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231/238

第231話 旧リーベル村

王都を出てから。


 二日目の午後。


 空は、朝から重く曇っていた。


 雨こそ降っていない。


 だが。


 湿った風が。


 街道沿いの草を低く揺らしている。


「この先です」


 リアムが地図を確認する。


「あと半刻ほど」


「ずいぶん静かだな」


 ガレスが窓の外を見る。


「近くに村は?」


「今はありません」


「昔は?」


「リーベル以外にも、小さな集落が二つあったようですが」


「どちらも今は無人です」


「気持ち悪いね」


 ミレイが言う。


「偶然?」


「さあ」


 レオは。


 膝の上に置いたエドガーの地図へ視線を落とす。


 旧リーベル村。


 そこから。


 少し離れた森。


 赤い丸。


 最初の観察室。


 目的地は。


 村そのものではない。


 だが。


 いきなり森へ入るつもりもなかった。


「まず村を確認します」


「地図と現状の差」


「誰かが最近出入りした痕跡」


「それから森へ」


「賛成」


 リアムが頷く。


「相手が待っているなら」


「こちらが急ぐ理由はありません」


     ◇ ◇ ◇


 やがて。


 道の先に。


 崩れた石柱が見えた。


 左右。


 二本。


 かつては。


 村の入口を示していたのだろう。


 片方には。


 文字の跡。


 苔を払う。


 辛うじて読める。


 RIEBER


「ここ」


 クララが呟く。


「来たことが?」


 ミレイが尋ねる。


「ありません」


「でも」


「アデライド様が」


「何度かこの名前を口にしていました」


「どういう時?」


「エリアスについて話していた時です」


     ◇ ◇ ◇


 馬車を止める。


 護衛を二組に分ける。


 一組は馬車周辺。


 もう一組は。


 レオたちと同行。


「全員で行くって話じゃなかった?」


 ミレイが聞く。


「主要な者は全員です」


 レオが答える。


「護衛まで全員一か所に集めたら」


「馬車も退路も無防備になります」


「なるほど」


「逃げ道は残します」


「成長した」


「最近そればかり言われます」


     ◇ ◇ ◇


 村へ入る。


 最初に見えたのは。


 石造りの井戸。


 蓋がされている。


 その向こう。


 家々。


 ほとんどが崩れていた。


 火災の跡。


 黒く焼けた梁。


 草に埋もれた土台。


 だが。


 すべてが。


 二十年間放置されていたようには見えない。


「リアム」


「はい」


 すでに気づいていた。


 地面。


 古い泥の上に。


 新しい車輪跡。


「最近」


「ですね」


 ガレスがしゃがむ。


「何日前だ」


「雨が降っていないので正確には」


 リアムが土を触る。


「ただ」


「古くても一週間以内でしょう」


「一台?」


「少なくとも二台」


「荷車と」


「小型馬車」


     ◇ ◇ ◇


「人も」


 ミレイが指差す。


 草の倒れ方。


 道。


 何人かが。


 同じ場所を何度も歩いている。


「待ち伏せ?」


 ガレスが周囲を見る。


「可能性はあります」


 レオが答える。


「護衛」


「家の陰と高所を確認してください」


「はい」


 兵が散る。


 レオたちは。


 村の中心へ。


     ◇ ◇ ◇


 古い広場。


 そこには。


 一本の杭が立っていた。


「前からあった?」


 ミレイが尋ねる。


 リアムが地図を見る。


「記載なし」


「新しいな」


 ガレスが木を触る。


 表面。


 まだ。


 それほど風化していない。


 そして。


 杭には。


 一枚の板。


 文字。


 あなたは、この村に何人いたと思う?


