第239話 原本公開
翌日、正午を待たずして、王都中央広場は人で埋まっていた。昨日よりもさらに多い。王都の住民、商人、地方から来た者、貴族家の使い、新聞屋、王宮の職員——そして、ただ何が起きるのかを見に来た人々が、広場を埋め尽くしていた。
「本当に原本を出すのか」「王家が隠してたって」「レオン殿下の身代わりの証拠も」「ノアのこともあるらしいぞ」「先王が村人を実験に使ったって話は」「全部本当なのか」。声が声を呼び、広場全体が一つの巨大なざわめきになっている。
◇ ◇ ◇
王宮側の控えの部屋で、レオは机に並べられた道具を見ていた。紙質確認用の見本、王家で使われていた古い印章の記録、歴代の署名見本、封蝋の比較資料。王室監査院の担当官、議会側の記録官、王宮記録局の職員も揃っている。
「これだけ揃えれば」とミレイが言う。「その場で本物か調べられる?」
「完全には無理です」リアムが答えた。「年代測定のようなことは、ここではできません。でも、紙、筆跡、印、保管番号、過去の記録との一致——そこまでは確認できます」
「つまり」レオが言葉を継ぐ。「その場で本物だと断定するのではなく、どこまで一致しているかを公開する」
「はい」
◇ ◇ ◇
ミレイが少しだけ声を落とした。「レオ、大丈夫?」
「何がです」
「今日、たぶん、もっと色々言われるよ」
「そうでしょうね」
「怖い?」
「はい」レオはすぐに答えた。「かなり」
「でも行く?」
「行きます」
「うん」ミレイがレオの袖を少しだけ掴む。「じゃあ、終わったらちゃんと戻ってきて」
「どこへ?」
「私のところ」
レオが一瞬黙る。「それは——絶対です」
◇ ◇ ◇
別室で、セドリックは一人で座っていた。王冠はない。今日、王として壇上へ立つが、華美な装いをあえて避けている。扉がノックされた。
「入れ」
「失礼します」レオだった。
「どうした」
「確認です。本当に、出ますか」
「……今さらか」
「はい。今なら、まだ陛下が出ず、私たちだけで資料を確認することもできます」
「レオン」セドリックがゆっくり言う。「私はお前に、自分の過去を話せと言った」
「正確には、止めようとはしました」
「そうだったな。でも結局、お前は自分で出した。なら、私だけ王宮の奥へ隠れるわけにはいかん」
「陛下、今日、王でいられなくなる可能性もあります」
セドリックが少しだけ笑った。「それを、お前が言うのか」
「経験者なので。まだ王子の立場がどうなるか、決まっていませんが」
「そうだったな」
「怖いですか」レオが聞いた。
セドリックは少し黙った。「怖い」
レオの目が僅かに動く。
「王になってから、そんな言葉をほとんど言わなくなった」
「……私もです」
「似たところだけ、親子だな」
レオは返事をしなかった。だが、否定もしなかった。
◇ ◇ ◇
正午。鐘が一度、二度、三度と鳴り、広場が静まり始める。王宮側の壇上には、レオ、セドリック、ノア、グレイストーン、王室監査院、議会代表、記録局、ガレス、リアム、そして少し後ろにミレイが並んでいた。ミレイは今回、壇上に立つことを自分で選んでいた。
「来た?」ミレイが広場を見渡す。
「まだです」
正午を少し過ぎた頃、人々がざわめき始める。「逃げたんじゃないか」「最初から嘘か」「王宮が捕まえたのか」——そのとき、広場西側の人垣がゆっくりと割れた。一人の男が姿を現す。灰色の外套、六十代ほど、痩せた顔。左手には小さな革手袋、その手に大きな木箱を抱えている。
「マルセル」レオが小さく言った。男は護衛もなく、一人で歩いてくる。近衛が動こうとする。
「待ってください」レオが止めた。
「でも」ガレスが言う。「今なら捕まえられる」
「はい。でも先に、何をするつもりか見ます」
「逃げたら?」
「その時は、捕らえます」
◇ ◇ ◇
マルセルは壇上の下で止まった。「レオン殿下」
「マルセル・グレイさん?」
「そう呼ばれていた」
「……あなたもですか」
「何が」
「自分の名前を素直に認めない人が多いなと」
マルセルがほんの少し笑った。
「箱を、ここへ」レオが言う。
近衛が二人、受け取ろうとする。
「触れる前に」リアムが確認する。外側、底、留め具、仕掛け——見える範囲にはなし。「運んでください」
