第234話 先王の別邸
## 先王の別邸
「先王の別邸」——その言葉に、全員がしばらく黙った。
「場所は?」最初に聞いたのはレオだった。エリアスは森の北西を見たまま答える。「ここから半日」「王都からなら?」「一日ほど」
「近いな」ガレスが眉を寄せる。「なのに今まで出てこなかった?」
「使われなくなって久しい。王家の正式な離宮でもない。狩猟や静養のために使われた私的な建物だ」
「記録上は?」リアムが尋ねる。「所有者を何度か変えている」「最後は?」「名目上、王室財産から外されている」「誰の所有に?」「記録管理協会だ」
クララが顔を上げた。「あなたがいた?」「一時期は」エリアスが答える。「だが、私が所有していたわけではない」「協会が?」「そうだ」
「どういう協会だったんです」ミレイが聞く。「表向きは古文書の保存、民間記録の整理、廃棄予定資料の写しを取る、そういう仕事だ」「表向きは?」「裏では」エリアスが少しだけ笑う。「王宮が正式記録に残したくないものを預ける場所でもあった」
「白鴉の資料も?」レオが聞く。「一部は」「では、陛下がそこへ向かったと考える理由は?」「この手紙だ」エリアスがレオの手にある紙を見る。
**私が終わらせなければならない。白鴉を始めた王家の者として。**
「セドリックがリーベルのことを知っていたなら、先王の別邸も知っている。そこには先王の記録が残っている」「まだ?」ミレイが尋ねる。「私が見つけたものだけではない」「何がある」ガレスが聞く。「先王本人の、最後の記録だ」
「最後?」リアムが反応する。「死の直前?」「そうだ」「内容は」「知らない。開けられなかった」「鍵?」「それだけではない」エリアスは少し間を置いた。「箱には複数の解錠手順がある。物理鍵、数字を合わせる回転式の錠、それから先王とセドリックだけが共有していた暗号。全部揃わなければ開かない」
「じゃあ」ミレイが首を傾げる。「仕組みを知ってれば、セドリック陛下じゃなくても開けられる?」「理屈の上ではな」エリアスが答える。「だが、最後の暗号は記録されていない。先王が死んだ今、完全な手順を知っているのはセドリックだけだ」
「なるほど」リアムが頷く。「本人しか反応しない仕掛けではなく、本人しか知らない情報が鍵になっている」「そういうことだ」「なら」ガレスが言う。「誰かがセドリックから聞き出せば開けられるってことだな」「そうだ。絶対に本人でなければ無理という話ではない」「その方が自然ですね」レオが言った。
「なら」レオはすぐに決めた。「別邸へ向かいます」「王都には戻らないのか」ガレス。「戻れば少なくとも半日は余計にかかります。陛下が昨夜出たなら、もう着いている可能性が高い」「同意します」リアム。「ただし、王都には連絡を返すべきです」「もちろん」
レオは騎士へ向き直る。「王都へ戻ってください。グレイストーン殿とノアに、私たちは先王の別邸へ向かうと。それから、陛下失踪について」「公表は?」「まだしていません。そのまま今は伏せてください。ただし、陛下不在で決裁が止まると困る。必要な行政は既定の代行手順に従うよう伝えてください」「はい」「オーウェンの警護も強化。クララさんがこちらにいることも広めないで」「承知しました」
「それと」レオが続ける。「フェルトハイムへも」「子供たちは?」ミレイがすぐ聞く。「無事だと、今朝の報告では。セリーヌも一緒です」騎士が答えた。ミレイの肩が少し下がる。「よかった」「それだけでも」レオも小さく息を吐いた。「帰ったら、ちゃんと会いに行きましょう」「うん」
出発は今度は馬車ではなく、速度を優先する。主要な者は騎馬。資料の一部だけ馬車へ。残りは護衛二名をつけて後送する。「エリアスは?」ガレスが尋ねる。「拘束したまま馬車です」レオ。「逃げないと言ってますが、信用はしません」「正しい」エリアスが自分から答えた。「お前が言うな」
道は森を抜け、北西へ。日が傾く。途中、古い石橋、放置された番小屋。人の住む気配はない。「陛下は」ミレイが馬を並べる。「一人で行ったのかな」「分かりません」レオ。「書き置きだけ?」「王宮から出た方法も、まだ不明です」「護衛なしで?」「そう見えます」「危ないね」「はい」
「でも」ミレイが言う。「なんで急に?」「何がです」「今まで黙ってたのに、白鴉がここまで動いて、レオが公表して、エリアスのことも出て、それで自分が終わらせるって」レオもそこは考えていた。「何か、陛下自身にしかできないことがある。そう考えるのが自然です」「先王の最後の記録?」「それも。あるいは、記録を消すつもりかもしれない」
