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第233話 王家が始めた実験

黒い箱の中には、古い帳面が入っていた。表紙には王家の紋章、そして先王の署名。その下に記された文字を見て、誰もすぐには言葉を出せなかった。


**認識誘導試験――リーベル村。対象――ヨハン・ヴァレン。**


「……本物?」最初に口を開いたのはミレイだった。


「まだ断定できません」リアムが答える。「紙の年代、インク、筆跡、王家の印、王宮に残る先王の署名との照合――全部必要です」


「そうですね」レオが頷き、エリアスを見た。「あなたは、これをいつ見つけたんです」


エリアスは拘束されたまま答えた。「十九年前だ。ヨハンが消えた後、私は彼を探した。村の外、王都、監察局、教会、税務記録……何年もかけて。その途中で、先王に関する記録へ辿り着いた」


「この帳面も?」


「違う。これはもっと後だ」


「どこで」


「先王が使っていた別邸だ」


クララの表情が変わった。「北西の? アデライド様と一度だけ調べたことがあります。でも、その時には何も……」


「隠し場所を見つけられなかっただけだ」


リアムが帳面を開く。最初の数頁には、目的と対象、方法が淡々と書かれていた。


**目的――集団内における認識形成の検証。対象者に関する異なる情報を段階的に流布し、住民の証言変化を観察する。対象本人の行動変化も記録する。**


「……ほとんど、後の白鴉と同じ」ミレイが呟く。


「はい」レオも頁から目を離さない。「方法の原型です」


参加者・協力者の欄には、名前の多くが黒く塗りつぶされていた。


「誰が消した?」ガレスが聞く。


「私ではない」とエリアス。「見つけた時から、この状態だった」


「じゃあ先王?」


「分からない。他の関係者かもしれない」


「決めつけません」とレオが言う。


「またそれか」エリアスが小さく笑った。「君は本当に、答えを急がない」


「あなたのおかげで、嫌というほど学びました」


頁をめくると、初期記録が現れる。第一段階では、村人へヨハンを「最近移住してきた者」と説明していたが、実際には彼はすでに十年以上リーベルに住んでいた。第二段階「対象は粗暴である」、第三段階「対象は村の財産を盗んだ疑いがある」、第四段階「対象は村人ではない」、第五段階「対象について話す者は混乱している」――と続く。


「順番まで、以前見つけた資料と一致している」レオが低く言った。


だが次の頁で、記録の調子が変わる。赤い線で「被験者の反応、想定以上」とあった。


「被験者? ヨハンじゃなくて?」ミレイが眉を寄せる。


「この書き方だと、村人全体を指している可能性があります」リアムが続きを読む。「住民の一部が、自発的に過去の記憶を修正し始めた。対象との過去の交流を否定。家屋の所有についても別解釈が生じる。記録の変更を求める声が住民側から出た」


「住民が? 命令されてじゃなく?」ガレスが言う。


「そう書いてあります」


「ここが」エリアスが口を開いた。「先王が興味を持った点だ。嘘を教えたことではない。人が自分から嘘に合わせ始めたことだ」


「それが、面白かった?」ミレイの声が冷たくなる。


「先王には、そうだったのだろう」


次の頁には、先王の筆跡だという短い文章があった。


**認識は命令より強い。命令は拒否される。だが、本人が事実だと信じれば、拒否という発想そのものが消える。**


ミレイが嫌そうに顔をしかめた。「最悪」


「……はい」レオも否定しなかった。


後半には「対象Aを一時的に村外へ移送」とあり、移送先は「観察室」――レオたちが今いる、まさにこの場所だった。


「ヨハンは、この部屋へ連れてこられた」レオがエリアスを見る。


「そうだ」


「あなたは見た?」


「いや。当時の私は、ここを知らなかった」


「じゃあ、知ったのは?」ミレイが尋ねる。


「後からだ。この帳面と、別の記録で」


「その別の記録は?」リアムが聞く。エリアスは机の下を顎で示した。「右奥」


ガレスが確認する。木箱の中に薄い冊子があり、表紙には「観察室記録」とあった。筆者は先王とは別人で、名前は書かれていない。


開くと、二十年前の日付。「対象A、入室。対象は強く混乱。村へ戻ることを要求」。次に「対象へ住民証言を提示――『そのような人物は村に存在しない』。対象は激昂」。さらに「対象へ変更後の村落記録を提示。対象、沈黙」。


