第237話 書き換える者
## 王家の正式発表
王家の正式発表として、レオンの名で締結された領地契約はすべて再審査されること、そしてフェルトハイムの統治権が一時停止されることが告げられた。署名には「王室記録局長代理 マルセル・グレイ」とあった。
「……王室記録局長代理?」ミレイが紙を見て呟く。「そんな役職、あるんですか」
「役職自体はあります」リアムが答えた。「ですが、現在の局長代理は別人です。オスカー・リンドという人物で」
「じゃあ完全に偽物?」
「少なくとも、この署名と肩書きの組み合わせは正式なものではありません」
「すぐ否定を出す」とセドリックが言ったが、レオが止めた。「否定だけでは、また同じことになります。偽布告が出て、王宮が否定して、今度は否定こそ偽物だと言われる。だから先に、実害を止めます」
レオはフェルトハイムへの連絡を指示した。統治権は停止されていない、既存の命令も契約も市政局の権限もすべて継続する――その通達を、王宮、市政局、王室財務局それぞれ別系統から、紙だけでなく担当責任者同士でも確認しながら送る。複数経路で、というやり方に、ミレイがふと気づく。「それって、白鴉がやってるのと似てない?複数の場所から同じ情報を出すって」
レオは一瞬止まった。「……似ています」
「じゃあ違いは?」
「確認できることです」リアムが答えた。「誰が出したか、どこから出したか、原本はどこにあるか。受け取った側が別経路で確認できる。同じ情報を増やすこと自体が問題ではなく、確認できない状態で同じ話だけを大量に与えることが問題なんです」
ガレスが偽布告を指で叩く。「このマルセルは、どこで印刷した」
「紙、インク、活字、印章、全部調べます」レオが答える。「ただ今回は、署名という別の手掛かりがあります」
マルセル・グレイという名は、十二年前にも自分の死亡記録に使われていた。今回もわざわざ同じ名前を使っている。「隠す気がない?」とミレイが問うと、リアムが「むしろ見つけてほしい可能性があります」と返した。ガレスが顔をしかめる。「また誘導か」「その可能性は高いです」
レオは少し考え込んだ。「でも、エリアスとは違います。エリアスは自分が見ていることをこちらへ示していた――観察、選択、反応として。でもマルセルらしき人物は、自分の存在を記録の中へ混ぜている。見られたいというより、記録に残りたいのかもしれません」部屋が少し静まった。
「面白い」とエリアスが呟いた。「マルセルは昔から、自分がやったことを記録の中へ必ず残す。でも本人とは分からない形で」「なぜです」「知らない」
ガレスが呆れたように言う。「ほんとに知らないこと多いな」「人間一人の全部を知っている方が不自然だ」とミレイが庇う。「でも会ったことはあるんだよね。どんな人だった?」エリアスは少し考えてから答えた。「静か。感情を表に出さない。質問が多い。自分の話はしない。それともう一つ――人の言い間違いを異常に覚えていた。名前、日付、出来事。誰かが以前と違うことを言うと、必ず記録する」
「それ、研究みたい」とミレイ。「そうだ。人がいつ自分の記憶を変えたか、そこを見ていた」
リアムが「マルセルが本当に医師として活動していた時期は?」と尋ねると、エリアスは「知らない」としつつも、「多少の医学知識はあった。薬についてもかなり」と答えた。ノアが顔を上げる。「母の薬」部屋が静まった。「マルセルが直接変えた可能性は?」ノアの声は低かった。「あります」とリアムが答える。「ですがまだ署名だけです。本人のものか偽造か、そこから確認します」
ノアはしばらく黙っていた。「分かってる。今決めつけても仕方ない。でも――見つけたい。必ず」「はい」とレオが答えた。
「その前に、フェルトハイムだ」セドリックがレオを見る。「お前自身が行く必要は」「ありません」「即答だな」「今行けば、また王都を空けます。フェルトハイム側には市政局もロイドも使用人頭も、信頼できる人がいますし、子供たちもいます」ミレイがわずかに表情を曇らせる。「心配です」「でも」レオが言う。「心配だから全部自分で行くのは、もうやめます」「……成長したな」「またそれですか」