「……また質問」


 ミレイが嫌そうな顔をする。


「百二十七人」


 レオが答えた。


「エドガーの記録では」


「当時の人口は百二十七」


「でも」


 リアムが言う。


「その数字自体が正しい保証はありません」


「そういうことか」


 ガレスが鼻を鳴らす。


「最初から疑わせる」


     ◇ ◇ ◇


 板の裏。


 何もない。


「触らない方が?」


 ミレイが聞く。


「もう触っています」


 ガレスが言う。


「俺が」


「そういう意味じゃない」


「罠はなさそうです」


 リアムが確認する。


「ただの掲示でしょう」


 レオは。


 板を外さなかった。


「残します」


「証拠として記録だけ」


「いいの?」


「はい」


「壊したり持ち去ったりすると」


「相手にこちらの反応を一つ与えるだけです」


     ◇ ◇ ◇


 広場の北側。


 半分崩れた家。


 そこだけ。


 扉が新しかった。


「露骨だな」


 ガレスが言う。


「入れってこと?」


 ミレイが聞く。


「そうでしょうね」


 レオが答える。


「だから」


「確認してから入ります」


 護衛が周囲を調べる。


 窓。


 二つ。


 片方は塞がれている。


 裏口。


 なし。


 屋根。


 古い。


 人の気配。


 見えない。


「行きます」


     ◇ ◇ ◇


 扉を開く。


 中。


 机。


 椅子。


 棚。


 そして。


 壁一面。


 紙。


 大量の。


 紙。


「うわ」


 ミレイが立ち止まる。


 一枚一枚。


 違う文章。


 老人はこの村で生まれた。


 老人は三年前に来た。


 老人には娘がいた。


 老人に家族はいない。


 老人は鍛冶職人だった。


 老人は農夫だった。


 老人は盗人だった。


 老人は存在しなかった。


「全部」


 クララが呟く。


「矛盾してる」


「意図的ですね」


 リアムが答える。


     ◇ ◇ ◇


 机の上。


 帳面。


 レオが開く。


 最初の頁。


 証言実験・第一段階。


「二十年前の?」


「紙が新しいです」


 リアムが答える。


「複製か」


「あるいは再現」


 次の頁。


 住民の名前。


 横に。


 記号。


 ○。


 △。


 ×。


「何の分類?」


 ミレイが尋ねる。


「おそらく」


 クララが言う。


「情報への反応です」


「覚えている?」


「似た資料を」


「昔見ました」


     ◇ ◇ ◇


 さらに。


 頁をめくる。


 第一週――老人は危険人物である。


 第二週――老人は村の外から来た。


 第三週――老人は村から追放された。


 第四週――老人について話す者は信用できない。


 第五週――老人は存在しなかった。


「五週間」


 レオが呟く。


「段階的に」


「はい」


「でも」


 ミレイが眉を寄せる。


「これだけで本当に人が忘れる?」


「忘れさせるのが目的ではなかったのかもしれません」


 リアムが言う。


「どういう意味?」


「人が」


「自分の記憶より」


「周囲の一致した情報を優先するか」


「そこを見ていた」


     ◇ ◇ ◇


「じゃあ」


 ガレスが壁を見る。


「老人本人はどうなった」


 誰も答えない。


 帳面。


 最後の頁。


 そこだけ。


 赤い線。


 対象A――移送。


「移送?」


 ミレイが声を上げる。


「老人?」


「可能性が高いです」


「どこへ」


 下。


 記号。


 丸の中に。


 三本の縦線。


「あの印」


 全員の視線が集まる。


 その横。


 観察室へ。


     ◇ ◇ ◇


「森だ」


 ガレスが言った。


「最初の観察室」


「おそらく」


 レオが頷く。


「でも」


 ミレイが帳面を見つめる。


「これが本当なら」


「老人は消えたんじゃない」


「連れていかれた」


「はい」


「村の人に」


「存在しなかったと思わせて」


「本人だけ別の場所へ」


「そうなります」


     ◇ ◇ ◇


 その時。


 外。


「殿下!」


 護衛の声。


 レオたちが出る。


「何です」


「人影を確認しました」


「どこ」


「村の西」


「一人」


「追った?」


「いいえ」


「命令通り」


「位置だけ確認しています」


「よくやりました」