「わざわざ本人にも見せたんだ。自分が存在しないって」ミレイが言う。


三日目、「対象、自身の記憶に疑念を示す。『私は本当にあの村に住んでいたのか』」。ミレイが唇を噛んだ。「ひどい」。誰も反論しなかった。


四日目には「対象は自ら氏名を繰り返す。ヨハン・ヴァレン。ヨハン・ヴァレン。ヨハン・ヴァレン」と、何度も同じ名前が記録されている。エリアスは目を逸らしていた。


「あなたを育ててくれた人だったんだよね」ミレイが言う。


「そうだ」


「どんな人?」


「厳しい男だった。本を乱雑に置くと、一日中整理をやり直させられた」


「……記録関係の人?」


「元書記官だ。先王に仕えていた」


クララが目を見開いた。「ヨハン・ヴァレン――聞いたことがあります。アデライド様から。先王の若い頃、記録係として側にいた人物が突然辞めたと。名前ははっきり覚えていませんでしたが、ヴァレンだった気がします」


「つまり」リアムが整理する。「ヨハンは先王に仕えていた元書記官で、その後エリアス様を育て、さらにリーベル村の実験対象になった」


「偶然じゃないな」ガレスが言う。


「まずあり得ません」


「なぜヨハンだったんです」レオが聞く。エリアスは答えない。


「知らない?」


「……仮説はある。ヨハンは、私の出生を知っていた」


クララの表情が変わる。「エヴァと、先王のことも?」


「おそらく」


「だから消された?」


「私はそう考えている」


「証拠は?」


「ない」


「なら、まだ仮説です」


「分かっている」エリアスは少し苛立ったように言った。「だが、ヨハンは私を育てるよう誰かに命じられていた。誰かは知らない。本人は言わなかった」


「先王じゃないの?」ミレイが聞く。


「可能性はある。だが、もし父が自分の息子をヨハンに預けたのなら、なぜ後にそのヨハンを実験に使ったのか」


「口封じ?」ガレス。


「あるいは実験と口封じを兼ねた」リアムが言う。レオはすぐに首を振った。「まだ決めないでください」


観察室記録は続く。五日目「本名を尋ねる。回答――ヨハン・ヴァレン」。六日目「同質問。回答――ヨハン。姓について一時的に沈黙」。七日目、その下は空白だった。


「回答なし?」ミレイ。リアムが頁をめくる。八日目「対象は質問に対し、『分からない』と回答」。部屋が静まり返る。


エリアスの、縄で縛られた指が強く握られた。


「これが、あなたの原点?」レオが言う。「育てた人が、自分の名前すら分からなくなるまで壊されて、その記録を後から読んだ」


「そうだ」


「だから私は思った」エリアスは低く言った。「人間は自分など守れない。名前も、血も、記憶も、周囲が一致して否定すれば簡単に崩れる」


「だから証明したかった?」


「違う。私は確認したかった」


「違いません」レオが言った。「言葉を変えているだけです。実験、観察、確認――全部、他人の人生を使って自分の問いへ答えを出そうとしている」


エリアスの目が細くなる。「君には分からない」


「分かりません」レオは即答した。「あなたと同じ経験はしていない。だから分かったふりもしません」


「でも」ミレイが続ける。「苦しかったから何をしてもいいわけじゃないよ」


エリアスがミレイを見る。「君は簡単に言う」


「簡単じゃないよ。私はレオがずっと苦しんできたの知ってる。全部じゃないけど、そばで見てきた。それでも、レオが誰かを同じ目に遭わせたら私は止める」


レオが少しだけミレイを見た。「本気で止めますね」


「当たり前」


「怖いです」


「今それ言う?」ガレスが一瞬笑いそうになる。重かった空気が、ほんの少しだけ緩んだ。


「続きがあります」リアムが言う。九日目「対象、発熱」。十日目「対象、衰弱」。十一日目「試験中止を提案する者あり」。


「誰?」ミレイ。


「名前が削られています」リアムが次を読む。「先王、継続を指示」。レオの表情が硬くなる。


十二日目「対象、意識混濁」。十三日目「対象死亡」。静寂が落ちた。


「……死んだ?」ミレイ。エリアスは目を閉じた。「そうだ。ヨハンは、ここで死んだ」


「村の記録では行方不明のまま。死亡記録はなかった」リアムが言う。


「実験を隠すためでしょう」レオ。「そして村には、そもそも存在しなかったことにされた」


「墓もない」エリアスが小さく言った。


「遺体は?」クララが尋ねる。


「分からない。この記録にも残っていない」


次の頁には、先王の追記がたった一行。**試験結果――成功。**


ミレイが顔を上げる。「成功? 人が死んでるのに?」


レオもその一文を見つめていた。「先王にとって、ヨハンの生死は結果ではなかった。住民が彼を存在しなかったと思うようになった、本人が自分自身を疑うようになった――そこだけを成功とした」


