10
壱が部長に就任して数日。
今の所個人的に楽器を吹き鳴らすだけの吹奏楽部だったが、それでも部員は楽しくやっているようだったので、ほっとした。とはいえこのモチベーションをいつまでも維持する事は出来ないだろう。
そう考え、何度か可奈子に接触を試みてはみたのだが、全て空振りだった。最近では、壱と見ると逃げ出す程である。
なんとなく目が覚めてしまい、少し早い登校をしようと壱は鞄を引っつかんで表へ出た。
日差しが強く、漸く訪れた春らしい暖かさの中歩く早朝の町並みは、どこか違って見える程爽やかだった。こういう穏やかな気持ちで、いつもいたいものだと思う。
普段通りの通学路をちょっと外れ、遠回りをしてみる。人通りの少ない、車が1台やっと通れる程度の細い道をたゆたうように歩いていると、辻から曲がってくる者があった。
「……!」
「おや。おはようさん」
大きく目を開いて、不意打ち故に解りやすく驚いたのは、可奈子だった。それが悔しかったのか、努めて平静を装い、顔を背けて通学路に乗る。その少し後ろを、自然に壱がついていく形になった。
「そっか、こっちの方だったのね、家」
「……」
「別に尾行してたわけじゃないぞ、ホントに偶然なんだ」
「そんな事、言ってないでしょ」
「うむ。まあ、不愉快にさせたなら謝るよ」
「別に」
あまり成り立たない会話だったが、可奈子の方に普段のような壁があまり無いのが印象的だった。話しかけるなというオーラは依然として出てはいるものの、何か言えば返事ぐらいはまともに返ってくる。
「部活の方、考えてくれた?」
「……行かない、方向でね」
「んー、じゃあまた考え直しておくれ」
「なんで、そんなに」
「言ったじゃないか、俺は君のフルートにほれ込んでるって。あの音と一緒に、楽器をやりたいのさ」
変なものを見るような可奈子の視線だったが、知らぬは本人ばかりなりか、とも思う。
大抵、天才というものはそういう所がある。自覚が無く、ネガティブで、故に天才を礎とした努力が積み重なり、誰の手も届かないような高みまで上り詰めるのである。可奈子にも、そういう所があるのかも知れない。
「お鶴さんはさ、フルートをどうして始めたの?」
「……」
「つ、鶴岡さんは何故フルートを始めたんですか」
殆ど真下からにらみつけられるというのも中々凄みがあった。思わず敬語にさん付けで聴きなおしてしまったが、可奈子は何も言わずに歩き続ける。
「俺はさ、親父がやってたからなんだよね。簡単な理由だろ。5歳ぐらいの頃からだから、もう13年近くになる」
「そう」
「楽しいよねえ楽器。で、どのような切欠で?」
大きく長い溜息を吐いて、可奈子は立ち止まった。
そして、薄く口元を緩め、微笑んだ。明るい微笑ではない。何か同情したような色が含まれている。
ぞっとした。こういう目は、おおよそまともな人間に出来るものではないと、壱はよく知っている。
「幸せなのね、貴方は」
「幸せ……?」
「そういう人が、私みたいのに関わってちゃ、駄目じゃない」
「何を言い出すかと思えば。俺の現状がどうこうと、俺の音楽に対する嗜好は関係無いよ」
「解らなくても、いいわ。少なくとも、貴方に対する興味は、もう無いから」
「あら」
「もう放っておいて。別の人間を入部させたら、いい」
「だから俺は君の」
「何を言おうと、私は貴方の要望を、飲む気は無い」
手の平を差し向けて壱の言葉を制し、可奈子は早足に歩いていった。
涼しいはずの風がどこかじっとりと感じられ、壱は自分が汗を掻いていた事に、気付いた。
昼休みになっても、壱は今朝のことが気にかかっていた。
可奈子の言葉の意味が解らない。様子が変わったのは、楽器暦について問うた時からだったが、あの瞬間の何が彼女の気を悪くしたのかも解らなかった。
伸びをし、食事をする気にもなれず、壱は溜息。
「大人しいわね部長?」
「うーん」
「何かあったの?」
ユキが優しげに声をかけてくる。こういう所は、彼女も大人だと思った。
「いやね。お鶴さんの事でちょいとさ」
「ふうん?」
「今朝、すげえ偶然で一緒になったんだけどね。なんともにべもない感じだったよ」
「拘るよね、黒沢君」
「ユッキーも知ってるんでしょ、お鶴さんのフルート。やっぱり、俺はどうしてもあの子を復帰させたい」
「……まあ、そうよね。確かに鶴岡は何かが完全に他の部員と違ったわ。空気というか、何というか」
