第242話 マリアが消した過去
「勤務歴削除申請。申請者――マリア・ベルン本人」
その文字を前に、ミレイはしばらく何も言えなかった。
「マリアおばあさんが、自分で、王宮で働いてた記録を消したってこと……?」
「そう見えます」とリアムが答える。「ただし、申請書の署名が本当に本人のものかは、まだ確認できていません」
「十七年前」とミレイが言う。「ちょうどアデライド王女が亡くなって、ノアさんが王宮から離された頃だよね」
「はい」レオが頷く。「時期は、かなり近いです」
◇ ◇ ◇
「王都へ戻る?」セリーヌが不安そうに聞く。レオはすぐには答えなかった。昨日、ルナに朝までいると約束し、その約束は守った。だがマリア、王宮薬剤室、アデライド王女、マルセル――今度の情報は、明らかに王都側の過去へ繋がっている。
「まず、マリアさん本人に聞きます」とレオが言った。
「王都へ行く前に?」
「はい。本人がフェルトハイム近郊にいるなら、記録より先に本人です」
ミレイが少しだけ笑う。「昨日の夜のこと、ちゃんと覚えてる。学習しました」
マリアは今も、ミレイが育った村で薬師を続けている。フェルトハイムから半日もかからない。
「今日中に行ける?」
「行けます」とリアム。「ただ、マリアさんがすぐ話してくださるかは別問題ですが」
ミレイは少し顔を引きつらせる。「私も、自信ない」
「怖いんですか」
「怖いよ。マリアおばあさんだよ?」
「私には優しい印象しかありませんが」
「それはレオが王子だから」
「関係あります?」
「あると思う。薬草間違えた時のマリアおばあさん、知らないでしょ」
「知りません」
「知らない方がいい」
◇ ◇ ◇
その日の昼、ルナとソラには村へ行ってくると説明した。
「また行くの?」ルナがすぐに不満そうな顔をする。
「今日は夜までには戻ってくる」ミレイが娘の前へしゃがんで言う。
「ほんと?」
「ほんと」
「父さまも?」レオが即答する。「戻ります」
「約束?」
「約束です」
「れおとうしゃん」ソラが呼ぶ。
「……まだ続いているんですか」
「れおとうしゃん、父さまで、れおとうしゃん」
ミレイが笑いを堪える。「気に入ったみたい」
「困りました」
「いいじゃん」
「よくありません」
◇ ◇ ◇
村へ向かう馬車の中、ミレイは窓の外を見ながら、珍しく静かだった。
「聞きたいこと、整理しておきますか」とレオ。
「うん。まず、王宮で働いていたか。アデライド王女の薬に、どこまで関わっていたか。勤務歴削除申請を本当に本人が出したか。それから」ミレイが自分から続ける。「マルセルを知ってるか。エリアスは?」
「あと」ミレイが言う。「何で私に何も言わなかったのか」
レオが少しだけミレイを見る。「そこ、聞きたいですか」
「聞きたい。でも、責めたいのかは分からない」
「それでいいと思います。分からないまま聞けばいいです」
夕方前、村に着く。見慣れた道、家、畑、薬草の匂い。ミレイが少しだけ表情を緩める。「変わってない」
「久しぶりですか」
「うん。ちゃんと帰ってなかったから」
工房の木の扉の前で、ミレイは数秒立ち止まった。
「どうしました」
「ちょっと緊張」
「私が先に?」
「それは嫌」
「では、一緒に」
「うん」
◇ ◇ ◇
扉を開けると、乾燥薬草、棚、瓶、机、そして奥に人影があった。
「遅い」
声に、ミレイが固まる。「……マリアおばあさん」
「帰ってくるなら先に知らせな」
白髪、小柄、相変わらず鋭い目のマリア・ベルンだった。
「ごめんなさい」
「謝るくらいなら最初からやりな」
「王子様まで」マリアがレオを見る。
「いや、今は」ミレイが少し困る。「その話、長くなる」
「聞いてるよ。村まで噂くらい届く」マリアがレオを見る。「レオ、って呼べばいいのかい」
レオが一瞬目を見開く。「……はい」
「なら座りな。話がある顔してる」
机を囲んで四人――マリア、ミレイ、レオ、リアム。ガレスは外で護衛についた。
◇ ◇ ◇
