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保健室へ、と主張する壱と、別に良いと主張する可奈子のやり取りは平行線のまま、学校に到着してしまった。このまま帰ってしまうのも手段の1つではあるが、壱としては縮まっているこの距離を、もう少し活用出来ればと思う。
活用と表現すると少し嫌な気持ちになるが、可奈子がもし本当に自分に類する人間なのだとしたら、こういう機会は決して多くない。
「横になるだけだからさ。俺を安心させると思って」
「そんな義理、無いでしょ」
「そう言わずにさ。俺が居なくなったら、さっさと帰ってくれちゃっても別に良いし」
長い溜息を吐いて、可奈子は不承不承頷いた。
保健室に辿り着き、ノックを2つ。すぐに入れ、という真上からの物言いが返ってきた。
「失礼します」
「はいよ。なんだ、鶴岡か」
「……」
「ほら」
鳴れた手つきで体温計を取り出すと、可奈子に向かって差し向けるのは、三十路数歩手前といった様子の、男らしい女性。白衣を着ていなければ保健医とは解らないかも知れない。
可奈子は再び溜息を吐いて、体温計を受け取った。ちょっと壱を見、それからパーティションの奥へ消える。
「アンタは?」
「俺は正常です」
「そうか、薬だな」
「ちゃんと聞いてくださいよ……」
「自分がまともだと言うヤツ程おかしいのは居ないよ」
「うわあ、超正しい」
「で、何者かって聞いてるんだ。もう6時間目は始まってるぞ」
「ああ失礼しました。黒沢壱です。今学期から転校してきました。今から授業に行っても邪魔になりそうなんでかくまって下さい」
「それはいいが、転校生?」
「ええ、何か」
ちょっと頭を下げながら自己紹介をすると、保健医は目を丸くした。何かと思っていると、軽薄なアラーム音と共に、可奈子がパーティションから出てくる。
「うん、熱は無いね。良かったよ。とりあえず、寝ていくんだろ?」
「別に、いいです」
「と、言ってるが黒沢?」
「お鶴さんや」
壱が苦笑いをすると、負けじと視線を返しながら、しかし可奈子は再三の溜息と共にベッドへと消えていった。制服の皺を気にしながら、最適なポジションを獲得しようともがく様は巣作りをする小動物である。
程なくして、寝息が微かに聞こえてくるのが解った。やはり、人間がああいう状態になって、疲労を感じない筈が無いのだと思う。
保健医は可奈子の眠りを確認するようにそっとベッドを覗き込んで、それから椅子に戻る。
「何か飲むか? 珈琲しか無いけどな」
「頂きます」
「待ってろ」
小声での提案に乗ると、保健医は楽しげに準備をする。趣味なのかも知れない。
すぐに出てきた珈琲は、見事な味だった。少なくとも店で売っているような珈琲からでは、こういう味は出せないだろう。
「美味しいですねえ」
「そうか、気に入ってもらえて何よりだ」
「お鶴……鶴岡さんはよく保健室に来るそうで」
「そうだね。常連だよ」
「体弱いんですかね?」
「そういうんじゃないな。何とは言えないが」
「ふむ」
「しかし、転校生だって?」
「そうですが」
「見事なもんだな。あの鶴岡をこうも垂らし込むとは」
「なんて言い方するんですか貴女」
「事実だろう。ああいう性格の子だ。中々難しい」
言いながら、保健医はちょっとベッドの方を見る。
「私はカウンセラーの資格もあるし、見ての通り保健医だ。おまけにお前らより年上ときてる。だから、色々と相談にのってやりたい気持ちはあるんだ」
「心強い限りで」
「ただまあ、エスパーじゃないんでね。何も語ろうとしないあいつについては、気を揉むばかりだ。どうにかしろ」
「んな無茶な……」
長い足を伸ばして壱の脛を蹴飛ばしながら、保健医は笑う。
底知れない人だ、と思った。この学校はそんな教師ばかりかとも思ったが、顧問は該当しないかとも修正しておく。
「ま、期待しても良さそうだ」
「は?」
「お前が、鶴岡に絡んでくれれば、いつかは私の方にも何か言ってくれるかも知れないだろ」
「成る程」
「頼むよ」
「微妙っすね」
「何を言う。いや、正直な話」
小さな声をさらに落としながら、保健医は溜息混じりに続けた。
「あの子はね。少し、心をやってるから」
「……」
「だから、お前みたいに、あの子が「選ぶ」のを待つしかなかった。理解し辛いかも知れないが、こういう心の病というのは、得てして選り好みが激しい。鶴岡がお前の何を気に入ったのかは解らないが、少なくとも嫌われてはいないと見て良いよ」