「消す?」ミレイが顔を上げる。「証拠隠滅?」「可能性はあります」「陛下を疑うの?」「疑います」レオは静かに答えた。「信じたいことと確認することは別です」「うん。でも、もし本当に隠そうとしてたら?」レオは少しだけ黙った。「止めます」
夕刻、森の向こうに屋根が見えた。大きくはない。だが普通の別荘よりずっと頑丈な建物。石造り、二階建て。窓は細い。周囲を低い石壁が囲む。「あれ?」ミレイが目を凝らす。「灯り」二階に一つ、窓が橙色に光る。「誰かいる」ガレス。「陛下か」「あるいは」リアム。「別の者」
門は閉じていない。馬を止める。「罠は」「確認します」護衛が先へ。周囲に新しい足跡。「騎馬一頭」リアムが地面を見る。「今日、おそらく数刻以内」「陛下?」「可能性は高い」「他には?」「古い足跡は複数。新しいのは一人分だけです」
「じゃあ」ミレイ。「陛下一人?」「そう見える」「見えるだけだ」ガレスが剣を抜く。「行くぞ」正面扉、鍵は開いている。「不用心だな」「入れってことかもしれません」レオ。「誰が?」「陛下か、別の誰か」
中は玄関ホール。埃。だが床に一筋、新しく踏まれた跡が二階へ続いている。「声は?」ない。ただどこかで小さな音。金属。カチ、カチ。何か鍵を操作する音。「上」リアム。
二階の廊下、突き当たりの扉。少し開いている。中から灯り。「陛下」レオが呼ぶ。返事はない。もう一度。「セドリック陛下」音が止まった。数秒。そして声。「レオンか」レオの表情が変わる。「はい」扉を開く。
部屋の壁一面に棚。中央に大きな机。そしてセドリック王が一人。外套、旅装。王冠もない。机の上に古い金属箱。「来たか」王は驚いた様子を見せなかった。「なぜ」レオが一歩入る。「王宮を黙って出たんです」「時間がなかった」「連絡くらい」「すれば止めただろう」「当然です」
ガレス、リアム、ミレイ、クララ、そして護衛、全員が入る。最後に拘束されたエリアス。王の顔が初めて変わった。目がエリアスを見る。エリアスもセドリックを見る。二人は似ている。否定しきれないほど。
「初めまして」エリアスが言った。「兄上」空気が完全に止まった。セドリックは何も答えない。「陛下」レオが王を見る。「この人を知っていますか」長い沈黙。やがてセドリックが低く答えた。「名前だけは知っている」クララが息を呑む。「エリアス・ヴァレン。父の庶子とされる人物」
「される?」エリアスが笑う。「まだ言うのか」「証明されていない」「血を見れば分かるとでも?」「そういう意味ではない」「では何だ」「記録がない」「だから私は存在しない?」「違う!」セドリックの声が初めて強くなる。
「陛下」レオが間へ入る。「順番に話してください」まず、リーベルで見つけた手紙。**アデライドへ。**差出人、**セドリック。**レオが机へ置く。「これは、あなたが書いたものですか」セドリックが見る。一瞬、目を閉じた。「……そうだ」
「では、陛下はリーベルの実験を知っていた」「知っていた」「白鴉が、その記録を基に作られたことも?」「後から知った」「いつ」「研究班ができて半年ほど後だ」「なぜ」レオの声が少しだけ硬くなる。「今まで黙っていたんです」
セドリックはすぐには答えなかった。「止めようとした。手紙にもそう書いてある」「では、なぜ続いた」「止められなかった」「どうして」「父が」王は机へ手を置く。「すでに監察局の複数部署へ資料を流していた。研究班を潰しても別の名で続く状態だった」「それだけ?」「違う」
セドリックがクララを見る。「アデライドも調べていた」「はい」クララが答える。「そして死んだ」ミレイの顔が強張る。「やっぱり、薬の件?」王はミレイを見る。「知っているのか」「マリアさんが処方の不自然さに気づいていた話は聞いてます」セドリックは目を伏せる。「私は、あれを白鴉に近づきすぎた結果だと疑っていた」
「犯人は分かっているんですか」リアム。「分からない」「調べた?」「調べた。だが記録が消えた。証人も次々に証言を変えた」エリアスが乾いた笑いを漏らす。「自分たちの方法に、自分たちで負けた」「黙れ」セドリックが睨む。
「だから?」レオが聞く。「怖くなった?」「そうだ」セドリックは否定しなかった。「アデライドが死に、ルシアンが狙われた。父はすでに死んでいた。白鴉は誰が動かしているのか分からなくなっていた。私は王になる直前だった。国中の部署を一度に敵に回すこともできなかった」
「それで」ミレイが言う。「隠した?」「一部を封じた。関係者を移した。記録を分散した。ルシアンを王宮から遠ざけた」「そして」レオがセドリックを見る。「私を、レオン王子にした」
