第236話 十六年前の死亡記録
王都へ戻ったのは、翌日の昼過ぎだった。門をくぐった瞬間、レオは空気の違いに気づいた。
「……増えてる」
ミレイも同じものを見ていた。壁、柱、掲示板。剥がされた跡と、新しく貼られた跡。紙が、何枚も重なるように貼られている。
**「レオンの命令は有効か。」「王族でない者が下した命令に、従う必要はあるのか。」「王家は偽りによって統治されていた。」**
その横には別の紙で**「ノア・ハーディングこそ正統なる血統。」**、さらに**「オーウェン・クロフォードの出生を公表せよ。」**とあった。
「やっぱり、広がってる」とミレイが小さく言う。
「はい」とレオは紙を見たまま答えた。「しかも前より、方向がはっきりしています」
「何が」
「私の正統性を落とす。ノアの血統を押し出す。オーウェンにも王族としての疑いを残す。三人を並べるだけじゃない」
「評価の方向まで誘導している」とリアムが続けた。
「そうです。エリアスの観察とは明らかに違う」
拘束された馬車の中、エリアスは窓の外を見ながら「これは私の指示ではない」と言った。「今はお前の自己申告を証拠にはしねえぞ」とガレスが返すと、「当然だ。そこは素直だな」と応じた。
王宮の正門は以前より警備が増えていた。中へ入ると、グレイストーン、ノア、オーウェン、数名の側近が待っていた。
「陛下!」グレイストーンがセドリックへ駆け寄る。「ご無事で」
「すまなかった」
「すまなかったではありません! ……それは後で聞きます。必ず後で」
珍しく、グレイストーンが本気で怒っていた。
ノアはレオを見て「見つかった?」と尋ねた。
「いろいろ」
「その顔、よくない方?」
「かなり」
「分かった。後で全部聞く」
オーウェンもエリアスへ視線を向け「そいつが?」と聞く。「おそらく。エリアス・ヴァレン、と本人は名乗っています」とレオが答えると、「面倒くせえな」「同感です」とやり取りが続いた。
「まず、確認したい物があります」とレオが全員を見て言った。「ハロルド・ベインとルイス・アルデンの死亡記録。十六年前のものです。可能なら同時期の監察局関係者の死亡記録も」
「すぐ用意する」とグレイストーンが応じ、続けてレオは「オーウェン、エドガーさんから古い聖書を遺されていませんか」と尋ねた。
オーウェンの顔が止まる。「……ある。俺の部屋に。なんで知ってる」
全員がエリアスを見た。「こいつ?」「はい」「嫌な流れだな」
護衛がすぐに私物を取りに向かい、一同は小会議室へ移動した。セドリック、レオ、ミレイ、ガレス、リアム、クララ、ノア、オーウェン、グレイストーン、そして拘束されたエリアス。
「まず私から説明する」とセドリックが言うと、グレイストーンは腕を組み「王宮から黙って消えた件からか」と迫った。「当然です」「……分かった」
セドリックは、先王の別邸リーベルでのこと、若い頃に白鴉の初期研究を知ったこと、アデライドと共にそれを止めようとしていたこと、そしてレオを本来のレオン王子の代替として長く置き続けた理由まで、すべて話した。ノアは途中から何度も口を挟みそうになったが、最後まで黙って聞いた。
「……陛下」話が終わると、ノアが静かに尋ねた。「母は、あなたと一緒に白鴉を調べていた?」
「そうだ」
「じゃあ、母が死んだ後、俺を王宮から出したのもあなた?」
「直接命じたのは私ではない」
「でも、知ってた?」
「後から知った」
「止めなかった?」
「……止めなかった」
ノアの手が強く握られる。「なんで。王宮に置くより遠ざけた方が安全だと思った。アルバート・ハーディングなら守れると、だから俺は何も知らずに育った?」
「そうだ」
「名前も、母親も、全部」
「……そうだ」
ノアは少しだけ笑った。「それ、エリアスとやってること、そんなに変わらないな」
部屋が静かになる。セドリックは否定しなかった。「そうだな」
「言い訳は?」
「ある。でも、今はしない」
ノアはそれ以上何も言わず、ただ視線を落とした。レオはノアを見たが、声はかけなかった。今は、答えを急がせない。
護衛が戻り、古い革表紙の聖書を差し出した。「これだ。叔父から遺品として渡された」とオーウェンが受け取る。「読んだことは?」「何度か」「変なところは?」「ない」
「表紙の内側」とエリアスが言う。ガレスが睨みつつ「本当に余計な仕掛けねえだろうな」と確認すると、「ない。信用しない。好きにしろ」と返した。