木箱が壇上中央へ置かれる。広場は静寂に包まれた。マルセルもゆっくりと壇上へ上がる。
「彼を」セドリックが見る。「拘束しないのか」
「逃走した人物です。本来なら今すぐでも」ガレスが言う。
「分かっている」レオが応じる。「でも、公開すると言った資料を、ここでまず確認します」
◇ ◇ ◇
マルセルが群衆を見る。声は大きくないが、広場は静かで、よく通った。
「皆さん、今日、私は王家を告発するためにここへ来たのではありません」
ざわめきが起こる。「じゃあ何だ」誰かが叫ぶ。
「確認してもらうためです。皆さん自身に、何が書かれていたのかを」
「あなたが結論を決めない?」レオが聞く。
「そうです。私は記録を出すだけです」
「その記録を、盗み出したのに?」
マルセルがレオを見る。「盗んだという記録は、ありますか」
「……今のところ、保管庫から消えたこと、あなたが偽名で閲覧した記録があること、そこまではあります」
「では、それ以上は、まだ分からない」
「そうですね」レオが答えた。「だから今日、確認します」
マルセルは僅かに満足そうに笑った。「あなたは、やはりエリアスより扱いにくい」
「褒め言葉として、受け取っておきます」
◇ ◇ ◇
箱が開かれる。最初の一枚——古い書類。表題は「レオン王子代替措置に関する臨時決定書」。広場がざわめく。レオは視線を逸らさない。
「確認します」リアムが言い、王宮記録局、監査院、議会側記録官の三者が同時に文書を見る。
「紙——当時王宮で使われていたものと種類は一致。印章——王室内務印、形状一致。署名——」全員の目がセドリックへ向く。
「……私のものだ」
広場が大きく揺れる。
「読んでください」「何が書いてある」「全部読め」
セドリックが一度目を閉じた。「私が読む」
レオが王を見る。「陛下」
「私が署名した。なら、私が読む」
セドリックが一歩前へ出る。「本来のレオン王子死亡に伴い、王宮内外の混乱を避けるため、容姿、年齢その他の条件が近い少年を、一時的にレオン王子として扱う」
ミレイの手が強く握られる。レオは表情を変えない。
「一時的」群衆から声が上がる。「何年やってたんだ」「ずっとじゃないか」「騙してたのか」——怒号が飛ぶ。レオはそれを受ける。セドリックも黙って受けた。
続きが読み上げられる。「代替期間については、王宮内部の安定、外交状況、継承問題の整理をもって終了する」そして署名——セドリックと数名の官僚、すでに亡くなっている者もいる。
「本物?」ミレイがリアムへ小さく聞く。
「現時点で、偽造を示すものは見つかっていません」
◇ ◇ ◇
二枚目——「ルシアン・アーデル身元秘匿に関する特別指示書」。ノアの顔が強張る。セドリックが紙を見る。「これも、私の署名だ」
「読みますか」レオが聞く。
「……読む」
「アデライド王女の子、ルシアン・アーデルについて、生命への危険があるため、王宮外へ移し、身元を秘匿する。保護先において、王族であることを知らせない」
ノアが目を伏せる。「名前の変更?」群衆がざわめく。「子供本人にも」「そこまでやったのか」
最後の一節——「本人の安全が確保されるまで、この措置を継続する」
ノアが小さく笑った。「安全が確保されるまで——十七年」
レオがノアを見る。だが、今は何も言わない。
◇ ◇ ◇
三枚目——「アデライド王女最終処方記録」。ノアの顔が変わる。ミレイも前へ出る。「それ、私にも見せてください」
マルセルが紙を差し出す。「どうぞ」
薬草の種類、量、回数、変更、王宮医の署名、そして確認欄に「M. Grey」の名。
「あなた?」ミレイがマルセルを見る。
「私の名ですね」
「本人が書いたか聞いてるの」
少しの沈黙のあと、「はい」
ノアが顔を上げる。「あなたが、母の薬を確認した?」
「そうです」
「変更も?」
「一部は」
「何をした」ノアの声が低くなる。近衛が僅かに構えた。
「その話は」マルセルが言う。「この文書を確認してから」
「逃げるなよ」
「逃げません」
◇ ◇ ◇
ミレイが記録を見る。「この量、やっぱり多い。何の薬だ」
「眠りを深くするために使う薬草」ガレスが説明する。「でも、この量を弱ってる人に続けるのは危ない」
