目を合わすと、酒の所為か潤んだ瞳がとかち合った。
「君が、こっちに来た理由」
「……」
「本当は何?」
まさかここで、それについて問われるとは思わなかった。意図せず身が固くなる。
「ただ楡原康臣の為だけに、転校までするのは、少し不自然かなと思って」
「そうですか」
「……ご家庭の事が?」
「俺の家族をそういう風にお疑いですか?」
「そ、そういうんじゃ、ないけど」
「もしそうなら、10秒あげますから走って逃げてください。すげえ殴りそうです」
無意識に、低い声が出ていた。南教諭の顔が強張る。
「……ごめんなさい。軽率だったわね」
「……いや、失礼しました」
肩を縮めて畏まる南教諭に、頭を下げる。
奥歯を噛み締め、瞬時に感情的になった自分を戒めた。家族について、悪評を語るのだけは許せない。南教諭のようなタイプがそんな意図を以って話を振ってきたのではないと解ってはいたのだが、反射的にこんな言葉が出てしまう。
「そっか、先生は俺の家族構成がどうとか、見られた立場ですもんね」
「……」
「いや責めてるわけじゃないです。先生が知ってるのなら、それで良いと思いますし。確かに、所謂養子ではありますけど、俺の両親も、兄弟も、本当に俺を愛してくれてます」
物心ついて間もない頃に、拾われた。
正確には、非嫡出時扱いをされていた所で保護されたのが、黒沢壱である。
「そう」
「ああいう父が居て、母が居て、兄が居て妹が居るっていうのが、俺の最大の自慢なので。そこに迂闊な事言われちゃうとまあ、なんというか。キレる若者を体現してしまうわけで」
「うん」
「他にも色々あるんですけどね。とりあえず俺が黒沢壱である理由と、こっちに来た理由は、ちょっとだけ繋がります。とりあえず、今はそれだけ」
「ありがとう」
よく礼を言われる日だ、と思った。
乗用車が法廷速度を破って、車道を駆け抜けていく。風が巻き起こり、靡く髪を、南教諭は神経質そうに押さえて整えた。
「私ね、人を見る目はある方なのよ」
「ふむ」
「高校生の頃、友達が自殺してね。その1週間くらい前から、何か様子が変だなとは思ってたのよ、誰も取り合ってはくれなかったけど。でも結局その子はやっぱり悩みを抱えてて、それで死ぬ事を選んだ」
「……」
「目は口ほどに物を語るのよ。教師をやってまだまだ短いけど、生徒にそういう目をしてる子が居ないかどうか、いつも気になっててね。それで、こういう機会でもあるし、黒沢君の事を聞かせてもらえたらなって。その、自殺をした友達だって、ひょっとしたら救えたかも知れないと今でも思えば、ね」
「自殺しそうですか、俺?」
「まさか。でも、黒沢君の目は、そうね。少し遠くにあるかな。黒沢君は現場に居るけど、その現場を把握してる黒沢君はもっと後ろに居るっていうか。無関心とかじゃなくて、敢えて距離を取って物事に当たってる印象かな」
「……成る程」
随分と明け透けに侮ってきた感はあるが、流石と壱は感じた。南教諭の印象は、多分大筋で正しい。
「あとは、フラれたからね、私」
「は?」
「先週」
「超ホヤホヤな話じゃないっすか」
「もうショックでね……慰めて欲しいのよ」
「このシリアスとアホの緩急はプロの技だな」
「うち来る?」
「何その凄い誘惑」
「いいわよ、来ても。明日特に予定無いんでしょ? 何があっても、週があけたら忘れるし」
前を向いたままそんな言葉を並べる南教諭がどこまで本気なのかは解らないが、壱は笑って首を振った。
「遠慮します」
「そんなに魅力無い?」
「そんな事無いですよ。でもこういう風に求められるのは苦手で」
「……こういう経験あるの?」
「同一の経験ではないですけど、ケースとしてなら。埋めてくれ、って事でしょ、これは」
「達観してるんだ」
「老いてるんです」
「その歳でそれじゃ、寂しい事ね」
「全く」
ヘッドライトが眩しい、と思って通りを見通すと、バスがやってきたのが解った。壱が立ち上がると、南教諭もそれに気付いたらしく、倣う。
「今日は本当、ご馳走様でした」
「ううん。黒沢君みたいなタイプは中々居ないから、勉強になった」
「そうですか」
「で、来ないの?」
「まだ言うのか。生徒が退学教師が免職になるかも知れんというのに」
「それが難題よねぇ……」
大きなエンジン音を響かせて、バスが止まった。ぱらぱらと降りる人々とすれ違いながら、南教諭はタラップを上りかけ、振り向いた。
「……お願い、って言ったら?」
「今かなりぐらつきましたが、血の涙を流して遠慮します」
「ありがと」
また最後に礼と微笑みを残して、南教諭はバスへ乗り込んだ。赤いテールランプを見送り、ジャケットの前を寄り合わせ、溜息混じりに壱は家路についた。