レオが記録の写しを机へ置く。「これを確認してほしいんです」
マリアは一目見て、顔がほんの僅かに変わった。だがミレイには分かった。「知ってるんだ」
マリアは黙る。
「マリアおばあさん、これ自分で消したの?」
長い沈黙のあと、マリアが答えた。「……ああ」
ミレイが息を止める。「本当に? 申請書も?」
「私が出した」
「どうして、王宮にいたことを消す必要があったの」
マリアはしばらく机を見ていた。「生きるためだよ」
「誰から」とレオ。「白鴉?」
「白鴉だけじゃない」
「じゃあ」
マリアがゆっくりレオを見る。「王宮そのものからだよ」
◇ ◇ ◇
ミレイの顔が強張る。「王宮が、マリアおばあさんを?」
「当時は誰が味方で誰が敵か分からなかった。アデライド様が亡くなった。ルシアン様が消えた。薬の記録も変わった。証言も変わった。その後、私のところにも人が来た」
「誰」
「分からない」
「何を聞かれたんです」とリアム。
「アデライド様の最後の薬。私が何に気づいたか。誰に話したか。何を持っているか」
「それで?」
「何も答えなかった。翌日、私の薬剤師登録が一部書き換えられていた」
「何を」とミレイ。
「王宮薬剤室で働いた期間が短くなってた。最初は半年、その次は三か月、最後には勤務歴そのものが消えかけていた」
「誰かが段階的に?」とレオ。
「そうだよ」
「それで自分から全部消した?」
「ああ」
「どうして」
「中途半端に他人に書き換えられるくらいなら、自分で王宮との繋がりを切った方がいいと思った」
「でも、それ、白鴉と同じじゃ」
ミレイが途中で止まる。
◇ ◇ ◇
「分かってる」とマリア。「自分で自分の過去を消した。でも当時はそれしか逃げ道がないと思った」
「村へ来たのも?」
「そうだ。ここなら王宮から離れてる。薬師としてやり直せる」
「マリアおばあさん、私にずっと何も言わなかった」ミレイの声が少し揺れる。
「言う必要がなかった」
「あるよ、私には」
「なかった。何で巻き込みたくなかったからだよ」
ミレイが黙る。また同じだ。守るため、知らせない、決めさせない。レオもそれに気づく。マリアも気づいたのか、苦い顔をした。「……そういう顔するな」
「どんな顔」
「お前ら、最近そういう話ばっかりしてる顔だ」
「実際、そういう話ばかりです」とレオ。
「そうかい。なら私も間違えたんだろうね」
ミレイが顔を上げる。「認めるの?」
「認めるよ。全部話す必要はなかったと思う。でも、何も話さないのも違った」
◇ ◇ ◇
「アデライド王女の薬、何に気づいたんです」とレオ。
マリアの表情が変わる。「量だよ」
「鎮静用の薬草?」
「それだけじゃない。組み合わせだ。熱を下げる薬、眠らせる薬、痛み止め。一つ一つはおかしくない。でも全部合わせると、弱った体には重すぎた」
「誰が変えた」とリアム。
「王宮医、オーウェン・フェリス」
「マルセルではない?」
「処方そのものを変えたのはフェリス。マルセルは確認欄に後から入った」
「マルセルを知っていた?」とレオ。
「知ってる」
「どんな人でした」
「嫌な男」即答だった。ミレイが少し目を見開く。「そんなにはっきり?」
「ああ。患者を人として見てなかった」
「薬を飲んだ後眠れたか、痛みが減ったか、そういうことより、誰が何を記録したか、家族が病状をどう理解したか、医師の説明で認識がどう変わったか――そっちばかり聞いてた」
「今と」とミレイ。
「同じ」
「そうだね」
◇ ◇ ◇
「アデライド様が亡くなる前、私はマルセルに薬を減らすべきだと言った。反応は『記録上は適正です』それだけ。私は患者を見ろって怒鳴った」
レオが僅かに目を伏せる。記録上は適正。だが目の前の患者は弱っていた。
「その後二日後、アデライド様が急変した。マルセルは病死と記録すべきだと言った」
「病死と?」とリアム。
「そう。でも私は薬の影響を調べるべきだと言った。結果は調査されなかった」
「なぜ」
「翌日、薬剤記録の一部がなくなった」
「持っていたものは、ありませんか」とレオ。
