第228話 始まりの場所
鉄箱の中には。
エドガー・ロウが残した帳面が、全部で四冊あった。
どれも表紙には題名がない。
年月だけが記されている。
一冊目。
二十年前から十八年前。
二冊目。
十八年前から十七年前。
三冊目。
十七年前から五年前。
そして四冊目。
五年前から二年前。
「ずいぶん長い記録だな」
ガレスが言った。
「全部読む?」
ミレイが帳面を見る。
「必要なところからです」
レオは答えた。
「手紙にあった」
すべてが始まった場所。
「まず、それを探します」
「場所の名前が書いてあるとは限りませんよ」
リアムが言う。
「はい」
「だから」
レオは四冊の帳面を見比べた。
「白鴉計画が始まった時期」
「エリアス・ヴァレンが関わり始めた時期」
「対象017――ルシアンが選ばれた時期」
「そこを中心に確認します」
「手分けする?」
ミレイが聞く。
「します」
レオは頷いた。
「ただし」
「一人で結論を出さない」
「見つけた情報は全員で確認する」
「了解」
◇ ◇ ◇
廃教会の長椅子。
壊れていないものを集め。
帳面を広げる。
クララとオーウェンも加わった。
「私は最初の一冊を」
リアム。
「では俺は二冊目」
ガレス。
「私とミレイは三冊目」
「二人で一冊?」
「何か問題でも?」
「ないけど」
ミレイが少し笑う。
「レオ、一人だと読みながら考え込みそうだし」
「否定できません」
「私は四冊目を」
オーウェンが言った。
「クララさんは?」
「皆さんが見つけた名前や場所を確認します」
「十七年前のことなら」
「私が覚えている可能性があります」
◇ ◇ ◇
しばらく。
紙をめくる音だけが続いた。
エドガーの記録は。
日記ではない。
調査記録に近かった。
人名。
日付。
場所。
証言。
その横に。
エドガー自身の推測。
そして。
推測には必ず。
未確認。
証拠不足。
要照合。
そんな注意書きが付いていた。
「……レオに似てる」
ミレイが呟いた。
「何がです」
「すぐ信じないところ」
「褒めています?」
「たぶん」
「たぶん」
◇ ◇ ◇
やがて。
ガレスが声を上げた。
「あった」
「何が?」
「白鴉」
全員が顔を上げる。
ガレスが帳面を置く。
十八年前。
王都監察局内部。
記録にはこうあった。
非公式研究班『白鴉』について情報を得る。
目的――証言・記録・環境の操作による認識変化の調査。
当初は犯罪捜査における証言の信頼性を研究する小規模な集まりだったとされる。
「最初から人を壊す計画だったわけじゃない?」
ミレイが言う。
「少なくとも」
リアムが答える。
「エドガーの調査では、そうなっています」
「犯罪捜査?」
「目撃証言がどれくらい正確なのか」
「複数人の証言が一致した場合でも事実とは限らない」
「そういった研究だったのでしょう」
「それ自体は」
レオが言う。
「必要なものにも思えます」
「はい」
「問題は」
ガレスが次の記録を指す。
研究方針変更。
観察するだけでは不十分との意見。
意図的に異なる情報を与え、対象の認識がどのように変化するかを確認する実験へ移行。
「ここからか」
「おそらく」
◇ ◇ ◇
さらに。
その半年後。
初めて。
名前が出ていた。
外部協力者――E・ヴァレン。
「エリアス」
ミレイが言う。
「断定はできません」
レオがすぐ答える。
「でも可能性は高い?」
「はい」
その横に。
エドガーの追記。
記録の力に異常な関心を示す。
本人曰く――
そこで。
一文。
人間は、自分の目より紙を信じる。
クララが目を閉じた。
「彼の言葉です」
「覚えてる?」
「似た言葉を」
「何度も聞きました」
◇ ◇ ◇
「次」
ガレスが頁をめくる。
E・ヴァレンより実験規模拡大の提案。
一人の対象へ複数の偽情報を与えるだけでは不十分。
対象を取り巻く人間にも情報を与え、周囲から現実を固定する必要があるとの主張。
「MIREI」
ミレイが言った。
「はい」
リアムが頷く。
「今使われている手法とほぼ同じです」
「十八年前から」
「考えていた」
「そうなります」
◇ ◇ ◇
「でも」
レオが言う。
「まだ場所がない」
「白鴉が始まったのは王都?」
「記録上は」
リアムが答える。
「監察局内部です」
「だったら」
ミレイが首を傾げる。
「エドガーさんの手紙にあった」
「『その場所は王宮ではない』って」
「監察局なら王宮じゃないよね」
「はい」
「じゃあ王都の監察局跡?」
「可能性はあります」
「でも」
レオは首を振った。