「毒?」
「違う」ミレイが首を振る。「毒じゃない。だから余計に分かりにくい。直接人を殺す薬ではない。でも、弱った体には負担になる。熱がある、食べられない、体力が落ちてる——そこにこれだけ重ねたら、悪化する可能性はある」
ノアがマルセルを見る。「知ってた?」
「知っていました」
静寂が広場を包む。「じゃあ」ノアが一歩進む。「母を殺したのか」
「断定するなら、違います」
「何が違う」「ノア」レオが前へ出て、二人の間へ入る。ノアの腕は掴まない。ただ間に立つ。
「離れて」ノアが言う。「今は、まだ聞くことがあります」
「俺の母だぞ」
「分かってます」
「分かるわけないだろ」初めて、ノアがレオへ怒鳴った。
広場が完全に静かになる。ノアの肩が震えている。
「……そうですね」レオが小さく答える。「私には分かりません。でも、だから、あなたが後で何をしたのか、自分で後悔するようなことだけは、今、止めたい」
ノアの拳が強く握られる。長い沈黙のあと、「……聞く」ようやくノアが言った。「全部、聞く」
◇ ◇ ◇
「マルセル」レオが言う。「説明してください。なぜ量を増やした」
「私が増やしたのではありません。でも、確認した」
「誰が変更した」
マルセルは王宮医の署名を指す。「この人物です」
「本人に確認した?」
「しました。指示を受けたと」
「誰から」
マルセルが少しセドリックを見る。「先王です」
「父?」セドリックが言う。「あり得ない。先王はその時すでに亡くなっている」
マルセルが静かに言う。「その通りです」
空気が変わる。「じゃあ」ミレイが言う。「死んだ人の指示書が?」
「はい」
「いつの日付で」
「先王の死の、二か月後」
「偽造」リアムが言う。「そう考えるのが自然です」
「その指示書は?」レオが聞く。
「残っています」マルセルが箱からさらに一枚取り出す。王家の印、先王の署名、薬の変更、アデライド王女の処方、日付は先王の死亡後。
「……こんなの」ミレイが言う。「明らかにおかしい」
「はい」マルセル。「だから私は、興味を持った」
ノアの顔が変わる。「興味? 死んだ王の命令書が正式な経路を通り、王宮医へ届き、誰も止めず、実際に処方が変わった。私は確認欄へ署名した」
「なぜ止めなかった」ノアが叫ぶ。
マルセルはノアを見る。「見たかったからです。どこまで、正式な形式が人間の判断を上回るか」
その瞬間、ノアが前へ出た。今度はガレスが腕を掴んだ。「離せ」「駄目だ」「こいつは」「分かってる。でも、ここで殺したら聞けるもんも聞けねえ」
◇ ◇ ◇
「あなた」ミレイがマルセルを見る。声が震えている。「人が死ぬかもしれないって、分かってた?」
「可能性は理解していました」
「それでも?」
「はい」
「……最低」
「そうでしょうね」
「何で、そんな普通に言えるの」
マルセルはほんの少し考えるように黙った。「私は、正しいことをしたとは思っていません」
「なら、どうして」
「知りたかった。それだけです」
「それで、人を使った?」
「はい」
エリアスとは違う。エリアスには怒りがあった。失われた母、消された名前、ヨハン、自分自身の存在——歪んだ理由がそこにあった。だが、マルセルは違う。
「あなたは」レオが言った。「何かを奪われたから、こうなったわけではない?」
マルセルがレオを見る。「そうでなければ納得できませんか」
「いいえ、確認しただけです」
「では答えます。私は特別な被害者ではありません。王族でもない。名前を消されてもいない。家族も普通にいた」
「では、なぜ人間は」マルセルが広場を見る。「間違えるからです。記憶を間違える、記録を間違える、人を信じる、紙を信じる、王を信じる、自分を信じる——そして、その誤りの上に社会を作る。私は、それが耐えられなかった」
◇ ◇ ◇
「だから」ミレイが言う。「自分で直す?」
「そうです」
「誰に頼まれたの」
「誰にも」
「誰が正しいって決めるの」
「私が」
広場がざわついた。レオはじっとマルセルを見る。「それが第五訂正?」
「はい。王家を、正しい形にする」
「いいえ」マルセルが首を振る。「王家を、終わらせます」
