第241話 子供たちの記録
フェルトハイムへ向かう馬車は、朝から止まることなく走り続けていた。レオは窓の外をほとんど見ていない。膝の上には折り畳まれた紙があり、そこには二つの名前が記されている。ルナ。ソラ。
「レオ」向かいに座るミレイが呼ぶ。「その紙、何回見るの」
「……分かりません」
「見ても増えないよ」
「分かっています」
「じゃあ、置いて」
レオは紙を畳み直した。だが手放さない。
「レオ。まだ、何を書き換えられたか分かってないんだよね」
「はい。名前が一覧にあっただけです」
「なら今は、ルナとソラに何かあったって決まったわけじゃない」
「分かっています」
「本当に?」
「……頭では」
◇ ◇ ◇
ミレイが少しため息をつく。「私も怖いよ。でも、だからこそ先に二人の顔を見よう」
「記録より?」
「うん。でも、もし記録が――レオ、先に子供」
レオが黙る。そして、「……はい」
「よし」
「ですが、到着したら本当に最初に二人のところへ行きます」
「そのつもり。市政局より先に? 記録確認より先?」
「先です」
「分かりました」
レオがようやく紙を鞄へしまった。
◇ ◇ ◇
フェルトハイム、夕方。城門で馬車が止まる前に、レオは扉へ手をかけた。
「まだ止まってません」
「分かっています」
「じゃあ待って」
馬車が止まると、レオは即座に降りた。
「早い」
「あなたも同じでしょ」
避難先は以前と同じ建物だった。入口には護衛が二人。
「殿下」
「子供たちは?」
「中です、無事です」
その一言で、レオの肩が僅かに落ちる。だが、まだ足は止まらない。
扉が開くと、「母さま!」最初にルナが走ってきた。ミレイがしゃがんで抱き締める。
「遅い!」
「ごめん!」
「本当に遅い! 何日!」
「……いっぱい」
「いっぱいじゃない!」
その後ろから「おとうしゃん!」とソラが両手を上げて走ってくる。レオが抱き上げた。
「おみやげ!」
「……」レオが止まる。
「レオ」ミレイがゆっくり見る。
「買いました」
「本当に?」
「馬車の中です」
「よかったね」
「信用が完全にない気がします」
◇ ◇ ◇
ソラがレオの頬を両手で挟む。「どうした、おかお、へん」
「怖い顔してるってことじゃない?」とミレイ。
ルナも近づく。「父さま、また何かあった?」
レオが一瞬答えに詰まる。「ありました。でも今、あなたたちが無事なのを確認しました」
「じゃあ、もう大丈夫?」
その言葉を、レオは簡単には言わなかった。「まだ確認したいことがあります」
「また?」
「はい。でも今日は」レオは娘の頭を撫でる。「ここにいます」
「本当? 夜も? 朝まで? 途中でいなくならない?」
「なりません。約束します」
その時、奥からセリーヌが勢いよく現れた。「帰ってきた! もう、本当に遅い!」
「すみません」
「レオ様じゃなくて、ミレイ! あなたも!」
「ごめん」
「子供二人とずっと一緒だったんだから!」
「ありがとう」
「……」セリーヌが少し言葉に詰まる。「急に素直に言わないで」
「何それ」
◇ ◇ ◇
夕食の席で、ルナが王都の話を何度も聞きたがった。「父さま、本当にみんなの前でレオって言ったの?」
「誰から聞きました」
「セリーヌお姉ちゃん」
レオがセリーヌを見る。セリーヌは目を逸らした。「広まってるから仕方ないでしょ」
「レオって、父さまの本当の名前?」
「……少し違います。本当の名前というより、私が好きな呼ばれ方です」
「じゃあ父さまじゃなくて、レオって呼ぶ?」
「それは」レオが明らかに困る。「父さまでお願いします」
「なんで」
「父さまだからです」
「じゃあ」ソラが言う。「れおとうしゃん」
ミレイが吹き出す。「それいいね」
「よくありません」
「れおとうしゃん!」
セリーヌまで笑っている。
久しぶりに家族だけのような時間が流れた。それでもレオの中には、あの紙の文字が残っていた。**対象記録――出生。**
◇ ◇ ◇
子供たちが眠った後、レオ、ミレイ、セリーヌ、リアム、そして市政局の責任者が小さな部屋へ集まった。
「では」リアムが言う。「確認します」
机の上には、ルナとソラの三種類の記録――出生届、教会の記録、市政局の住民記録が並ぶ。
「全部残ってる?」ミレイが見る。
「はい」市政局責任者が答える。「現時点では削除されていません」
「内容は?」