「まだ決めません」
「ですよね」
◇ ◇ ◇
今度は。
リアムが一冊目から。
別の記録を見つけた。
「こちらを」
二十年前。
白鴉という名称が出るより前。
エドガーが調べていた。
一件の事件。
場所。
王都から遠く離れた西方。
小さな村。
「……村?」
ミレイが身を乗り出す。
「名前は?」
リアムが読む。
「リーベル村」
「知らない」
ミレイが言った。
「私もです」
レオも答える。
クララは。
違った。
「リーベル……」
「知っているんですか」
「名前だけ」
「どこで?」
「アデライド様から」
◇ ◇ ◇
記録を読む。
リーベル村。
二十年前。
人口百二十七人。
その村で。
奇妙な事件が起きていた。
ある朝。
村の中央にある古い家から。
一人の老人が消えた。
それだけなら。
失踪事件。
だが。
三日後。
監察官が村へ入った時。
住民たちは。
こう証言した。
そんな老人は最初から住んでいない。
「……何それ」
ミレイが呟く。
「全員?」
「ほぼ全員です」
リアムが答える。
「でも」
記録には。
老人の名前があった。
税の記録。
土地の記録。
近隣の村での証言。
確かに。
その老人は存在した。
「なのに」
ガレスが言う。
「村の奴らだけが存在を否定した?」
「はい」
◇ ◇ ◇
さらに。
監察官が調べると。
村の記録帳から。
老人の名前だけが消されていた。
家には。
別の家族が住んでいた。
住民は。
その家族が昔から住んでいたと証言。
しかし。
近隣の村から来る商人は。
その家族を知らなかった。
「記録と証言」
レオが呟く。
「両方が書き換えられている」
「はい」
リアムが次を読む。
監察官は集団による隠蔽を疑った。
しかし住民の多くに、嘘をついている様子が見られない。
彼らは本当に老人が存在しなかったと信じているように見えた。
「白鴉と同じ」
ミレイの顔が強張る。
「でも二十年前」
「計画が始まる前です」
◇ ◇ ◇
「エリアスは?」
レオが尋ねる。
「この事件に関わっている?」
リアムが頁を確認する。
「名前はありません」
「では」
「これが白鴉の原型?」
「可能性があります」
エドガーの追記。
事件後、監察局内部で本件が研究対象となる。
人間の記憶は、周囲の一致した証言によって変化するのか。
そして。
その二年後。
白鴉。
「つまり」
ミレイが言う。
「白鴉計画そのものが始まったきっかけは」
「この村?」
「そう読めます」
◇ ◇ ◇
「リーベル村は今?」
ガレスが尋ねる。
リアムが続きを探す。
そして。
止まった。
「どうした?」
「ありません」
「何が」
「村が」
全員が見る。
「事件から一年後」
リーベル村――廃村。
「理由は?」
「火災」
「全焼?」
「大部分が」
「住民は?」
「周辺へ移住」
「死者は?」
「記録では三人」
「老人は?」
「最後まで見つかっていません」
◇ ◇ ◇
「クララさん」
レオが尋ねる。
「アデライド王女は」
「なぜリーベル村を知っていたのです」
「エリアスです」
クララが答える。
「彼が話した?」
「はい」
「十九年前」
「私とアデライド様が彼に会った時」
「エリアスは言いました」
クララが。
記憶を辿る。
「人間が一人」
「世界から消えるところを見たことがある」
ミレイの顔が変わる。
「リーベル村の老人?」
「おそらく」
「エリアスは事件当時」
「村にいた?」
「そこまでは聞いていません」
◇ ◇ ◇
「待て」
ガレスが言った。
「エリアスが関わってたなら」
「そいつが老人を消した可能性もあるだろ」
「あります」
レオが答える。
「逆に」
「事件を見て」
「白鴉の考え方を作った可能性もあります」
「どっちだ」
「まだ分かりません」
「本人に聞くしかない?」
「本人が本当に観察者なら」
「はい」
◇ ◇ ◇
その時。
オーウェンが。
四冊目の帳面をめくる手を止めた。
「……これは」
「何です」
「リーベル村」
全員が振り向く。
「また?」
「二年前」
エドガーが。
廃村となったリーベルへ。
もう一度行っていた。
「何のために?」
「分かりません」
オーウェンが読む。
旧リーベル村を再調査。
二十年前の事件について、新たな証言者を発見。
「誰?」
「名前は」
オーウェンが止まる。
「消されています」
「破られてる?」
「いいえ」
黒いインクで。
意図的に塗り潰されている。
「エドガー本人が?」
「筆跡だけでは分かりません」
◇ ◇ ◇
続き。
証言者は当時十二歳。
老人が消えた夜を覚えている。