セドリックの表情が変わる。近衛が緊張する。
「どういう意味です」レオが聞く。
「王家という仕組みそのものが誤りだからです。血統、出生、継承——偶然生まれた家によって統治者が決まる。その仕組みが正しいと、なぜ言えるのです」
「言えません」レオが即答した。マルセルが僅かに目を見開く。
「レオ?」ミレイも驚く。
「王家だから正しいとは、私も思いません」
「では、私と同じだ」
「違います」
「あなたは、王家に問題がある、だから自分が終わらせる——そう言っている」
「はい」
「そこが違います。なぜ、あなたが決めるんです」
◇ ◇ ◇
マルセルが黙る。「王家が間違っているかもしれない。なら、それを国民が考えるべきです。議会も、役人も、地方も、王家自身も、全部関わって、変えるなら変える」
「時間がかかる」マルセルが言う。
「はい。人は、また間違える」
「そうでしょうね」
「なら、正しい者が訂正すべきだ」
「その正しい者が自分だと、なぜ言えるんです」
マルセルの顔から初めて僅かに表情が消えた。レオは続ける。「あなたは、アデライド王女の薬を止めなかった。それを今、間違いだったと認めています」
「はい」
「なら、あなたも間違える。間違える人間が、他の全員を訂正する? それは、王家が自分たちだけは正しいと考えるのと、何が違うんです」
広場は静かだった。群衆の中、誰かが小さく「そうだ」と言った。別の者が「王家が正しいとも思わない。でも、あの男が決めるのも違う」と続く。声が少しずつ増えていく。だが反対の声も上がる。「王家はずっと隠してた」「先王は人を殺してる」「今の王も黙ってた」「そんな奴らに任せられるか」——広場は二つに、いや、それ以上に割れ始めた。
マルセルがその様子を見て、ほんの少し笑った。「ほら、始まった」
「何がです」
「訂正です」
「違います」レオが言う。「議論です」
「同じだ」
「違います。誰かが一つの答えへ誘導しているわけではない。今は皆が違うことを言っている。それでいい」
「混乱するぞ」
「します」
「国が壊れるかもしれない」
「かもしれません」
「それでも?」
「一人が勝手に正解を決めるより、ずっといい」
マルセルはしばらくレオを見ていた。「あなたは、本当に非効率だ」
「よく言われます」
「誰に」
「主に、自分にです」
ミレイが思わず小さく笑った。
◇ ◇ ◇
「残りの原本を」リアムが言う。「確認します。リーベル試験命令書」
箱から次の古い文書が出される。先王の署名、リーベル、ヨハン・ヴァレン、命令——すでに別邸の記録と一致する部分が多い。「現時点で偽造の明確な痕跡なし」と監査官、議会記録官がそれぞれ確認する。
内容も読み上げられる。村人へ段階的に情報を流す、ヨハンを村から移送する、認識変化を観察する——そして先王の署名。広場の空気が重くなる。
セドリックが前へ出る。「この件について、私は父の死後に知った。そして、完全に公表しなかった。それは事実だ」
罵声が飛ぶ。「隠したのか」「王も同罪だ」「なぜ黙ってた」
「恐れたからだ」セドリックが答えた。声が一度止まる。「王家への信頼が崩れることを。白鴉が、さらに混乱を広げることを。そして、私自身が父と同じものとして見られることを、恐れた」
「私は間違えた」セドリックが続ける。「隠すことで、問題を消したつもりになった。実際には残した。そして今、次の世代へ押しつけた」
レオとノア、その二人を見る。
マルセルが言う。「なら、退位を?」
広場が静まる。セドリックはすぐには答えなかった。「それも、必要なら受け入れる」
「陛下」グレイストーンが顔を上げる。
「ただし」セドリックが続ける。「今、この男に言われたから、退くことはしない」
マルセルが目を細める。「なぜ」
「それでは、私もこいつの訂正に従うだけだからだ」
◇ ◇ ◇
レオが僅かに王を見る。「王家の今後について、議会、地方代表、王室監査院、そして民の意見を正式に聞く場を作る。その上で、私が退くべきなら退く」
「そんなに時間をかけるのか」マルセルが言う。
「国の形を一人で決めるよりは、ましだ」
人々がざわめく。支持、反発、怒り、戸惑い——何も一つにまとまらない。だが、レオはそれを見ていた。