ルナの記録には、出生地フェルトハイム領内、父レオン、母ミレイ、出生年月日と、問題のない内容が記されている。ソラも同様だった。
「普通」ミレイが呟く。
「はい」リアムが頷く。「ですが、一覧に名前があった以上、何か理由があります」
◇ ◇ ◇
「出生記録の原本と写しは?」レオが尋ねる。
「両方あります」
筆跡、署名、印を順番に確認していく。
「ルナさん、問題なし。ソラさん――」そこでリアムの手が止まる。
「何です」
「こちら」
ソラの出生記録の余白に、小さな訂正印があった。
「これ、前から?」ミレイが聞く。
市政局責任者が眉を寄せる。「……覚えがありません」
「訂正内容は」
裏に記載があった。**父親表記修正。**
部屋が静かになる。
「父親? 何を修正したんです」レオの声が低くなる。
さらに確認すると、現在は「父――レオン」。だが修正前は、薄く消された文字が下に僅かに残っていた。
「読める?」
「一部」
リアムがランタンを横へ向ける。紙の凹みを読み取る。「……父、次、不明」
ミレイの顔が強張る。「不明?」
「修正前は父親不明。そう記載されていた可能性があります」
◇ ◇ ◇
レオが完全に動かなくなる。
「待って」ミレイがすぐに言う。「それ、おかしい。ソラが生まれた時、レオはちゃんといた。出生届も一緒に出したよね」
「……はい」
「じゃあ最初から父親不明なわけない」
「つまり」リアムが言う。「どこかの時点で一度、父親不明へ書き換えられ、その後再びレオンへ戻された可能性があります」
「何のために?」セリーヌが問う。「意味ないじゃない、今の記録だけ見れば」
「分からないから、意味がある」
「マルセル」レオが言う。
「実験?」
「可能性があります。一度父親を消す、その後戻す」
「でも、誰も気づいてない」
「はい。それを確認したかった?」
◇ ◇ ◇
レオは紙を見つめる。訂正、消して、書く、そしてまた戻す。
「ルナは?」
「こちらもあります」リアムが細かく見ていく。「出生地、現在はフェルトハイム領内。その下、訂正前――」
薄い文字で、**王都**とあった。
「王都? ルナはここで生まれたよ」
「はい」レオが断言する。「間違いありません」
「では、こちらも一度王都生まれへ変更され、戻されている」
「どうしてそんな、意味のないこと」とセリーヌ。
「意味は」レオが静かに言う。「あります。誰も気づくかどうか、です」
全員がレオを見る。
「子供たち自身は出生記録を見ない。周囲の大人も普段は確認しない。だから一時的に書き換えても日常は変わらない。でも、必要になった時、紙だけ見れば、その紙が現実になる」
◇ ◇ ◇
「ルナは王都生まれ、ソラは父親不明」ミレイが顔をしかめる。「そんなの、紙に書いてあるだけなのに」
「はい。でも何十年後、本人が見たら?」リアムが続ける。「自分の記憶より記録を疑うかもしれない。あるいは、親から聞いていた話を疑う」
「最悪」セリーヌが低く言う。「子供にまで」
「はい」レオの拳が強く握られる。
ミレイがその手へ触れる。「レオ、今、怒ってる?」
「かなり」
「うん。でも、何も壊しません」
「そこは聞いてない」
◇ ◇ ◇
「記録をいつ訂正したか分かりますか」レオが尋ねる。
市政局責任者が管理簿を持ってくる。過去の閲覧・修正申請を辿ると、一年前、ルナとソラの出生記録が同日に「修復作業」として扱われていた。
「修復?」
「古い文書の劣化点検として、外部の修復士が閲覧しています」
「名前は」
「エドワード・グレイ」
全員が黙る。
「マルセル、同じ偽名」ミレイが言う。
「はい。王宮へ入った時と同じです」
「一年前からフェルトハイムに来ていた」
「もっと前かもしれません。一覧に他の記録もある可能性があります」
「調べます」
「この街全部?」
「必要です」
◇ ◇ ◇
その時、ミレイがふと顔を上げる。「待って。ルナとソラの出生記録を、なんで選んだの。たまたま?」
誰もすぐには答えない。
「レオと私の子だから?」
「可能性は高いと思います」リアムが言う。「レオの王子としての正統性、親子関係、家族――そこまで記録で揺らせるか、試した?」
「おそらく」
レオの目が冷たくなる。「マルセルに直接聞きます」
「王都戻る?」
「いずれ」レオが一度止まる。子供たちが眠っている部屋の方を見る。「今日は戻りません」
◇ ◇ ◇
ミレイが少し驚く。「本当に?」
「はい。約束しました。ルナに、朝までいると」