方針は二つ――王都内の偽布告の出所と、マルセルの過去を同時に追うことになった。リアム、グレイストーン、王宮記録局、ガレスと近衛が印刷所を洗い、レオとミレイはエリアスへの聞き取りを続けることになった。「私も?」とミレイが聞くと、「エリアスは私より、あなたへ答える時の方が余計なことを言うからです」とレオ。エリアスがわずかに眉を上げた。
小会議室で、まだ拘束の外れないエリアスに、ミレイが正面から尋ねていく。マルセルと最初に会ったのは十九年前、記録管理協会でのこと。当時四十前後に見えたから、生きていれば今は六十前後。細長い顔、黒髪、灰色の目、自分より少し低い背丈。そして左手の人差し指が曲がっていた――古傷らしい。「それ、重要じゃない?」とミレイが聞くと、レオが「外見を変えていても、残っている可能性があります」と答えた。
物を持つ時は右手をあまり使わず、左利きに見えた。字は小さく整っていて、筆圧が弱い。死亡記録の写しの署名をエリアスに見せると、「似ている」とは言うが断定はできないという。それでも十分だった。
「マルセルは、どうして記録管理協会にいたの?」とミレイ。「紹介された。ハロルド・ベインに」全員が止まった。先王の記録官、当時まだ生きていたハロルドと、マルセルは以前から面識があったという。ハロルドはマルセルを「記録に詳しい医師」として紹介した。資格があったかは分からないが、医療知識はあり、記録分析官としても働いていた。医療、記録、死亡確認、診療記録、人間の記憶――マルセルにとって全部が同じ研究対象だったのかもしれない、とレオは思う。
ハロルドとルイスがマルセルを疑っていた可能性について、エリアスは「ある」と答えた。ハロルドは死ぬ数週間前、エリアスに「マルセルから何か資料を受け取っていないか」と尋ねたという。その時点では受け取っていなかったが、ハロルドが死んだ後、差出人不明で「ヨハンの観察室記録」が届いた。今考えればマルセルからだったのかもしれない。それを見てエリアスは、自分を育てた人があそこで死んだと知り、怒った――王家を、先王を、記録を管理した者すべてを。
レオは静かに言った。「それ、マルセルがあなたを動かすために送ったとしたら?」エリアスは答えなかった。「あなたがどんな情報を与えればどう動くか、見ていた?」「……そうかもしれない」「つまり」とミレイ。「観察者が、観察されてた。そういうことです」
そこへリアムが戻ってきた。偽布告の紙は西区の印刷所ではなく、王室記録局の内部用印刷室のものだった。紙も活字もインクも一致した。利用記録によれば、昨夜、正式な作業としてオスカー・リンドの名義で印刷室が開けられていたが、本人は使用を否定しており、署名は偽造の可能性が高い。夜勤の職員が印刷室から出てくる人物を一人だけ目撃していた。六十代ほど、中程度の背丈、灰色の髪、そして左手に古い傷。全員がエリアスを見た。「人差し指は?」「曲がっていたと」「……マルセル」とミレイが小さく言う。ただし目撃者は顔を正面から見ておらず、断定はまだできなかった。
入構記録には「エドワード・グレイ」という偽名で、臨時の記録修復士として三か月前から働いていた記録があった。白鴉が本格的に動き始める前から、王宮の中に入り込んでいたことになる。今日の朝から姿はなく、宿舎はもぬけの殻。私物もほとんどなかったが、部屋の床下から古い身分証が見つかった。劣化した紙に、名前と所属と印――「マルセル・グレイ、王都監察局 外部協力医師」。加えて「第七記録庫」と書かれた紙片もあった。
セドリックによれば、王宮地下には今は使われていない保管区画「第七」があり、古い王宮医療記録、死亡記録、処刑記録、身元不明者の記録などが保管されているという。マルセルにとって理想的な場所だと、リアムの表情が険しくなった。
すぐに向かおうとするガレスをレオが止める。「相手は三か月も王宮内部で準備していました。何があるか分からない。罠も逃走経路も用意されている可能性があります」入口をすべて確認してから行くことになった。設計図には、正式な入口のほかに、かつて遺体搬送用に使われ今は塞がれているはずの狭い通路があった。換気口や排水路も含め、人が通れる大きさかリアムが調べる。