ちょっと微笑み、頼もしげに壱を見やる保健医。
あの、公園で腕を叩くという仕草が何かは全く解らないが、或いはそれが可奈子なりの許容なのかも知れないとも思う。そうであるなら、光栄だと思った。同種であるなら尚更だ。
「嬉しい話ですね」
「だろう。しかしなんでお前は鶴岡にちょっかいを出すんだ? クラスが一緒なのか」
「いえ、吹奏楽部なんですよ、俺」
「……まだ、あったのか。吹奏楽部は」
「失敬な。部長ですよボカァ」
「まあ、そうだろうな。廃部寸前だったろう。教頭やなにかは宣伝になるからと残したがってたが、流石に人が居なかったしな」
「ご存知なんですね、吹奏楽部の顛末」
「4年目だよ、私は。鶴岡の立場も知ってるつもりだ」
「でまあ、とりあえず俺が入る事で、お鶴さん含め5人になったんですよ。でもちょっと乗り気じゃないものですから、一緒にやろうぜと口説きまくってたまでです」
「ふぅん……しつこさの勝利かな?」
「だとすりゃ、やった甲斐はありますが」
ちょっと何かを考えるような仕草をし、保健医は頷いて壱を見据える。
じっと合う視線は、試されているようで、しかし不愉快ではなかった。これからお前に信頼を乗せる、という意思表示のように見えたからである。
「男性恐怖症だ、あれは」
「……」
「何か思い当たる事が?」
「腕を、何度か叩かれました。確認するように」
「そりゃすごい。お前、もう完全に鶴岡に認められてるよ」
嬉しそうに、保健医は笑って手を叩いた。それから、思い出したようにベッドの方を見て、苦笑い。
男性恐怖症。
その名の通り、男に対して恐怖心を抱くものである。その程度は広く、会話が多少苦手な程度の患者も居れば、触れられるだけで体調を崩す者も居る、と説明をされた。
「鶴岡は結構な重度でな。それでもお前に触ったって事は、大した進歩なんだ」
「はあ」
「なんだ、誇れ」
「うーん」
だとすれば、校舎から逃げるように走っていった可奈子というのは、或いはその症状が出たという事になるのか。
昼休みに彼女を見かけた時の事をなるべく細かく話すと、1つ1つ頷きながら保健医は聞き、そして舌打をしてみせた。
「多分、お前の想像は正しいんじゃないかね。鶴岡は、別に体が弱いわけじゃない。ただ、極度に男に対して嫌悪感を持ってるってだけだ。結果的に、それが体調不良に繋がるだけで」
「嫌悪感」
「或いは憧れから恐怖症を発症する事もあるが、あの子はそうじゃない。何が理由かはともかく、同じクラスに男子生徒が居るだけでも辛かろうさ」
それを考えると、初期にやたらと接近を試みていた壱の存在は恐怖以外の何物でもなかっただろう。内心、謝っておく。
「それに準ずる事が、あったと見て良い。お前が駆けつけたっていうのは、結果的に鶴岡にとっては喜ばしい事だったと思うよ」
がさつな物言いの多い保健医だったが、こういう言葉の選び方は、流石と思わせる所があった。可奈子に対して申し訳ないと思うよりも、彼女の助けになるように動けばいいのだ、と壱は思う。それが、吹奏楽部や自分自身への助けにもなり得るのだとすれば、そんなにお得な事は無いのである。
チャイムが鳴った。結局午後の授業は完全にサボってしまった事になる。
「時間だな。ホームルームには顔出して来い」
「はい、じゃあお鶴さんをお願いします先生」
「先生ってのはあんまり好きじゃない。御堂さんと呼んどけ」
「了解しました御堂さん」
「ん。終わったら、迎えに来いよ」
尊大に胸をそらせて、早く行けと手を振る御堂教諭に頭を下げて、教室へ戻った。
既に新田教諭は去った後らしく、幾人かの生徒は帰宅してしまったのか数もまばらになってきている。
「あ、黒沢君。どこ行ってたのよアンタ」
「いやちょいとヤボ用が」
「俺は外食説を推したんだが、臼井は帰宅説を推した。さあどっちだ?」
ユキと龍一が一斉に声をかけてくるのに笑い返しつつ、自分の荷物を壱はまとめる。
「正解は散歩」
「……ほんと解らないわ、黒沢君は。なんかこう、天才とかってそういうモノなの?」
「天才言うな、そんな凄い物じゃない」
「あれだけの演奏をして?」
「なんだ臼井、転校生は天才サキソフォニストあったのか」
「凄かったわよ、先日聴いたばっかだったけど」
「やめろよう、褒めるなよう」