「うん、なら守ります」
その夜、ルナとソラは同じ部屋で眠り、レオとミレイは床に簡単な寝具を敷いた。
「父さま」暗い中、ルナの声。「起きてる?」
「はい」
「まだ怖い顔?」
「……少し」
「何かあった? 私たち?」
レオが止まる。
「どうして分かったんです」
「父さま、私たち見る時、ずっと変な顔してる」
ミレイが暗闇で少しだけ笑う。「ばれてる」
◇ ◇ ◇
「ルナ、一つ聞いてもいいですか。あなたはどこで生まれたと思っていますか」
「ここ、フェルトハイム」即答だった。
「どうして」
「母さまが言ってた。セリーヌお姉ちゃんも。それから家に小さい時の布がある。この街のお店の印ついてるやつ」
レオが目を閉じる。紙一枚に王都と書かれても、それだけが全部ではない。
「そうですか」
「うん。何で聞いたの」
「確認です」
「また?」
「はい」
「父さま、紙に違うこと書いてあった?」
レオが完全に黙る。ミレイがゆっくり起き上がる。「ルナ、鋭すぎない?」
「だって大人、最近ずっと紙の話してる」
レオが小さく笑った。「そうですね。紙に一時的に、違うことが書かれていました」
「どんな」
「あなたが王都で生まれたと」
「えー」ルナがすぐに言う。「違うよ」
「はい、知ってます」
「じゃあ直せばいいじゃん」
レオが止まる。「……はい」
「それだけ?」
「それだけです」
「父さま、考えすぎ」
ミレイが布団の中で笑いを堪えている。
「聞きました?」
「聞いた」
「笑ってますね」
「笑ってない」
「笑ってます」
◇ ◇ ◇
反対側で、半分眠ったままのソラが「おとうしゃん」と呼ぶ。
「はい」
「そら、とうしゃんのこ?」
レオの呼吸が止まる。
「誰からそんなことを聞いたんです」
「だれも」
「じゃあどうして」
「おはなし、きいてた」
眠っていると思っていた時、大人たちの会話が少し聞こえていたらしい。
レオは布団から起き上がり、ソラの小さな手を握った。「はい。あなたは私の子です」
「かみは?」
また紙だ。レオはほんの少し笑う。「紙に何と書いてあっても、です」
「ほんと?」
「本当です」
「母さまも?」
ミレイがソラの反対側から手を握る。「もちろん」
「そっか」
ソラはそれだけで安心したのか、すぐ目を閉じた。
◇ ◇ ◇
しばらく誰も話さなかった。やがてミレイが小さく言う。「レオ、今、少し分かった? 記録より先に子供に会ってよかったでしょ」
レオは暗闇の中、ルナとソラ二人の寝息を聞く。「はい。かなり」
「でしょう」
「でも、これをしたマルセルには、やっぱりかなり怒っています」
「それは、怒っていい」
◇ ◇ ◇
翌朝、市政局で追加調査が行われた。マルセル――エドワード・グレイ名義――が一年前、出生記録の前後に何を閲覧したか、一覧には十七件あった。
「多い」
「はい」
出生、死亡、婚姻、土地、税。そして一つ、レオの目が止まる。対象「マリア・ベルン」、記録種別「薬師登録」。
「マリアさん? おばあさん?」
「はい。マリアさんの記録も、マルセルが見ている」
「何を書き換えたの?」
確認すると、薬師登録には師事した人物や過去の勤務先が記されている。リアムが手を止めた。「……これは」
「何」
マリアの以前の勤務先は、現在「フェルトハイム近郊・村薬師」。だがその前、消された文字が薄く残っていた。「王宮薬剤室」。
◇ ◇ ◇
ミレイが完全に固まった。「……王宮? マリアおばあさんが?」
レオも記録を見る。「クララさんの話では、マリアさんはアデライド王女の薬に関わっていた」
「でも」ミレイが言う。「村の薬師になる前に、王宮で働いてたってこと?」
「記録が正しければ」
その下には訂正履歴があり、「勤務歴削除申請」、日付は十七年前とある。
「誰が」
「申請者――マリア・ベルン本人」
ミレイが顔を上げる。「自分で消した?」
「そう見えます」
「でも本当に本人? 確認が必要です」
そして、その横には後年の閲覧者として、一年前「エドワード・グレイ」の名があった。
「マルセルは」ミレイが低く言う。「マリアおばあさんの昔のことも知ってた」
「おそらく。そして」レオが続ける。「もしかすると、マリアさんが自分で消したはずの過去を、もう一度使おうとしていた」
子供たちの出生記録、マリアと王宮薬剤室、アデライド王女――すべてがまた一つの線へ繋がり始めていた。