 ガレスが剣へ手をかける。


「行くか?」


「待って」


 レオが止める。


「こちらを見ていました?」


「はい」


「逃げました?」


「いいえ」


「森の方へ歩いています」


     ◇ ◇ ◇


「案内?」


 ミレイが言う。


「ですね」


 リアムが答える。


「完全に」


「追わせたい」


 レオは。


 少し考える。


「距離を取って追います」


「走らない」


「近づきすぎない」


「姿を見失っても無理に追わない」


「了解」


     ◇ ◇ ◇


 村の西。


 森へ続く。


 細い道。


 確かに。


 前方。


 一人の男。


 灰色の外套。


 フード。


 顔は見えない。


 歩いている。


 急がない。


 振り返らない。


「罠に案内されてる感がすごいね」


 ミレイが小声で言う。


「同感です」


 レオが答える。


「でも行くんだ」


「はい」


「嫌いじゃないけど」


     ◇ ◇ ◇


 森へ入る。


 道は。


 意外なほど整備されていた。


 二十年放置された森ではない。


 枝が切られ。


 足元の石がどけられている。


「最近使われてる」


 ガレスが言う。


「頻繁に」


 リアムも頷く。


 前の男。


 まだ見える。


 やがて。


 分かれ道。


 男は左へ。


 レオたちも。


 距離を保つ。


 そして。


 突然。


 男が消えた。


「どこ行った!」


 ガレスが周囲を見る。


 道。


 木。


 藪。


「走った音はありません」


 リアムが言う。


「隠れた?」


「可能性は」


「探しますか」


 護衛が尋ねる。


「いいえ」


 レオは答えた。


「目的は」


「たぶん」


 前を見る。


     ◇ ◇ ◇


 木々の間。


 石壁。


 低い建物。


 半分。


 地面へ埋まっている。


 入口。


 鉄扉。


 地図の。


 赤い丸。


「最初の観察室」


 ミレイが呟く。


「到着ですね」


 リアムが言う。


 扉の前。


 新しい足跡。


 複数。


「中にいる?」


「可能性は高い」


 ガレスが剣を抜く。


「待ってください」


 レオ。


 扉。


 中央。


 白い紙が貼られている。


 読む。


 ここで最初に失われたのは、人ではない。


 その下。


 名前だ。


     ◇ ◇ ◇


「名前」


 ミレイが言う。


「老人の?」


「それとも」


 リアムが考える。


「エリアス自身?」


 クララの顔が。


 強張った。


「どうしました」


 レオが尋ねる。


「……思い出しました」


「何を」


「十九年前」


「エリアスと会った時」


「彼は」


 クララが。


 扉を見る。


「自分には」


「生まれた時の名前がないと言っていました」


「どういう意味です」


「先王が」


「正式に名を与えなかった」


「母親が呼んでいた名前も」


「記録に残っていない」


     ◇ ◇ ◇


「じゃあ」


 ミレイが言う。


「エリアスって名前は?」


「後から」


「自分で選んだものです」


 レオが。


 僅かに目を見開く。


 自分で。


 選んだ名前。


 エリアス。


 そして。


 レオ。


「似てる」


 ミレイも気づいた。


「……はい」


     ◇ ◇ ◇


 鉄扉。


 鍵穴。


 鍵は。


 かかっていない。


「開けます」


 ガレスが前へ。


「待って」


 リアムが扉周辺を確認する。


 糸。


 罠。


 圧力板。


 見える範囲にはない。


「機械的な仕掛けは確認できません」


「中は?」


「暗いです」


 ランタン。


 火をつける。


 扉を。


 ゆっくり。


 開いた。


     ◇ ◇ ◇


 冷たい空気。


 石の階段。


 下へ。


「地下?」


 ミレイが覗く。


「半地下ですね」


 リアム。


 階段。


 十三段。


 下。


 短い廊下。


 そして。


 小さな部屋。


 中央に。


 一脚の椅子。


 正面。


 大きな鏡。


「鏡?」


 ガレスが近づく。


「触らないで」


 レオが止める。


 壁。


 小さな穴。


 何十個も。


「これ」


 ミレイが顔をしかめる。


「見られるための部屋?」


「はい」


 リアムが答える。


「隣室から」