両腕を振り回して嫌がる壱に笑い返しながら、とりあえず先に行くから、とユキは鞄を掴んで出て行った。壱が戻るのを、どうも待っていてくれたらしい。
「じゃ、俺も帰る」
「そういや龍ちゃんは帰宅部だよね」
「色々忙しいんだ」
「例えば?」
「例えば今日は女の所へ行く」
「このッ!」
「あたるものか!」
「解った! お前は生きていてはいけない人間なんだ!」
「人の私生活にずかずかと俗物め!」
「よし、お疲れ」
「うん」
小さくハイタッチを交わし、保健室へ戻る。ノックを2つ程すると、中がちょっと騒がしくなり、それから入れという返事。
「しつれーします」
「お疲れさん」
「お鶴さんは」
「起きたよ」
顎を上げて言う御堂教諭の指す方向で、可奈子は背を向けてブラウスを寄り合わせていた。終わると振り返り、壱をちょっと見てから無視するように窓の外へ見やった。
「よし、帰るなら帰れ。黒沢、後は任す」
「えぇー」
「もう私の仕事は終わった」
時計を指差し、白衣を放り投げ、御堂教諭は日報と私物を脇に抱える。切り替えの早い人だった。
押し出されるように可奈子と共に揃って廊下へ。さっさと職員室へ行ってしまう御堂教諭を見送ると、自然2人だけでぼんやりと立ち尽くす事になる。
「えーと」
「……」
「ぐ、具合は?」
「最初から、悪くない」
「そ、そうですよね」
「……行かないの、部活」
「あ、うん。行くけど」
「鞄を、取ってくるから。行ってて」
気恥ずかしそうに、可奈子は殊更小さな声で言った。呆気に取られたような気分になり、それから喜びで壱は大きく頷き返す。
「ああ、うん。解った。待ってるよ」
無言で頷く可奈子を見てから、壱は走って音楽室へ。これ以上は、言葉は不要だと考えた。
御堂教諭の言うように、可奈子が自分を認めているかどうかは問題ではない。今は、鶴岡可奈子という強力な部員が戻る決意をしてくれたという事実のみが嬉しかった。
若菜、ユキ、咲は既に揃っていて、各々楽器を手に雑談などをしている。
「おはようさん」
「お疲れー」
「お疲れ様、部長」
「おはようございます!」
三者三様の挨拶を受け、可奈子の復帰を報告しようかとも思ったが、これはサプライズにしておこうと決めた。待ち構えていたのでは、彼女もより入り辛いだろう。
少々の雑談を挟んでから、壱は廊下に突然飛び出した。不思議そうな顔をする部員3名に背を向けたまま渡り廊下に目をやると、渡り廊下に立ち尽くす小柄な人影を1つ発見。小走りに、出迎えた。
「や、お疲れ」
「……」
「やっぱり、来辛かった?」
頷かず、可奈子はちょっと壱を見るだけに留めた。普通に考えれば、当然来辛い筈だ。
諸手を広げて頷き返し、壱は続ける。
「大丈夫。皆お鶴さんの合流を喜んでくれるよ」
「どう、かしらね」
「不安になる事なんてない。いや、不安になったって良いけど、それは君が1人ですべきだ。皆はそういうのとは無関係に、歓迎してくれるから」
根拠は無い。強いて言えば、部員達の人格だ。
人を見る目というものを幼い頃からよく聞き習ってきた壱にとって、今の吹奏楽部を構成する人員の人間性に、不満は見つからない。今更、可奈子の人格を攻撃するような人間ならば、そもそも当て付けがましく他の部員のように退部していて、今ここに居ない筈だ。
じっと、渡り廊下から窓の外を眺めたまま、しかし可奈子は静かに壱の言葉を聞いている。
たっぷり数分かけて、やっと可奈子は歩みを進めた。その少し後ろに、壱も続く。
音楽室。可奈子の姿を見て、一瞬場が静まった。
「はい注目。5人目の部員こと鶴岡可奈子女史です。本日付で復帰してくれる事になりました」
「……」
無駄に大きな声でそう紹介すると、可奈子はうるさいと言いたげに壱を軽くにらみ、それから3人の顔を見回して、ぺこりと頭を下げた。
「良かった。待ってたよ、鶴岡さん」
最初に声をかけたのは、若菜だった。言葉通り良かった、と心底思っているのか、眉がほっと下がっているのが解り易い。
「初めまして菱沼咲です、宜しくお願いします!」
続けて、咲が飛び出すように挨拶。差し出す右手を、可奈子はおず、と握り返し、その瞬間上下にぶんぶんと振られ、頭が揺れた。
そうして視線が集まる中、ユキはちょっと笑い、簡素に「お帰り」とだけ告げる。
吹奏楽部が、漸く吹奏楽部として形を取る事になった。爽やかな気持ちで、壱は溜息を吐いた。