村人たちが老人を忘れたのは、自然な現象ではないと証言。
「何されたの?」
ミレイが聞く。
次の頁。
村では事件前から奇妙な紙が配られていた。
老人は危険人物である。
老人は村の者ではない。
老人を見ても話しかけるな。
老人について尋ねる者を信用するな。
「……今と同じだ」
ガレスが低く言った。
「はい」
◇ ◇ ◇
紙だけではない。
村の集会。
酒場。
市場。
教会。
少しずつ。
同じ話が広められた。
老人はよそ者。
老人は危険。
老人は存在しない。
「最後のは無理がない?」
ミレイが言う。
「最初から」
レオが答える。
「存在しないと言ったわけではないのでしょう」
「危険な人」
「よそ者」
「村から追い出された」
「もういない」
「そして」
「最初からいなかった」
「少しずつ?」
「はい」
記憶を。
段階的に。
周囲の現実へ合わせていく。
◇ ◇ ◇
「でも」
ミレイが言った。
「全員が忘れるなんて」
「本当にできる?」
「完全に忘れたとは限りません」
レオが答える。
「言われ続けて」
「自分の記憶の方を疑った」
「それが長く続けば」
「最初から勘違いだったと思う人も出る」
「それでも全員は」
「だから」
リアムが言う。
「全員ではなかった」
帳面を指す。
新しい証言者。
当時十二歳。
二十年後も。
覚えていた。
◇ ◇ ◇
「その人」
ミレイが尋ねる。
「今どこにいるの?」
オーウェンが続きを読む。
だが。
次の頁。
破られている。
「ない」
「その先は?」
「三頁分」
「切り取られています」
「誰が?」
「分かりません」
その次に残っていた文章。
たった一行。
E.V.生存の可能性、極めて高い。
「エリアス」
レオが呟く。
そして。
その下。
最終確認には、リーベルへ戻る必要がある。
◇ ◇ ◇
誰も。
すぐには言葉を発しなかった。
エドガーの手紙。
すべてが始まった場所。
白鴉計画のきっかけ。
二十年前の事件。
エリアスが知っていた場所。
そして。
エドガーが。
死の直前に再調査した場所。
「リーベル村」
ミレイが言った。
「そこなのかな」
「可能性は」
レオが答える。
「かなり高くなりました」
「まだ断定しない?」
「はい」
「そこまで揃っても?」
「だからこそです」
「相手が」
「私たちにリーベルへ行かせたがっている可能性もある」
ミレイが。
少し笑った。
「本当に疑うようになったね」
「成長しました」
「それ成長なのかな」
◇ ◇ ◇
その時。
外から。
足音。
「殿下!」
近衛隊長が入ってきた。
「何です」
「王都から伝令です!」
また。
レオたちの表情が変わる。
「今度は?」
「セドリック陛下より」
レオが封書を受け取る。
正式な王印。
封は破られていない。
「読みます」
◇ ◇ ◇
内容は。
短かった。
レオン。
王都で新たな文書が出回っている。
内容は、お前の出生についてだ。
レオの手が止まる。
「来たか」
ガレスが呟いた。
続きを読む。
現時点では王宮から公式発表を行っていない。
だが、噂は急速に広がっている。
文書には、お前が本来のレオンではないという記述がある。
ミレイが。
レオを見る。
「とうとう」
「はい」
隠されていた秘密が。
市民へ向けて。
放たれた。
◇ ◇ ◇
「まだあります」
レオが続ける。
さらに文書は、ノア・ハーディングこそ本来王位を継ぐべき人物だと主張している。
「やっぱり」
ミレイが言う。
「レオとノアを争わせたい?」
「そう読ませる内容ですね」
だが。
最後。
そして、もう一人。
レオが止まる。
文書はオーウェン・クロフォードを、失われた第二王子と呼んでいる。
「俺まで?」
オーウェンが顔を上げる。
「はい」
「三人の王子」
リアムが呟いた。
「市民からすれば」
「誰が本物か分からなくなる」
「違う」
レオが言った。
「何が?」
「誰が本物かを」
「分からなくすること自体が目的です」
◇ ◇ ◇
王位。
血統。
名前。
記録。
証言。
全部。
曖昧にする。
そして。
人々自身に。
答えを選ばせる。
「人間は真実ではなく」
ミレイが。
エドガーの手紙を思い出す。
「信じた現実によって生きる」
「はい」
「その実験を」
「王国全部でやる?」
「おそらく」
◇ ◇ ◇
「王都へ戻るべきです」
リアムが言う。
「噂が広がる前に」
「でも」
ガレスが帳面を指す。
「リーベルもある」
「また二択」
ミレイが呟く。
王都。
リーベル。
今度は。
どちらを選ぶ?