ユキも、可奈子の腕前は認めているのだ。だからこそ、その可奈子がコンクールを欠場したりした事も含めて、色々な感情が錯綜し、結局なんとも言えず許せないままいるのだろう。
「とりあえず、何か食べたら? お腹空いてると、頭も回らないでしょ」
「そうする」
「行ってらっしゃい」
席を立つ壱を、ユキが見送る。
とはいっても、やはり何かを口に入れるような気分にはならず、壱はぼんやりと校内をうろついてみた。渡り廊下に差し掛かり、校庭を眺めていると、沢山の生徒が遊んでいたり、食事をしたりしているのが見える。あの1人1人に、悩みだとか恋だとかがあるのだろうかと思うと、途方も無いような気持ちになった。
ふと、小走りに何かが横切るのが見えた。小柄な姿と、長い黒髪。可奈子だった。
なんとなく目でおっていると、そのまま可奈子は校舎裏手へ回っていく。体を抱えるようにしている姿は、何かから逃れるようでもあった。
今日はよく可奈子を見る日だ、と思いながら、その様子が気になり、追ってみる事に決めた。どこか、普通ではないと感じられたのである。幼少期以来、他人のそういう仕草に敏感である。
階段を駆け下り、可奈子が去っていった方向へ向けて軽く走った。裏手門はは普段閉まっている筈なのだが、開け放たれたままになっている。ここから出て行ったのだろう。
そのまま私道へ出、あの状態からすると坂道を登りはしないだろうと予想し、下る。公園が目に入り、まさかと思いながら足を踏み入れた。
別段何か遊具があるわけでもないその広場の隅に有る小汚いベンチに、探していた影はあった。
「お鶴さん」
声をかけると、可奈子は今朝のように驚いた顔を隠せずに、上げた。
それから、不覚とばかりに唇を噛んで、俯く。見れば体が小刻みに震えて、気持ち顔色も悪いように見える。
「どうしたのさ」
「……」
「何か、体調悪そうだけど」
「放っておいて、って、言った」
「でも尋常じゃないよそれ」
「関係、無い」
「そうかも知れんけどさ……」
可奈子はよく保健室に行っているという話しを思い出した。何故今回はそうしなかったのか。
「とりあえず、学校戻って、早退するなりどこかで休むなり」
「今、休んでる。邪魔だから、消えて」
「いやでもこんな所で」
「なんで、しつこい……」
言いかけて、可奈子は苦しげに荒い呼吸をし始めた。慌てて近寄ろうとすると、強烈な眼差しが返ってくる。思わず、たじろいだ。
「さ、わらないで」
「……」
「大丈夫、だから」
「そうは見えない」
「いいから」
平行線である。しかし、このまま放って校舎へ戻っても、気がかりで何も手につかなくなるだろう。
仕方なく、壱はその場に腰を下ろした。スラックスが砂まみれになるが、仕方がない。可奈子が、不思議そうな目を向けてくる。
「よくなるまで、ここに居る」
「……人の話を、聞かないのね」
「居るったら居る。もう決めた。戻ったって心配で授業になんかならん」
逆ギレ気味に壱がそう言って見せると、可奈子は諦めたのか溜息をついて目を閉じた。
遠くからチャイムが聞こえる。5時間目が始まったらしい。
「授業、間に合わなくなるわよ」
「もう間に合わない」
「転校してきた、ばかりなのに」
「どうでもいい」
「……なんで、こんなことするの」
「心配だからっつったろ。このままぶっ倒れでもされたら、寝つきが悪くなる。何より、君は吹奏楽部の部員だし、それ以前に知ってる人間をこんな場所へ放置できるもんか」
なんとなくイライラしている自分に内心驚きながら早口にまくしたてる。可奈子は、薄く目を開けてそんな台詞を一応聞いてはいるようだった。
人が聞けば無為と呼ぶであろう時間。ベンチに縋るように腰掛ける可奈子と、少し距離を置いて地面にデモの如く座り込む壱。絵としてはちょっとしたシュールめのギャグである。見るともなく可奈子を見る壱と、自然視線が合うと、可奈子は細めたままの眼差しで少し観察するように視線を返してくる。
そういう反応も、壱にとっては新鮮だった。弱っている所に自分は付け込んでいるのかも知れないとも思うが、鶴岡可奈子に取り付く島が見えているようにも思えたので、それは飲み込んだ。
「フルートを」
「……え?」
「始めたワケを、聞いたわね」
ぽつりと、チャイムをスイッチにするかのように、可奈子は口を開いた。身を乗り出しながら、壱は相槌を打つ。
