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千灯庵語り ———灯の向こう側———  作者: 卜部紘子


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第四話 誰がための灯、その真名は……

「守る」という言葉の裏に、

ときに誰にも見せたくない願いが隠れている。


誰かを救いたかったのに——

救ったのが自分でなかったことが、悔しいなんて。


灯はいつも、問いかける。

それはほんとうに、誰のための願いだったのか、と。



「ねえ、最近すごく気持ちが軽くなったの。……これのおかげかもって思ってる」


そう言って親友が袖をまくったとき、

手首には、透き通った水晶のブレスレットが光っていた。

その隣には、小さな護符のような布をくるんだもの——霊符らしい。


「あ、あとね。今度はペンデュラムも見に行こうかなって思ってて……。

 ちょっと気になるお店があるの。“千灯庵”っていうんだけど——」


彼女は、笑っていた。

久しぶりに見た、まっすぐで澄んだ笑顔だった。


その笑顔が、どうしようもなく、胸に引っかかった。



それは、悔しさだった。

苛立ちだった。

不安だった。


——なんで、“あの人たち”の言葉だけで、癒されたって言えるの?

——私の言葉じゃ、足りなかったってこと?


ブレスレットは、一万円くらいするらしい。

霊符は五千円。

次は、ペンデュラム。


友達を心配する気持ちと、

自分じゃなかったことへの拗れた感情が、混ざり合う。


それはもう、「守りたい」ではなく、

「取り戻したい」に変わりはじめていた。


「……あの店、私が一度ちゃんと見ておくべきだよね」


自分に言い聞かせるように、スマホで“千灯庵”を検索した。

地図の上に、小さく灯る提灯のマークが浮かぶ。


次の日、彼女はそこへ向かった。

親友よりも先に。

信じてしまう前に。

なにかを“取られる”前に——



扉を開けたとき、彼女の肩には“正義”が乗っていた。

それは、誰かを守るための顔をしていたが、

ほんとうは、自分の無力を否定したいだけの、柔らかな執着でできていた。


千灯庵とは、そういうものが、よくやって来る場所でもある。


古びたショーウィンドウの中には、

誰かが手書きで綴った護符のような札や、色あせた絵、祈りのことば。

日焼けで反り返った紙の端が、微かな風に揺れていた。


床の上に、小さなテーブルと椅子がふたつ。


「いらっしゃいませ」


現れた灯主は、年齢も性別も定かでない姿をしていた。

声もまた中性的で、どこか淡く、にじむような微笑だけをまとっていた。


「こちらでよろしければ、おかけください」


そう言って示された席に座ると、

彼女の前には、いつのまにか湯気の立つ湯呑が置かれていた。


まるで、最初から彼女が来ることを知っていたかのように。

まるで、その一杯が、ちょうどいま淹れられたものであるかのように。


彼女は一瞬ためらい、茶に手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。

なにかを受け取るには、まだ心の整理がついていなかった。



そのとき、何かの気配に視線を持っていかれる。

暖簾の奥。

カウンターの奥に続いているらしいその境界のあたりに、白い影が揺らめいた——


彼女は思った。

今、何かが、こちらを見ていたような気がした。


——狐?


一瞬、そう見えた気がしたのだ。

けれど次の瞬間には、もうそこに“姿”はなかった。


残ったのは、見られているという気配だけ。

言葉はない。

声も聞こえない。


けれど、なにかが心の奥を揺らしていた。


——また、守るふりか。

——その正義とやらは、誰のためだ。


彼女は小さく喉を鳴らし、目の前の灯主へと視線を戻した。



「……あの、すみません。今日は……少しだけ、話をしたくて」


灯主は、やわらかくうなずく。

微笑みも、声も変わらない。


「これはただのほうじ茶でございますよ。

 何の効果も、何の加護も、ございません」


その言葉に、彼女はうっすらと眉を寄せた。


「……正直に言います。

 私は、こういうの……あまり、信じてません」


言い切った声には、戸惑いと期待が混ざっていた。


灯主は、首をかしげた。


「……信じる、とは、“与えられる”ものと思うておられるのですか?」


その問いに、彼女は返せなかった。


「あなたのご友人が、何を信じて、何に癒されたのか。

 それを“間違い”とされたいのは、なぜでしょうか」


「……っ、それは……」


言いかけた言葉は、喉で詰まった。

本当は、「救ったのが自分でなかったこと」が、ただ悔しかっただけなのではないか。


言葉にしないその問いを、灯主はただ静かに見つめていた。


そしてその視線の向こうには、

もう姿を見せない霊的な気配が、じっとこちらを見ていた。



庵を出ると、空は鈍く白んでいた。

昼なのか夕なのかもわからない、まぎれた光。

まるで、彼女の心の中のようだった。


狐は何も言わなかった。

灯主もうなずいただけだった。


それでも、帰り道の彼女の足取りは、来たときより少しだけ、静かだった。


誰かを“守る”のではなく、

誰かの選択を“見守る”ような歩幅だった。



数日後、彼女は親友と会った。


いつものカフェ。

いつもの席。

けれど、空気はどこか違っていた。


「ねえ、前に言ってたブレスレット……あれ、やっぱり買ってよかったと思ってる?」


そう尋ねた声に、親友は少し驚いたように目を瞬かせたあと、笑った。


「うん。……でもね。

 これがあるから大丈夫って思ってたときもあったけど、

 最近は、“わたしが変わったから、これを大事に思えてるのかも”って思ってるの」


その言葉はもう、依存ではなかった。

自分の足で、世界を選ぼうとしている人の声だった。


彼女はそっと笑った。


親友は、少しだけためらってから言った。


「……あのね、実は……お付き合いを始めた人がいて。

 一度、会ってほしいなって……思ってるの」


胸の奥がきゅっと締まる。

けれどすぐに、その感情を静かに見つめることができた。


彼女は、ほんとうにもう、自分の人生を歩いている。


だから、彼女はこう言った。


「——いつにする?」


言葉はそれだけだった。

けれど、その一言には、手放すような、許すような、

そして何よりも信じるような温度があった。


その笑顔は、かつて「守る」と思っていたどんな言葉よりも、

ずっとあたたかく、

ずっと自由だった。



そのころ、庵の障子の上では、白い狐が尾をふるりと揺らしていた。

背の火傷跡は薄明の光をまとい、影とも光ともつかぬ姿で、灯主の脇に伏している。


「名乗らぬ執着ほど、厄介なものはないの」


狐はぽつりと、そう言った。

灯主は、温くなった茶を口にしながら、笑う。


「名を持った願いは、ようやく灯るものですから」


障子の外に、ひとつ風が吹く。

それは、誰かの正しさがほどけたあとにだけ通り抜ける、小さな風だった。



ここは、千灯庵。

誰かの灯火が、そっと名前を得る場所。



第四話『誰がための灯、その真名は……』では、

「守ること」と「奪いたくなる気持ち」の境界に潜む、名を持たぬ願いを描いています。


千灯庵に訪れたのは、親友を“救った”場所に戸惑うひとりの女性。

自分ではない誰かが与えた癒しに、心がざわつく——その揺れを、霊狐と灯主は静かに見つめます。


「信じるとはなにか」「手放すとはなにか」。


正しさの影に揺れる灯火が、そっと真名を得るまでの物語です。


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