第三話:白砂と欺瞞
惑星渡りの感覚が、変わった。
以前は高次元の回廊を駆け抜けるような、鋭敏で張り詰めた感覚だった。
だが今の跳躍は、温かい水の中にふわりと浮かぶような、穏やかで心地よい感覚に近い。
目的地のイメージがそうさせるのか。
それとも陸のスキルが、彼の精神状態に合わせて様相を変えているのか。
答えは分からない。
ただ、その心地よさが、陸の心をさらに浮き立たせた。
光が収束する。
そして二人の足が捉えたのは、硬いコンクリートでも金属の床でもなかった。
柔らかく、きめ細かい砂の感触だった。
目を開ける。
最初に飛び込んできたのは、どこまでも続く青。
空の青。
海の青。
二つの青が溶け合う水平線。
「……うわ……」
陸は思わず、感嘆の声を漏らした。
目の前には、リラがモニターで見せた通り――いや、それ以上に美しい光景が広がっていた。
この星系には二つの恒星があるらしい。
太陽の光がさんさんと降り注ぎ、エメラルドグリーンの遠浅の海をきらきらと輝かせている。
寄せては返す穏やかな波の音が、耳に心地よい。
肌を撫でる風は、かすかな潮の香りと甘い花の香りを運んでくる。
まさに楽園。
その陳腐な言葉しか思い浮かばなかった。
ウロボロスの錆と絶望。
ヘパイストス・ファウンドリの鉄と酸性雨。
自分は本当に、あの殺伐とした世界からやってきたのだろうか。
ザインとの死闘も、クロノス・オーダーの影も、まるで遠い世界の出来事のように思えた。
陸は衝動的に靴を脱ぎ捨て、裸足で砂浜を駆け出した。
温かく、さらさらとした砂の感触が足裏をくすぐる。
波打ち際まで走ると、躊躇なく透き通った海水に足を入れる。
地球の海より少しだけ水温が高い。
だがそれが火照った身体に、ひどく心地よかった。
「はは……なんだ、これ。最高じゃねえか……!」
陸は子供のように笑いながら、波と戯れた。
この世界に来てから、初めて心の底から楽しいと思える瞬間だった。
そんな陸の姿を、リラは少し離れた木陰から、呆れたような、それでいてどこか羨ましそうな目で見ていた。
彼女もまた、いつもとはまったく違う装いをしている。
ヘパイストス・ファウンドリで着ていた灰色の防護服ではない。
アルカディア・ネクサスでの機能的なコートでもない。
風にふわりと揺れる、白いシンプルなワンピース。
その姿は彼女の人形のような美しさを際立たせ、情報屋としての影を完全に消し去っていた。
「……おい。いつまで遊んでいるんだ。仕事の前だぞ」
そう言いながらも、その声にいつもの厳しさはない。
彼女もまた、この楽園の空気に当てられているのが分かった。
普段は決して見せない柔らかな表情。
戦闘や交渉のためではなく、ただ、ありのままの一人の少女としての顔。
陸は笑いながら、彼女の元へ戻った。
「悪い、悪い。でも仕方ないだろ。こんなの見たら」
二人はしばらく言葉もなく、その完璧な風景を眺めていた。
ビーチでは様々な人種が、思い思いの時間を過ごしている。
日光浴を楽しむ裕福そうな家族連れ。
最新のウォーターバイクに興じる若者たち。
誰もが幸福そうで、満ち足りていた。
この星には争いも貧しさも存在しないのだろうか。
そんな場所が、この歪んだ宇宙に本当にあるのだろうか。
陸の脳裏に、ふと疑問が浮かんだ。
あまりにも完璧すぎる。
この楽園は、精巧に作られた舞台装置のように見えた。
その完璧さがかえって、陸の心にかすかな違和感を覚えさせる。
彼はビーチの端で飲み物を配っている従業員の姿に目をやった。
ピクシーと呼ばれる種族だろうか。
背中に小さな羽を生やし、黙々とトレーを運んでいる。
動きは完璧で、無駄がない。
だが顔には、何の感情も浮かんでいなかった。
喜びも悲しみも、退屈さえも。
ただプログラムされた機械のように、完璧な笑顔を貼り付けたまま、完璧なサービスを提供している。
陸が感じた違和感の正体。
それは、この楽園の完璧さ、そのものだった。
光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。
陸はその漠然とした不安を振り払うように、頭を振った。
考えすぎだ。
せっかくの楽園なのだ。
今は楽しまなければ損だ。
「さあ、ホテルにチェックインしようぜ。情報提供者との接触は三日後なんだろ?」
陸は努めて明るい声で言った。
「……そうだな」
リラも頷く。
だが、その紫紺の瞳の奥に、陸と同じ種類のかすかな疑念の光が宿っているのを、彼は見逃さなかった。
この白砂と美しい海に覆われた星。
その欺瞞に二人が気づくのは、まだもう少し先のことになる。