「ある」
全員が止まる。「何」とミレイ。
「写しだ。アデライド様の最後の一週間の薬の記録」
◇ ◇ ◇
「持ってるの!?」ミレイが思わず立ち上がる。
「大声出すんじゃない」
「だって! 今まで、それ言ってよ!」
「言ったら、お前がこんなことになると思ってなかったんだよ!」
「こんなことって何!」
「王子拾って、王宮の秘密に首突っ込んで、国中走り回って、二人も子供作って――最後だけ関係ない!」
レオが僅かに咳払いをする。「……二人も、今そこ拾わなくていい」
「はい」
◇ ◇ ◇
マリアが奥の棚から薬瓶をいくつか動かし、その後ろの木板を外す。小さな包みが現れた。
「ずっとここに?」とリアム。
「ああ。誰にも見せていない」
「マルセルは?」
「見つけてない。たぶんね」
布を開くと古い紙が数枚、マリアの手書きで日付、薬、量、患者の状態が記されていた。王宮の正式記録にはなかった一文もある。
服用後、呼吸浅くなる。
翌日には、服用量減少を提案。却下。
さらに、M.G.――記録上問題なしと発言。
「M.G.」とミレイ。「マルセル?」
「そうだ」
「本人?」
「間違いない」
最後の日の記録には、**夜、意識混濁。薬中止を要求。王宮医フェリス、継続を指示。M.G.同意。とあり、その次は空白、そして翌朝、死去。**と続いていた。
◇ ◇ ◇
ミレイの指先が冷たくなる。「これ、ノアさんに見せないと」
「はい」とレオ。「でも、まず複製を作ります。原本はマリアさんが持っていてください」
「いいのかい」
「はい。一か所に集めない方がいい」
マリアが少し笑う。「少しは学んだみたいだね」
「かなり」
「もう一つ」マリアが言った。「マルセルはアデライド様の死後、私のところへ一度来た」
「いつ」
「三日後」
「何を」
「聞いた。私が何を覚えているか」
「何て答えたの」とミレイ。
「覚えてない」
「嘘を?」
「そうだ」
「マリアおばあさんが?」
「生きるためなら、それくらいする」
「マルセルは信じた?」
「いや」
「何て」
マリアの目が細くなる。「『では、いつか記録の方があなたの記憶になります』」
◇ ◇ ◇
部屋が静かになる。
「それ、脅し?」とレオ。
「当時はそう思った。今なら違うと思う」
「何だった」
「予告だよ」
「私の勤務歴、薬の記録、アデライド様の死――全部、後から紙の方へ人の記憶を合わせる。そのつもりだった」
「でも」とミレイ。「マリアおばあさんは覚えてた」
「ああ。記録を消しても、人は全部消えない」
マリアがミレイを見る。「お前らが今、証明してるんだろ」
◇ ◇ ◇
その時、外からガレスの声が響いた。
「レオ!」
「何です!」
「村の入口! 騎馬! 王都からだ!」
全員が外へ出る。騎士が一人、馬から降りる。「レオン殿下! 急報です!」
「何が」
「マルセル・グレイが――」
レオの顔が変わる。「逃げた?」
「いいえ! 取調べ中、倒れました」
「何?」
「意識がありません!」
「原因は」
「不明です! 医師は呼んでいます。ただ」騎士が息を整える。「同じ部屋にいたエリアス・ヴァレンが、こう言っています」
「何と」
騎士が答える。「マルセルは、自分に同じことをした――と」
◇ ◇ ◇
「同じこと?」ミレイとレオはすぐに理解する。薬、記録、死、そして意識――「毒?」
「分かりません」
「王都へ戻ります」レオが即座に言う。
マリアが声を上げる。「待ちな」
「何です」
「私も行く」
「マリアおばあさん?」
「薬の話なら私がいる」
「でも今さら」
「隠れてる場合じゃない」
ミレイが少しだけ驚いて、そして笑う。「やっと?」
「うるさい」
「はい」
◇ ◇ ◇
帰りの王都への道。マルセル意識不明、そしてエリアスの言葉――「自分に、同じことをした」。それが何を意味するのか、まだ分からない。ただ、マルセル・グレイは最後まで、他人だけを実験に使っていたわけではない。その可能性が、初めて浮かび上がっていた。




