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第75話 見えない網

倉庫の炎から一夜が明けても、フェルトハイムの空気は重いままだった。


 焦げた匂いが、まだどこかに残っている。噂はさらに広がり、昨夜の火事は「証拠隠滅だった」という話と、「王国側が証拠を消した」という話の両方に分かれて流れていた。どちらも決定打に欠ける。だからこそ、疑いだけが残る。


 レオは金獅子亭の一角で、その“残り方”を静かに受け止めていた。


 ミレイが隣に立つ。


「……厳しいですね」


「うん。でも、形は見えた」


 レオは短く言って、机の上の紙に視線を落とした。焼け残った記録の断片、出入りの時刻、資金の動き。完全ではないが、繋げば流れが見える。


「消されたのは“証拠”であって、“動き”じゃない」


 ミレイが頷く。


「動きは残る、ですね」


 レオは小さく笑った。


「そう。だから、動きを捕まえる」


◇ ◇ ◇


 議事館。


 三国の代表とエドワード、ガレスが揃う中、レオは簡潔に言った。


「罠を張ります」


 セルゲイが腕を組む。


「どういう罠だ」


「餌を用意します。価値のある輸送を“見せる”」


 アシュレイが目を細める。


「囮か」


「はい。ただし本物に見えるようにする。動きはあちらが読む。なら、読ませる情報をこちらが作る」


 エドワードが地図を広げる。フェルトハイムから北へ伸びる街道、途中の分岐、見通しの悪い林縁。


「ここを使います。護衛は三国混成、表は軽く見せて裏で厚く」


 セルゲイは短く頷いた。


「悪くない。連邦は外周を押さえる」


 アシュレイも続く。


「公国は内側の機動を引き受ける。逃げ道は塞ぐ」


 ガレスが低く笑う。


「で、餌は?」


 レオは答えた。


「“食料”です。今、一番効く」


 会議室の空気が締まる。町の不安に直結するものだ。だからこそ、食いつく。


「日時は明日、日没前。噂は自然に流す」


 セルゲイがレオを見る。


「お前が乗るのか」


 レオは迷わなかった。


「乗ります」


 短い沈黙のあと、セルゲイは頷いた。


「いい。だが、無茶はするな」


「分かっています」


◇ ◇ ◇


 夕方。


 金獅子亭の裏手で、ガレスが荷車を点検していた。木箱は重さも音も本物に近づけてある。中身は砂と石、上段だけに実物の穀物を置く。


「見た目は完璧だな」


「匂いもね」


 エドワードが笑う。袋の口からは、ちゃんと穀物の匂いがする。


 ミレイは少し離れたところで、その準備を見ていた。ルナは今日は店の中で待つ約束だ。ソラは眠っている。


 レオが近づくと、ミレイは小さく息を整えた。


「……行くんですね」


「うん」


 それ以上は言わない。言えば、止めたくなるからだと分かっている。


 レオは少しだけ声を落とした。


「終わらせる」


 ミレイは頷いた。言葉は短い方がいい。


「気をつけて」


 それだけで十分だった。


◇ ◇ ◇


 その夜。


 町の酒場では、さりげなく話が流れ始めていた。


「明日、食料の大きい荷が出るらしい」


「北へ回すんだとさ」


 誰かが聞き、誰かが別の場所で同じ話をする。意図的に広げられた情報は、自然な噂の形を取って町を巡る。


 外れの宿の一室で、黒い外套の男はその流れを受け取っていた。


「……来たか」


 部下が言う。


「食料輸送。護衛は薄いとのこと」


 男は笑った。


「薄く“見せている”な」


 だが、目は楽しげだった。


「いい。食う」


 机の上の地図に指を置く。林縁の分岐。


「ここで取る。短く、速く」


 部下が頷く。


「了解」


 男は窓の外を見た。フェルトハイムの灯りは、まだ揺れている。


「今度は逃がさない」


◇ ◇ ◇


 翌日の準備は、静かに進んだ。


 夜更け、レオは一度だけ通りに出て、町の様子を見た。戸を閉める音、遠くの犬の鳴き声、灯りの消える順番。いつもの町だ。


 だが明日は違う。


 疑いを、形にする日だ。


 レオは短く息を吐き、金獅子亭へ戻る。階段の上で足を止め、眠る家族の気配を確かめるように耳を澄ました。


 それから、扉を開けた。


 均衡を取り戻すための網は、すでに張られている。


 あとは、かかるのを待つだけだった。

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