第五話 叶うと言った日
しるしが、見えなくなったとき──
わたしたちは、ただ静かにそれを嘆くのだろうか。
あるいは。
しるしなど最初から無かったのだと、笑ってみせるのかもしれない。
この話は、
もう占わなくなった、ひとりの女が、
それでも忘れられなかった“言葉”を、ふたたび灯にかける物語。
信じるということ。
語るということ。
そして──
あの子の未来に、嘘をついたこと。
ふと、立ち止まったのは、雨上がりの夕暮れだった。
視界の端に、古びた暖簾が揺れた気がした。
コンクリートの匂い、焼き鳥の煙、電飾看板の明滅。
繁華街のざわめきの中に、ずいぶん前に捨てたはずの“気配”が、ぬるりと混じっている。
「……あったのね、まだ」
女は小さくつぶやき、くたびれた肩にかかるショールを直した。
その暖簾には、文字のようなものがある。けれど、にじんで読めない。
気にする者など、もういないのだろう。
それでも、灯だけは消えていなかった。
木の戸を押して、女は中へ入る。
足元に軋む床の音。
なぜか、その音にだけ懐かしさを覚える。
「おや、もうやめて田舎に帰ったのかと思ってたよ」
火傷の痕のある狐が、入口の横で胡座をかいている。
その声は、記憶よりもずっと生々しい。
薄暗い灯の中、その目だけが冴え冴えと光っていた。
「ふん、まあ田舎には居るけどね」
女はショールを外し、椅子に腰を下ろす。
ひとつ息を吐いた。
まるで、喋る前に埃を吐き出すような、そんな音だった。
「“やめた”のも、だいぶ前。誰にも言わなかったけど」
「誰にも言わないでやめるのは、詐欺師か幻術師だけだよ」
「そっちが言う?」
狐の口の端が、にやりと吊り上がる。
冗談のようで、警告のような──
あるいは、見透かした者の笑い。
「……今日は何を?」
奥から、灯主の声がした。
柔らかく、温度のない声。
ただ、空気のなかに“声”が生まれる感覚。
「なにって……別に、占ってほしいわけじゃないのよ」
「占いを、もう信じていない?」
「……信じるも、信じないも。
見えなくなったの。ずっと、前に」
「それは、“しるし”が見えなくなったということですか」
灯主は姿を見せない。
声だけが、奥の畳の間から聞こえてくる。
「霊感だとか、直感だとか、そんなものが……
ふと、ぴたりと消えたのよ」
「それで、“やめた”のですね」
「……ええ。
怖かったから」
「“何も見えないまま、人を導く”のが、でしょうか」
女は、答えなかった。
けれど、その沈黙は否定ではなかった。
「占い師としてやってきて──
わたし、何人、泣かせたかなって。
笑わせたかなって」
「その数を、数えてきた?」
「最初はね。数えてた。
でも、途中から数えられなくなった。
“当たったかどうか”ばかり聞かれるようになって」
女の指が、膝の上で静かに動く。
爪の先が、手のひらの肉をかすかに押している。
「そうやってるうちに、わからなくなったの。
“わたしが信じてたもの”が、ほんとに“しるし”だったのかどうか──」
「信じていたのは、“しるし”ですか」
「それとも、“しるしを視ている自分”だったのでは」
女の肩が、わずかに揺れた。
けれど、俯かない。
「……両方、だったと思う」
「そうですね」
そう言ったあと、灯主の声は、しばらく静かになった。
「それでも、来たのですね」
「ええ」
「なぜですか?」
女は答えようとして、やめた。
その代わりに、ふっと笑った。
「ねえ──
“あの子”のこと、覚えてる?」
──叶いますよ。
その言葉が、いまだに胸の奥でくすぶっている。
火の粉のように小さく、けれど消えずに残っている。
あの子は、未来を望んでいた。
声に力があって、笑っていて。
でも、線は……どこにも、つながっていなかった。
保育士になりたいと、あの子は言った。
子どもが好きで、三人ほしいとも言っていた。
未来の恋人の話、名前の占いもまた今度、と。
その目を、見てしまったのだ。
本人にも、うっすら気づいているような気配。
それでも、わたしは──言ってしまった。
「叶いますよ」って。
「……言ってしまったの。
“叶いますよ”って」
女は、茶の湯のみを見つめたままつぶやいた。
「叶わないと、知ってたのに」
「ならば、“しるし”ではなく、“願い”を語ったのですね」
霊狐が、鼻を鳴らす。
「おまえ、ずっと“しるし”に裏切られたと思ってたんだろ」
「でも実際は、裏切ったのは自分自身だったんじゃないのかい」
「……そうかもしれない」
「信じさせたくて、“しるし”を捨てて、“願い”を選んだ」
「それがあの子にとって救いだったのか、
ただの慰めだったのか──もう、わからない」
「でも、わたしは……
あの子のあの顔を、忘れられなかった」
「それで、今日は何を占いましょう」
灯主の声が、冗談のように響く。
女は、少しだけ、目を細めて笑った。
「そうね……
“叶わなかった未来”は、どこへ行くのか」
「それを、訊きに来たのかもしれない」
暖簾が、かすかに揺れている。
外の街は、まだ喧騒に満ちていた。
女は立ち上がり、ショールを羽織る。
ひとつ、深く息をついた。
それは、懺悔のあとでも、再出発の息でもない。
ただの、呼吸だった。
霊狐が、静かに呟く。
「おまえ、まだ“しるし”を待ってるんだろ」
女は、ふと足を止める。
「“しるし”ってのはな、
見えたあとに信じるんじゃない。
信じたあとに、見えるもんさ」
「そうかもしれないわね」
「じゃあ、また来るのか」
「……今度は、“誰かの未来”じゃなくて、
自分の未来を占ってもらいに来るかもね」
灯火は、
まだそこにあった
信じてほしい、と願うとき。
わたしたちは、自分が信じていないものを、差し出してしまうことがある。
あのとき、わたしが差し出したのは“願い”だった。
未来では、なかった。
それでも──
あの子は笑ってくれた。
ならば。
いまこの手に、ひとつの“しるし”が残っていると、言ってもいいだろうか。
灯火は、消えてなどいなかった。
わたしがそれを信じるまで、
ずっと、そこに在りつづけていたのだから。