王の表情が止まる。「そこも」レオは逃がさなかった。「関係しているんですか」沈黙。「陛下、答えてください」「……関係している」ミレイがレオを見る。レオは動かなかった。
「どこまで」「本来のレオン王子が亡くなった後」セドリックが言う。「王宮は混乱するはずだった。継承、外交、貴族、民心。そこへ白鴉に関する内部争いまで重なった」「だから身代わりを?」「最初は短期間の予定だった」
「短期間?」レオがかすかに笑った。「ずいぶん長いですね」「……そうだ」「いつ終わらせるつもりだったんです」「状況が落ち着いた時」「いつです」「……」「落ち着かなかった?」「違う」セドリックが苦しそうに言う。「お前が、レオンとして、うまくやりすぎた」
部屋が静かになる。「何ですか」レオ。「民が支持した。貴族も、外交相手も、お前をレオンとして受け入れた。だから言えなくなった。言えばまた国が揺れる。それを恐れた」
「じゃあ」ミレイが低く言う。「レオが頑張ったから、余計に戻れなくなったってこと?」セドリックは答えられない。「それ、ひどくない?」「ミレイ」レオが静かに呼ぶ。「でも」「はい」「……その通りです」レオは王を見る。「私が王子としてうまく振る舞えば振る舞うほど、本当のことを言えなくなった。そういうことですね」「……そうだ」
レオは目を閉じた。完璧であれ、失敗するな、笑え、弱さを見せるな——王子として、誰よりも正しく。その結果、自分自身がさらに消えていった。「分かりました」レオが言う。「許すのか?」エリアス。「今は許す話をしていません。事実を確認しています」
「それで」レオは机上の金属箱を見る。「陛下は、これを開けに来た」「そうだ」「中には?」「父の最後の記録」「白鴉について?」「おそらく」「見たことは?」「ない。鍵は今、最後まで外した」
箱から小さな機械音、カチ。セドリックが蓋へ手を置く。「待ってください」リアム。「先に仕掛けを確認します」「もう何十年も前の箱だぞ」「だからこそです」ガレスがセドリックを見る。「陛下、言うこと聞け」「……分かった」
リアムが慎重に確認する。細い針、毒、火薬、隠し刃——見える範囲にはない。「開けても問題ないと思われます」セドリックが蓋を上げる。中には一冊、革表紙、封蝋、王家の紋章。表紙に文字。**白鴉について。**
「そのまま」レオが言う。「ここで読みます」「全員で?」セドリック。「はい。もう、誰か一人だけが知る情報を増やしたくありません」エリアスが小さく笑う。「正しい。あなたに褒められると、やっぱり嫌ですね」
封を切る。最初の頁、先王の筆跡。日付は死の三か月前。セドリックが読み始める。
「『この記録をセドリックが読む時、私はすでに多くを説明できぬ状態にあるだろう』」次。「『まずリーベルについて』」全員の空気が張る。「『あれは私一人の発案ではない』」
「……何?」ミレイが呟く。セドリックも頁を見る。「続けます」
**リーベルの認識誘導試験は、王家から始まったものではない。**
レオが眉を寄せる。エリアスも表情を変える。「お前」ガレスがエリアスを見る。「先王が始めたって」「私が持つ記録では、そうだった」
セドリックがさらに読む。
**私は方法を受け取った。監察局からでも、国外からでもない。宮廷内部の一人からだ。**
次の行。
**名は、エドガー・ロウ。**
完全な沈黙。「……エドガー?」ミレイ。「叔父さんの?」レオも言葉が出ない。オーウェンの叔父。自分たちへ警告を残し、白鴉を調べ、止めようとしていた——はずの男。エドガー・ロウ。
「あり得ない」リアムが低く言う。「少なくとも、これまでの資料と完全に矛盾します」「偽造?」ガレス。「可能性はあります」
レオが頁へ視線を落とす。そして次の文章。
**ただし。彼がそれを考案したという意味ではない。エドガー自身もまた、誰かから受け取っていた。**
全員が息を止める。次の一文。
**私は、その出所を最後まで確認できなかった。ただ一つ。エドガーは、こう言った。**
その下、引用。
**「これは王国より古い方法です」**
ミレイがゆっくり顔を上げた。「王国より、古い?」レオは何も答えない。白鴉は先王が、エリアスが、エドガーが——誰かが始めたのではない。もっと前から、同じ方法が存在していた。先王の記録はさらに続いていた。
**もし白鴉を終わらせるなら、計画だけを壊しても意味はない。人が、なぜこの方法を繰り返し使うのか、そこまで辿れ。さもなければ、名前を変えて、また始まる。**




