第76話 仕掛けられた夜
日没前、フェルトハイムの北門はいつもより静かだった。
荷車が一台、ゆっくりと門を出る。粗末な幌に覆われた木箱、外見はどこにでもある食料輸送だ。だが車輪の軋みや積み方、匂いに至るまで、すべてが計算されている。
御者席に座るレオは、手綱を握ったまま視線を上げた。門の影に立つ兵、遠くの屋根の上にいる見張り、道端で何気なく立つ商人風の男たち。どれも味方だ。
それでも、心は静かに研ぎ澄まされていた。
ガレスが後ろから低く言う。
「妙に静かだな」
「噂は流した。来るなら、この道だ」
レオは短く答える。言葉を重ねる必要はない。
荷車はゆっくりと北へ進む。町の灯りが背後に遠ざかり、やがて林縁の薄暗さに包まれていく。
◇ ◇ ◇
同じ頃、林の奥。
黒い外套の男は、木陰に身を寄せていた。風の向き、足音の伝わり方、街道の傾斜。すべてを確かめながら、視線を前に向ける。
「来たか」
遠くに、幌の影が見える。
部下が囁く。
「護衛は見える限り少数です」
男は小さく笑った。
「“見える限り”な」
それでも構わない、と言わんばかりに顎で合図を出す。
「短く、速く。箱だけ取る」
影が静かに散る。音はない。だが、確実に包囲は狭まっていた。
◇ ◇ ◇
街道の分岐手前、見通しの悪い曲がり角に差し掛かる。
レオは手綱を少しだけ引いた。速度がわずかに落ちる。その瞬間、空気が変わる。
気配。
前方の藪、右手の斜面、後方の木立。視線を動かさずに、位置だけを読む。
「来るぞ」
レオが言うと同時に、ガレスが身を低くした。
次の瞬間、前方の地面に短剣が突き刺さる。進路を止める一撃だ。
影が飛び出す。三、四、——いや、もっといる。
一直線に荷車へ。
◇ ◇ ◇
レオは手綱を離し、片手で幌を払った。上段の袋が転がり、穀物の匂いが一気に広がる。相手の狙いを“確定”させるための動きだ。
敵が一瞬だけ判断を誤る。
その隙に、ガレスが踏み込む。最前の一人の腕を払い、体勢を崩し、地面に叩きつけた。鈍い音が林に吸い込まれる。
だが敵も速い。左右から二人が回り込む。
レオは一歩だけ後ろへ引き、間合いを作る。刃を受け流し、逆手で相手の軸をずらす。過剰な力は使わない。崩し、止める。それだけで十分だ。
短い攻防の中で、時間が伸びる。
そして——。
「今だ」
レオの声が落ちた。
◇ ◇ ◇
合図と同時に、林の外周で音が変わる。
連邦の兵が斜面を押さえ、公国の騎士が分岐を塞ぐ。逃げ道が、静かに消える。見えない網が、形を持つ。
敵の一人が振り向き、遅れて理解する。
「……囲まれている」
遅い。
ガレスが笑う。
「やっと気づいたか」
包囲は一気に縮む。数で圧し潰すのではない。逃がさない配置で、呼吸を奪う。
それでも、黒い外套の男だけは動じなかった。
◇ ◇ ◇
男は一歩前に出る。
「悪くない」
レオと視線が合う。
「だが——甘い」
その瞬間、足元で乾いた音がした。小さな筒が転がる。次いで白い煙が一気に広がった。
視界が奪われる。
咳が出る。
だが致命ではない。時間を稼ぐための煙だ。
「離れるな!」
レオが声を張る。味方の位置を確認し、線を維持する。
煙の向こうで、影が一つ、二つ、速く動く気配。
◇ ◇ ◇
数十秒。
それだけで、すべてが変わる。
煙が薄れたとき、地面には数人が拘束されていた。だが、中心の男の姿はない。
分岐の先、林の奥へと続く細い獣道。そこに、かすかな踏み跡が残っている。
セルゲイが低く言う。
「主は逃げた」
アシュレイが周囲を見回す。
「だが、駒は取った」
エドワードが押収した袋と書簡を確認する。焼け残りとは違う、はっきりした取引の断片。名前は伏せられているが、金の流れは繋がる。
レオは煙の消えた空気を吸い込み、短く息を吐いた。
「……十分だ」
完全ではない。だが、繋がる。
疑いを、事実に変えるための線は、これで引ける。
◇ ◇ ◇
夜、フェルトハイムへ戻る。
門の内側には人が集まり、遠巻きに様子を見ている。囁きはまだある。だが、その質が少しだけ変わっていた。
恐れだけではない。
期待と、確かめたい視線。
レオは荷車から降り、押収した証拠の袋を持ち上げた。
「明日、すべて話します」
声は大きくない。だが、はっきり届いた。
人々のざわめきが、静かに揺れる。
まだ信じられてはいない。
それでも——。
網は、確かにかかった。
あとは、引き上げるだけだ。