「これが」ミレイが小さく言う。「正解?」
「分かりません」レオが答える。「でも、決まってないことを決まったことにしない。それだけです」
その時、マルセルが木箱へ手を伸ばした。「止まれ」ガレスが剣を構え、近衛が一斉に動く。
「最後の一枚です」マルセルがゆっくり手を止める。
「何です」レオが聞く。
「第五訂正の、本当の対象」
「王家では?」ミレイが言う。
「王家は過程です」
「では」レオが聞く。「本当の対象は」
マルセルが箱の底から一枚取り出す。白紙に近い紙の中央に、一つの言葉——「国民」。
◇ ◇ ◇
「……国民?」ガレスが聞き返す。
「はい」マルセルが言う。「王が正しい、記録が正しい、血統が正しい、自分が正しい——そのすべてを、私は訂正したかった」
「どうやって」レオが聞く。
「王家を崩す。その後、人々は何を基準に真実を選ぶと思いますか」
レオの表情が変わる。「あなた、まだ何か仕掛けてる」
「はい」
マルセルが広場の時計塔を見る。「あと少しです」
「何が」
鐘が一度鳴った。正午から半刻。同時に、王都の四方——東、西、南、北——遠く、別の鐘が次々に鳴り始めた。
「何だ」「火事か」「違う」近衛が周囲を見る。
広場へ一人の騎士が駆け込んできた。「陛下、殿下、王都各区で大量の文書が」
「何の」レオが聞く。
「それぞれ内容が違います」
「違う?」
「はい。東区ではセドリック陛下退位の正式発表。西区ではノア様即位決定。南区ではレオン殿下の王位継承承認。北区では王政廃止」
◇ ◇ ◇
広場が騒然となる。「全部」ミレイが言う。「違う」
「はい」リアムが答える。「同時に矛盾する四つの現実を流した」
マルセルが静かに笑った。「さあ、これで、王宮の発表も、議会の発表も、新聞も、掲示も——誰もすぐには信じられない」
「あなた、何がしたい」レオが聞く。
「言ったでしょう」マルセルが広場の人々を見る。「国民自身を訂正する。誰かが正しい答えを与えてくれるという、その思い込みをです」
「だからって」ミレイが怒る。「こんなことしたら、何も信じられなくなる」
「そうです。それが必要だ」
レオの顔から表情が消える。「違います」
「何が」
「何も信じられない人は、自分で考えるようになるとは限らない」
「では、どうなる」
「一番強く言う人を信じるようになるかもしれない」
マルセルの目が初めて僅かに動いた。「怖くなれば答えが欲しくなる。混乱すれば誰かに決めてほしくなる。あなたは、人を自由にするどころか、もっと操りやすくする」
◇ ◇ ◇
沈黙のあと、広場は四方から違う紙を持った人々が押し寄せてきた。「どれが本物だ」「王は退位したのか」「ノア様が王なのか」「レオン殿下は」「王政廃止って本当か」——混乱、怒号、押し合い。近衛が動く。「押さないで」「下がれ」「子供がいる」
ミレイが人混みを見る。「レオ」
「はい」
レオは壇上の前へ出る。「聞いてください」だが声は届かない。「静かに、今の四つの文書は」誰も聞かない。
マルセルがその様子をじっと見る。「これが人間です」
「違う」レオが低く言う。「何が」
「これは、あなたが混乱させた人たちです」
レオはガレスを見る。「鐘を」
「何?」
「王宮の鐘、緊急時の、全区へ届くやつ」
「ある」
「何回」
「三回長く鳴らしてください」
「リアム」
「はい」
「王宮から、今は新しい結論を出さないと通達を。内容は、四つの文書はいずれも確認が取れていない。だから行動を変えない。王も行政も、今日の朝の状態をそのまま維持」
「分かりました」
「ミレイ」
「何」
「怪我人、子供、押されてる人を」
「分かった」
「近衛、各区の掲示を回収するな」
ガレスが思わず振り返る。「剥がさない?」
「はい。その場で『未確認』と大きく書いてください。後で、どの文書がどこから出たか調べる」
◇ ◇ ◇
鐘が長く鳴る。一度、二度、三度。広場の声が少しだけ弱まる。
「皆さん」レオがもう一度叫ぶ。「今、王都に出ている四つの発表は、どれも正式確認されていません」
「では何が本当なんだ」声が上がる。
「今、新しく決まったことは何もありません」
ざわめきが起こる。「何も?」