「それで二年後、監察局の非公式研究班――白鴉が生まれた」リアムが言う。


「そうだ」


「先王が直接作ったの?」ミレイ。


「そこは違う。少なくとも表向きは。この試験資料が監察局へ渡り、誰かがそれを研究課題として再構成した。その結果が白鴉だ」


「誰が資料を渡した?」レオ。


「分からない。先王本人の可能性は高いが、証拠はない」


「なら、そこも王都で確認します」


リアムが帳面の最後をめくると、一枚の紙が折り込まれていた。帳面より少し後のもの。宛名は「アデライドへ」。クララの顔が変わる。差出人の名はない。


内容にはこうあった。**父上の記録を見つけた。リーベルで行われたことは、事故ではない。ヨハン・ヴァレンという男が死んでいる。そして、この試験資料の一部が監察局へ渡っている。**


「誰がアデライド王女に?」ミレイが言う。


さらに続く。**白鴉という名が使われ始めた。まだ小さな研究班だ。だが、止めるべきだ。父上が始めたものなら、なおさら王家が止めなければならない。私は内部から調べる。**


署名には、こう書かれていた。**セドリック。**


全員が言葉を失った。


「陛下?」ミレイがレオを見る。「……今の陛下ですね」


「年代が正しければ、先王がまだ在位していた時期です」


「セドリックは知っていた」エリアスが言った。


レオがエリアスを見る。「白鴉のことを?」


「少なくとも初期の存在は。リーベルの実験も知っていた」


「それを、なぜ今まで――」ガレスが言いかける。


「待ってください」レオが止めた。「この手紙だけでは、陛下がどこまで知っていたか分かりません」


「でも」ミレイが言う。「リーベルのことは知ってるよね? 止めるべきだって書いてる」


「そうです」レオはもう一度手紙を見た。「だからこそ、確認が必要です」


エリアスが乾いた笑いを漏らした。「まだ庇うのか」


「庇っていません。事実を分けています。陛下が知っていたこと、止めようとしていた可能性、その後なぜ白鴉が続いたのか――そこは別です」


「もし」レオが静かに続ける。「陛下が知っていて止められなかったのなら、理由を聞きます。もし途中で隠したのなら、それも聞く。もし私たちに今まで黙っていたのなら、なぜ黙っていたのか、本人に直接」


エリアスが目を細める。「君は、王を疑えるのか」


「今さらです」レオは答えた。「王だから疑わないという時期は、もう終わりました」


その言葉に、ガレスもリアムもクララも、黙ったままレオを見た。


「資料を持ち帰ります」レオが言った。「全部。エリアスも王都へ。そして陛下に、この手紙を見せます」


「その前に」エリアスが言った。「もう一つ、見せるものがある」


ガレスが露骨に嫌そうな顔をする。「まだあんのかよ」


「最後だ」


「お前の最後は信用できねえ」


「今回は本当に最後だ」


エリアスは観察室の奥、一枚の石壁を見た。「そこ、下から三段目を押せ」


リアムが慎重に石を押す。ゴト、と壁の一部が前へ動き、小さな空間が現れた。中には木箱が一つ。


「罠は確認します」リアムが少し時間をかけて調べる。「見える範囲にはありません」


開けると、布の下に古い子供用の靴が一足。その下に一枚の紙――**E.V.**――そして小さな王家の紋章があった。


「あなたの?」レオが尋ねる。


「そうだ」


「なぜここに」


「ヨハンが持っていた。私を育て始めた時、一緒に渡されたらしい」


「誰から」


「知らない。でも」エリアスが紋章を見る。「先王の私物だ」


「証明できる?」ミレイが尋ねる。


「王宮の保管記録に同型の紋章がある。照合できる」リアムが頷く。「王都で確認しましょう」


その時、護衛の一人が入口から駆け込んできた。「殿下! 村の方から騎馬が来ています!」


ガレスがすぐに剣へ手を置く。「何人」


「一人です! 所属は――王宮!」


全員が顔を見合わせ、観察室を出る。森の道の向こうから、一頭の馬に乗った騎士が近づいてきた。泥まみれで、息を切らしている。


「レオン殿下! 王都より緊急報告です!」馬から降りるなり言う。


「何がありました」


騎士は息を整える暇もなく答えた。「セドリック陛下が――」一瞬、言葉を詰まらせる。「王宮から、姿を消されました」


「……何?」レオの表情が変わる。「いつです」


「昨夜です」


「警備は?」


「突破された形跡はありません」


「書き置きは」


「あります」騎士が懐から封書を出す。「陛下の筆跡と確認されています」


レオが受け取り、開く。短い文章があった。


**私が終わらせなければならない。白鴉を始めた王家の者として。**


レオは手紙を握った。「陛下は、全部知っていた?」


ミレイが呟く。誰も答えられない。だが、エリアスだけが静かに目を閉じた。


「やはり」


「何が」レオが振り向く。


「セドリックは、最後にはそこへ行く。そう思っていた」


「どこへ」


エリアスは、王都とは別の方角を見た。


「先王の別邸だ」

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