レオは。
しばらく考えた。
そして。
「王都へ戻ります」
「リーベルは?」
「行きます」
「いつ?」
「王都で必要な確認をした後」
「間に合うか?」
「分かりません」
「なら」
ガレスが言う。
「俺が先にリーベルへ」
「駄目です」
レオは即答した。
「なぜ」
「今回は」
「分かれるべきではありません」
◇ ◇ ◇
「どうして?」
ミレイが尋ねる。
「リーベル村は」
「白鴉計画の原点かもしれない」
「エリアス本人がいる可能性もある」
「つまり」
「危険度が分からない」
「はい」
「それに」
レオは帳面を見る。
「敵はずっと」
「私たちが誰と誰に分かれるかまで観察している」
フェルトハイム。
セリーヌ。
穀物倉庫。
北と南。
あの時は。
分かれることで両方を守った。
だが。
同じ答えを。
毎回使う必要はない。
「今回は」
レオが言う。
「一緒に動きます」
◇ ◇ ◇
「オーウェンは?」
リアムが尋ねる。
「王都へ戻ってください」
「俺も?」
「はい」
「治療も必要です」
「それと」
レオはオーウェンを見る。
「あなた自身の口から」
「王族ではないと説明する必要があるかもしれません」
「また?」
「今度は」
「広場で叫ぶのではなく」
「証拠と一緒に」
オーウェンが。
苦笑した。
「俺の人生」
「王子じゃないって証明するためにあるみたいだな」
「少なくとも今は」
「笑えないですね」
「本当にな」
◇ ◇ ◇
「クララさんも」
レオが言う。
「王都へ来てください」
クララの顔が強張る。
「私は」
「十七年間」
「王都から逃げていた」
「はい」
「戻れば」
「エリアスに見つかる」
「もう見つかっています」
クララが黙る。
「半年前」
「あなたの隠れ場所へ手紙が届いた」
「つまり」
「相手はすでに知っている」
「……そうですね」
「それなら」
レオは言った。
「一人で隠れるより」
「私たちと一緒にいてください」
◇ ◇ ◇
クララは。
しばらく迷った後。
頷いた。
「分かりました」
「ただし」
「何です」
「王都へ戻ったら」
「セドリック陛下と」
「直接話をさせてください」
「陛下と?」
「はい」
「エリアスのことを」
「話さなければならない」
「分かりました」
◇ ◇ ◇
廃教会を出る準備を始める。
帳面。
手紙。
鉄箱の資料。
すべて。
近衛の管理下へ。
だが。
リアムが。
鉄箱の底を調べている時。
「待ってください」
「何?」
ミレイが覗き込む。
「底板が」
わずかに浮いている。
外す。
その下。
もう一枚。
薄い紙。
「まだあった?」
「はい」
取り出す。
そこに。
地図。
「これは」
ガレスが見る。
「リーベル村?」
「おそらく」
◇ ◇ ◇
廃村になる前の地図。
家。
井戸。
教会。
畑。
街道。
そして。
村の外れ。
森の中。
一か所だけ。
赤い丸。
「何だ?」
地図の裏を見る。
エドガーの筆跡。
短い。
最初の観察室。
「……観察室?」
ミレイが聞き返した。
「村の中じゃない」
「森の中ですね」
「建物?」
「地図では」
「何も描かれていません」
さらに。
その下。
E.V.は、ここから始めた。
全員の表情が変わった。
◇ ◇ ◇
「これなら」
ガレスが言う。
「かなり確定じゃないか?」
「はい」
レオも。
今度は否定しなかった。
「少なくとも」
「エドガーが言った」
「『すべてが始まった場所』の最有力候補です」
「リーベル村」
「正確には」
リアムが地図を見る。
「リーベル村外れの森」
「最初の観察室」
そこに。
何が残っているのか。
エリアスがいるのか。
それとも。
また。
彼らを誘い込むための。
舞台なのか。
◇ ◇ ◇
レオは地図を折り。
保管袋へ入れた。
「まず王都へ」
「そして」
「リーベルへ向かいます」
ミレイが頷く。
「今度こそ」
「終わりに近づいてる?」
レオは。
少しだけ考えた。
「近づいていると思います」
「珍しく断言した」
「『と思います』を付けました」
「そこ?」
◇ ◇ ◇
その頃。
王都。
中央広場。
一人の男が。
新しい紙を壁へ貼っていた。
そこには。
三人の名前。
レオン。
ノア。
オーウェン。
そして。
その下。
大きな文字。
あなたが「本物の王子」だと思う者を選べ。
男は。
貼り終えると。
人混みへ消えた。
誰も。
気づかなかった。
だが。
広場の反対側。
二階の窓から。
一人の人物が。
その様子を見ていた。
机の上。
開かれた記録帳。
そこへ。
一行。
書き加える。
第四観察――第二段階開始。
そして。
その人物は。
静かに呟いた。
「さあ」
「今度は」
「国民が決める番だ」