「はい。だから今すぐ、誰かを王だと決める必要も、王政が終わったと思う必要もありません」
「分からないものは」レオが続ける。「分からないまま、止めてください」
人々が見る。「新しい紙を見ても、すぐ動かない。誰が出したか確認する。分からなければ持ってきてください」
マルセルが初めて明確に眉を寄せた。レオはそれを見る。「あなたは、人が答えを欲しがると知っていた」
「はい」
「だから、今は答えを出さない」
「それで国が動くと思うのですか」
「今日一日くらい動かなくても、国は終わりません」
「行政は?」
「今朝までの命令で動かします。新しい決定だけ止める」
リアムがその言葉にすぐ反応する。「各部署へ緊急保留命令を。既存業務継続、新規の王命、継承命令、制度変更はすべて一時保留」伝令が走る。
マルセルがレオを見る。「答えを出さないことを制度にする?」
「今だけです。でも今は、それが必要です」
◇ ◇ ◇
「マルセル・グレイ」レオがまっすぐ男を見る。「あなたの第五訂正は、ここで終わりです」
「なぜ」
「人は、あなたが思うほどすぐに一つの答えを選ばなくても生きられる」
マルセルは何も答えなかった。その時、ガレスが一歩前へ出る。「で、そろそろ捕まえていいか」
レオがマルセルを見る。「はい」
近衛が動く。マルセルは抵抗しない。「手を」ガレスが言う。マルセルは両手を前へ出した。
「逃げないんですね」ミレイが言う。
「必要ありません」
「何で」
「第五訂正は、もう始まったからです」
「終わるって、レオが言ったよ」ミレイが言う。
「今日の結果だけが訂正ではありません」
「では、何」
マルセルはレオを見る。「明日から、人々は王宮の紙を、以前と同じようには信じないでしょう」
レオは黙る。それは否定できない。「議会も、新聞も、役所も、疑われる」
「はい。それが私の目的です」
「信頼を壊した?」
「いいえ」マルセルが言う。「最初から壊れる程度の信頼だったと、示しただけです」
「違います」レオが言う。
「また?」
「信頼は壊れないものじゃない。壊れたら、作り直すものです」
マルセルが一瞬止まる。「作り直す?」
「はい」
「どうやって」
「一つずつ、また確認できるようにする。誰が出した文書か、どこで見られるか、誰が責任を持つか。間違えたら訂正する。そして、訂正した記録も残す」
「非効率だ」
「そうでしょうね」
「何年かかる」
「分かりません」
「それでも?」
「はい」
◇ ◇ ◇
ガレスがマルセルの手へ拘束具をかける。今度こそ、逃げられない。だが、レオは勝ったとは思わなかった。
王家への信頼、王宮の記録、議会、役所、新聞——すべて今日、傷ついた。マルセルを捕らえても、元には戻らない。そして、戻すべきでもないのかもしれない。
「レオ」ミレイが隣へ来る。「終わった?」
レオは広場を見る。まだ人々は互いに話している。怒っている。疑っている。考えている。
「マルセルは捕まりました」
「でも?」
「白鴉も、第五訂正も、それで全部終わりとは思いません」
「じゃあ、まだ続く?」
「はい」レオがほんの少し笑う。「でも今度は、追いかける敵がいるという意味ではありません」
「何するの」
「片づけます」
「何を」
「この国が、ずっと隠してきたものを」
◇ ◇ ◇
その言葉を、少し離れたところでセドリックが聞いていた。王はしばらく息子の背中を見つめ、やがて静かに言った。「その前に」
レオが振り向く。「何です」
「私は、決めなければならない」
「何を」
セドリックは広場を見る。「王として、これからも、ここに立つ資格が私にあるのかを」
レオはすぐには答えなかった。そして、やがて。「それは、陛下一人で決めないでください」
セドリックが少しだけ笑った。「お前なら、そう言うと思った」
◇ ◇ ◇
マルセルは捕らえられた。エリアスも王宮の監視下にいる。だが、物語は敵を捕らえて終わりではない。レオ自身が王子なのか、ノアが王族としてどう生きるのか、セドリックが王であり続けるのか、フェルトハイム、そしてミレイと二人の子供が戻るべき場所も、まだ残っている。
王国は初めて、誰かが用意した答えではなく、自分たちで次の形を考えなければならなくなった。