リアムが聖書の表紙、角、縫い目を確認していく。「ここ」と指先でわずかな段差を見つけた。「二重になっています」
「開けられる?」とミレイが聞く。「糸を切れば。ただ、元に戻せません」
「やってくれ。俺のだ。構わない」とオーウェンが答え、細い刃で糸を切り、革をめくると、中から薄い紙が三枚出てきた。
「あった、本当に」とミレイ。オーウェンは呆然と見た。「叔父さん、こんなもんずっと俺に持たせてたのか」
「必要な時まで見つからないようにしたんでしょう」とレオが言うと、「一言言えよ」「エドガーさんらしいと言えばらしいですが」
リアムが一枚目を開く。日付は十七年前。**「複製経路調査」**という筆跡に、クララが「エドガーさんに間違いありません」と確認した。
内容には、**リーベル試験資料の複製が王宮記録庫を経由していたこと**、そして**王宮記録官ハロルド・ベインが先王私蔵資料の一部を閲覧した記録があること**が記されていた。「やっぱりハロルド」とガレスが漏らすが、「待ってください、最後まで」とレオが制した。
さらに続けると、**閲覧申請書の署名が本人の通常筆跡と一致しない**とあり、「偽造?」とミレイ。「可能性が高い」とリアム。次には**「ハロルド本人へ確認。本人は申請を否定」**と書かれていた。全員が黙り込む。
「じゃあハロルドも名前を使われた?」とオーウェン。「その可能性があります」とレオ。「ミアさんの偽召喚状と同じです。ハロルド・ベインという名前が何度も使われている」
二枚目には、ハロルドが複製への関与を否定した後、独自調査を始めルイス・アルデンと接触したことが記されていた。「繋がった」とミレイ。
**最終記録官ルイス・アルデンは複製資料と原本の差異を確認し、追記部分は原本に存在しないと証言。二人は複製者を特定しようとしていた。**そしてその下に、**「十六年前、ハロルド・ベイン死亡。同月、ルイス・アルデン死亡」**とあった。
「同じ月? 日付は?」とガレス。「ハロルドが十二日、ルイスが二十日。八日差です」「死因は?」「ここにはありません。死亡記録待ちですね」とレオ。
三枚目は文字が乱れていた。**「二人の死は偶然ではない。死亡記録を確認すること。記録上の医師名に注意」**。名前は**「ドクター・マルセル・グレイ」**。
「知ってる?」とガレスに、セドリックは眉を寄せた。「聞いたことがある。監察局が検死に呼んでいた外部医師だ。十年以上前に引退したはずだ」「生きてる?」「分からない」
そこへ護衛が死亡記録の書類束を運んできた。ハロルド・ベインの死亡日は霜月十二日、死因は急性肺炎、確認医はマルセル・グレイ。ルイス・アルデンは霜月二十日、転落による頭部損傷、死亡確認も同じくマルセル・グレイだった。
「肺炎と転落事故、全然違う死に方なのに同じ人が確認?」とミレイが疑問を口にすると、「外部検死を担当していたならあり得なくはありません。ですが偶然で済ませるには条件が重なりすぎています」とリアムが応じた。
追加の記録を探すと、同じ月だけで同じ医師名が七件見つかった。対象は監察局書記、資料管理官、元研究助手、王宮記録庫の補助員、外部運搬業者。「全員白鴉に関係ありそうじゃない?」とミレイ。「少なくとも記録に関わる職種が異常に多いです」とリアム。
死因は病死、事故、水死、落馬、心臓発作とばらばらだったが、確認した医師はすべてマルセル・グレイだった。セドリックが立ち上がる。「そんな……私は知らなかった」
レオが「この人を直接見たことは?」と聞くと、「ある。四十代で痩せていて、無口だった。監察局の依頼で検死をしていたが、その後突然仕事を辞めた」と答えた。「理由は?」「病気と聞いた」
その時クララが、マルセル・グレイという名をどこかで見たと言い出した。「アデライド様の薬の記録です。最後の頃、王宮医とは別に処方確認の署名が追加されていたことがありました。名前は確か、マルセル・グレイ」
全員が固まる。「母の?」とノア。「はい。可能性があります」とリアム。レオはすぐに当時の薬剤記録、診療記録、処方変更を持ってくるよう指示した。
護衛が去り、ノアは何も言わず机を見つめていた。手が震えている。ミレイが少し迷ってから隣に座った。「ノア」「……うん」「大丈夫じゃないよね」「うん」「そりゃそうだよね」「……うん」