「あ、うん。フルートをお鶴さんが始めた理由。興味あるね」
「……その呼称は、どうにかならないの」
「あ、やっぱり嫌? 鶴岡さん、じゃどうにも他人行儀でカタいかなと思って。可奈子ってのも馴れ馴れしいでしょ」
「まあ、いいけど」
本当にどうでも良さそうに顔ごと壱から視線を逸らして、可奈子は自分の髪の毛先を摘み、言葉を選ぶ。
「フルートはね。私の、姉に習った」
「お姉さんが居るのか」
「歳の離れた、ね。姉が、楽器を長くやっていた。昔から、あまり言葉を話すのが、得意じゃない私を、見かねたんでしょうね。やってみなさい、とフルートごと、渡された」
確かに、可奈子の言葉はぶつ切りになりがちである。呼吸を整えているようにも、言葉を発するのが億劫なようでもあった。
「いくつぐらいの話?」
「5歳か、6歳か。とにかく、小さな頃から」
「凄いね。立派な楽器暦だ」
「……貴方は、サックスだったわね」
「うん、それが?」
「何故サックスを、続けるの?」
「……そりゃ、楽しいから、かなあ。つまらない事を無理矢理やってもしょうがないし。誰に強制されたわけでもないしね」
「そう。それは、良い事ね」
言葉とは裏腹に、可奈子は鼻で笑うような仕草を敢えて見せる。そうする事で、自分に敵意を集めようとしているかのようだった。
「私にはね。フルートを「やる道」しか無かったの」
「……というと?」
「やらなければ、ならなかった……ううん、やらなくても良かった。でも、やる事で、私はいくらか楽になる事は出来た」
「解らないな」
「でしょうね。ともあれ、私と貴方ので、根本的に違うのは、そこ。自ら楽器を選んだ貴方と、差し出された楽器に、しがみ付いた、私。音楽が好きか? どちらでもないわ。音楽だから、音楽をやってるだけ。踊りでも、料理でも、スポーツでも、別に良かった」
言いながら首をもたげた可奈子の眼差しには、見覚えがあった。途端、壱の腹部が黒いわだかまりを抱え始める。言葉に出来ない、形容の難しい不快感ともいえないそれを隠しながら、壱は口を開いた。
「つまり、仕方なくフルートを? いつやめても良い?」
「……そうね。そうしなければ、ならない時がくれば、そうする」
それは嘘だ、と思った。思ったが、言葉にしてしまうとそれこそ嘘のような気がした。
確かに言葉通り、可奈子は仕方なく楽器を手に取っているのだろう。それと同時に、捨て難く音楽に対する渇望が、壱ははっきりと見えた。理屈ではない。これは同種の人間にしか解らない所だろう、と思う。
同種、という事場を思い浮かべると随分すっきりした。可奈子と自分は、何かが近い。
そしてそれは、決して喜ばしい事ではないのだった。
「私が、フルートを始めた切欠は、そんな所。満足いった?」
「概ね」
「そう」
「ただ、仕方なくやってる割には、演奏に心が入ってるなとは思うよ」
「心?」
胡散臭そうな顔をする可奈子に真顔で頷き、続ける。
「演奏ってのは、どうしたってやる人間の性根が出る。これはもう誤魔化しようが無い。俺がお鶴さんの演奏を聴いて感動したって事は、お鶴さんの演奏に、感動させるだけの心が入ってるって事だよ」
「随分、自分に自信が、あるのね」
「そりゃそうさ。音楽についてだけはね。だって俺にも、サックスしか手が無かったから」
言いながら立ち上がり、スラックスについた砂埃を払い落とす。可奈子が、不思議そうな顔をして見上げてきた。
「そう。俺も、経緯は違ってもお鶴さんと多分一緒。サックスやってなきゃなんなかった。サックスで埋まらなければ、踊りでも料理でもスポーツでも良かったわけさ」
「……馬鹿にして」
「まさか。俺は、音楽についてだけは真面目にやってるよ。他はまあ、自信も無いし才能も足りないし」
笑いながらそう言って、壱は可奈子に歩み寄った。ぴくりと体を縮ませたが、しかし可奈子は先ほどのようにあからさまな拒絶を見せはしなかった。
「有難う、色々話してくれて。とりあえず今は満足した。6時間目ももうじき始まるだろうし、戻らね?」
片手を差し出すと、可奈子はなんとも言えない渋い顔になった。それから、差し出された手を無視し、壱の二の腕を確認するように叩く。
「え、何?」
「……」
答えず、壱の顔を見上げ、可奈子はさっさと歩き出した。壱も、慌ててそれに続いた。
5時間目が終わるチャイムが、聞こえてきた。