レオはミレイに「今回はここに残って」と言うが、「嫌。まだ最後まで聞いてないけど嫌」と拒まれる。第七記録庫には薬の記録もあるはずで、アデライド王女の古い薬の記録が残っているかもしれない――マルセルが薬を使う人間なら、自分もいた方がいいとミレイは主張した。「一人にはならない、勝手に動かない」という条件でレオも折れる。ガレスが笑って「もう諦めろ」と言い、ミレイは「誰のせいで私がこうなったと思ってるんです」「知らん」「かなりあなたです」とやり合った。
一刻後、レオ、ミレイ、ガレス、リアム、近衛六名が地下へ向かう。エリアスは別室で厳重監視のもと残され、セドリック、ノア、グレイストーンも上に残った。「何かあれば、すぐ戻れ」とセドリックが言う。「レオン」「何です」「……いや。戻ってこい」レオは一瞬父を見て、「はい」と答えた。
石造りの階段を下り、湿気と古い木の匂いの中、番号の振られた扉を過ぎて奥へ進むと、鉄扉に「七」の数字があった。鍵を借りて開け、中へ入る。棚が何列も並び、古い紙や革冊子の箱が積まれている。人の気配はなかったが、死亡記録や医療記録の棚を過ぎた奥の床に、新しい足跡が一筋残っていた。足跡は一番奥の壁へと続き、よく見ると棚が少しずれている。ガレスたちが棚を横へ動かすと、その後ろに設計図にない扉が現れた。
慎重に確認したうえで扉を開けると、机、椅子、ベッド、棚のある小部屋があった。衣服、水、乾燥した食料――三か月、王宮内部で誰にも気づかれず暮らせる程度のものが揃っていた。机の上には「訂正記録」と表紙に書かれた一冊の帳面があった。
開くと、ハロルド・ベイン「死亡――訂正対象」、ルイス・アルデン「死亡――訂正対象」、アデライド・アーデル「病死――訂正対象」、エリアス・ヴァレン「観察者――訂正対象」、そしてレオン「王子――訂正対象」と並んでいた。「……何これ」とミレイ。「全部、自分が正しい記録へ書き換えるつもりですか」とリアムが問うと、「そのように読めます」とレオが答えた。
次の頁には「人は誤った記録を真実として生きる。ならば、正しい記録を与えればよい」「観察では足りない。誤りは訂正されなければならない」とあった。レオの表情が変わる。「エリアスが言ったのは、観察したいんじゃなく、望んだ結論へ到達させたい、ということだったんですね」
さらに頁をめくると、「第一訂正――エリアス。観察者として完成」とあった。ミレイが息を呑む。「完成って、マルセルがエリアスを今の観察者にしたってこと?」レオは答えず、頁をめくり続ける。
「第二訂正――レオン。王族ではない。にもかかわらず、王子として社会が維持。訂正継続中」「訂正って、王子じゃないって国中に認識させることか」とガレス。「おそらく」とリアム。
続いて「第三訂正――ルシアン。消された血統を回復。本人の自己認識、未完」――ノアの名だった。そして「第四訂正――オーウェン。虚偽の王族認識を付与。比較対象として使用」。「やっぱり、オーウェンを王子にしたのはエリアスではなく、こちらでした」とレオ。
最後の頁には「第五訂正――王家」とあり、その下はまだ空欄だった。「次は王家全体?」とミレイが問う。レオは頁を見つめたまま、何を訂正するつもりなのか考え込んだ。
その時、奥から小さな物音がした。ガレスが即座に剣を抜き「誰だ!」と叫ぶが、返事はない。小部屋のさらに奥、布の向こうに細い通路があった。「逃げ道!」ガレスが走り出し、全員が続く。狭い通路を抜け、階段を上ると、王宮裏手の古い物資搬入口へ出た。
人混みの中、遠くの角を曲がる灰色の外套が見えた。「止まれ!」ガレスが追う。レオたちも続き、裏通りの人混みの中に灰色の姿を捉える。左手の人差し指が曲がっているのが見えた。「マルセル!」レオが叫ぶと、男は振り返った。
一瞬見えた顔は、痩せた六十代、灰色の目。男は驚くどころか、少し笑った。「やっと」――そう口が動いたように見えた。次の瞬間、荷車と人の流れに紛れ、角の向こうへ消えていた。
路地は三方向に分かれ、護衛が周辺封鎖のため走る。地面には一枚の白い紙が残されていた。触れずに見ると、「ようやく、私を見た。次は、何が真実かではない。誰が真実を決めるかだ」と書かれていた。「この人、エリアスより嫌かも」とミレイ。「私もです」とレオ。
紙の裏にはもう一行、「第五訂正、開始」とあった。空欄だった最後の訂正――王家。それが今、始まろうとしていた。