エリアスが突然口を開いた。「マルセル・グレイ、知っているんですか」とレオが聞くと、「名前だけではない。会ったことがある。十九年前、記録管理協会で」
「何をしていた」とリアム。「医師ではなかった。少なくとも私が会った時、彼は医師を名乗っていない」「じゃあ何」とミレイ。「記録分析官だ。証言と死亡記録、診療記録と書類が食い違う事例を分類していた」
「十九年前は白鴉へ協力者として入っていた頃ですね」とレオ。「そうだ」「マルセルも?」「白鴉の正式名簿では見たことがない。でも協会にはいた」「何を研究していた?」「一つだけよく覚えている」
エリアスはゆっくり言った。「人が死んだという記録があれば、周囲はその人間をどれだけ早く過去の存在へ変えるか」
ミレイが息を止める。「……死亡記録そのものを使って?」「そうだ」
レオの目が鋭くなる。「つまり、人を本当に殺さなくても死亡記録を作れば、社会的には死んだことにできる。その研究?」「そう言っていた」「ハロルドとルイスは本当に死んだとは限らない?」とリアム。
全員が死亡記録を見つめる。紙、印、署名、死因、埋葬記録。すべて揃っている。だが、紙があることと事実であることは同じではないと、これまで何度も思い知らされてきた。
「墓は?」とレオ。「調べます。埋葬記録、遺体確認者、遺族、葬儀、全部」とグレイストーン。
そこへ戻ってきた護衛が、アデライド王女の診療記録を持ってきた。ノアがゆっくり顔を上げ、リアムが開く。最後の一か月には鎮痛、解熱、胃薬、睡眠薬など複数の処方があった。
「同じ薬なのに量が変わってる」とミレイがすぐに気づいた。「この鎮静用の薬草、最初は少量、その後倍近くに。マリアさんが不自然だって言ってたの、これかも」
変更欄の署名は王宮医。その下に**「確認――M. Grey」**とあった。ノアは紙を見つめたまま何も言わない。次の頁にも同じ署名が続いていた。
「本人の署名かはまだ分かりません」とレオ。「でも、ハロルド、ルイス、アデライド王女、全部マルセル・グレイの名前が関わっている。偶然ではないでしょう」
「所在は?」とガレス。護衛が別の紙を差し出す。「引退後の記録がありました。王都南部、郊外の施療院。その後十二年前に死亡」
部屋の全員が固まった。「死亡?」とミレイ。「確認者は?」とレオ。護衛が紙を見て表情を変える。「……本人です。死亡確認欄に、マルセル・グレイ」
「自分の死亡確認を自分で?」とガレスが呆れたように言う。「あり得ません。つまり明確に偽造です」とリアム。「そして、その偽造を誰も十二年間、問題にしなかった」とレオが静かに続けた。
死んだ医師が、自分で自分の死を確認している。あまりにも露骨な矛盾なのに、記録としては通っていた。「これは実験だ」とエリアスが低く言った。「どこまで矛盾した記録でも、正式な形式さえ整っていれば人は受け入れるか」
レオは紙から目を上げた。「違います。実験だったとしても、それだけじゃない。この人は自分の死亡記録を作って消えた。つまり、生きている可能性がある」
「十二年前から?」とミレイ。「それ以上、誰にも追われず別の名前で動いているかもしれない」「現在のエリアス様の計画へ別の指示を混ぜている人物、それがマルセル・グレイ?」とリアムが続けた。
「まだ決めません」とレオ。「ですが最優先で探します。死亡記録ではなく、生存を前提に」
エリアスが初めて明確な緊張を見せた。「もしマルセルが生きているなら、私より危険だ。彼は観察したいんじゃない」
レオの目が細くなる。「では、何をしたい」
「人間を望んだ結論へ到達させたいんだ。観察ではなく、誘導そのものが目的だ」
その時、廊下から急いだ足音が近づき、扉が開いた。「殿下! 王都西区で新しい布告が!」
騎士が差し出した紙をレオが読む。**「王家の正式発表」**――もちろん偽物だ。**「レオンの名で締結された領地契約は、すべて再審査される。フェルトハイムの統治権は一時停止」**
ミレイの顔が変わった。「フェルトハイム」
最後の署名には**「王室記録局長代理」**の名で、**マルセル・グレイ**とあった。
死んだはずの男の名が、今、王都で再び使われている。エリアスはその紙を見て、静かに言った。
「来たな」
「何が」とガレス。
エリアスはレオを見る。
「観察者ではない。書き換える者が」