「観察できる構造でしょう」


     ◇ ◇ ◇


 椅子。


 革の帯。


 腕。


 足。


「拘束用」


 クララが青ざめる。


「老人を?」


「可能性があります」


 床。


 古い染み。


 だが。


 血かどうかは分からない。


 机。


 一つ。


 紙。


「新しい」


 レオが言う。


 そこには。


 名前が並んでいる。


 対象A――名称抹消。


 対象017――血統抹消。


 レオン――役割上書き。


 そして。


 最後。


 E.V.――存在抹消。


     ◇ ◇ ◇


「四人」


 ミレイが呟く。


「並べてる」


「共通点を示したいのでしょう」


 リアムが言う。


「老人」


「ノア」


「レオ」


「エリアス」


「みんな」


 ミレイが言う。


「何かを消された」


 老人は。


 存在。


 ノアは。


 血統と名前。


 レオは。


 本来の人生。


 エリアスは。


 存在そのもの。


     ◇ ◇ ◇


「でも」


 レオが紙を見る。


「これは」


「エリアス自身が書いたのなら」


「自分を被害者として並べています」


「同情してほしい?」


 ガレスが言う。


「それだけではないでしょう」


 レオ。


「自分と私たちが」


「同じだと言いたい」


「だから?」


 クララが。


 かすれた声で言う。


「だから彼は」


「自分の答えが」


「レオ様にも理解できると思っている」


     ◇ ◇ ◇


 その時。


 どこかで。


 音。


 カチ。


「何」


 ミレイが振り向く。


 扉。


 閉じた。


「誰かいる!」


 ガレスが走る。


 鉄扉。


 開かない。


「外から?」


「ロックされています!」


 リアムが確認する。


「くそ」


「落ち着いて」


 レオが周囲を見る。


 罠。


 閉じ込める。


 観察室。


 当然。


 何かが始まる。


     ◇ ◇ ◇


 そして。


 壁の向こう。


 声。


 聞こえた。


 男。


 低く。


 穏やか。


「ようこそ」


 全員が固まる。


「二十年かかった」


「ようやく」


「同じ問いへ」


「戻ってきた」


 クララの顔から。


 完全に血の気が引いた。


「……エリアス」


 レオが。


 壁を見る。


「エリアス・ヴァレンですか」


 少し。


 間。


「そう呼ばれている」


     ◇ ◇ ◇


「姿を見せてください」


 レオが言う。


「まだだ」


「なぜ」


「先に」


「確認したい」


「何を」


 声は。


 笑っているようにも。


 聞こえた。


「君が」


「私と同じなのか」


「それとも」


「本当に違うのか」


     ◇ ◇ ◇


 壁。


 一部が。


 ゆっくり動いた。


 石の板。


 その向こう。


 三つの扉。


 それぞれ。


 文字。


 血統。


 記録。


 記憶。


「三択?」


 ミレイが言う。


「選べってことか」


 ガレスが顔をしかめる。


 声。


「一つだけ開く」


「そこに」


「次の部屋がある」


「選べ」


 レオは。


 三つの扉を見た。


 そして。


 すぐに答えた。


「嫌です」


     ◇ ◇ ◇


 沈黙。


「……何?」


「選びません」


 ミレイが。


 思わずレオを見る。


 ガレスも。


 リアムも。


 声。


「選ばなければ」


「ここから出られない」


「そうですか」


「なら」


 レオは。


 部屋を見回した。


「別の出口を探します」


     ◇ ◇ ◇


 壁の向こう。


 初めて。


 小さな。


 笑い声。


「やはり」


「君は面白い」


「私は」


 レオが答える。


「あなたを楽しませに来たわけではありません」


「知っている」


「君は」


「答えを探しに来た」


「違います」


「では?」


 レオは。


 壁の向こうへ。


 はっきり言った。


「あなたを止めに来ました」


     ◇ ◇ ◇


 しばらく。


 何も聞こえなかった。


 やがて。


 声。


「なら」


「止めてみろ」


 その瞬間。


 三つの扉。


 すべて。


 同時に。


 開いた。

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