第224話 用意された二択
フェルトハイムへ向かう馬車の中。
ミレイは、何度も膝の上で手を握り直していた。
「ルナとソラは無事なんだよね」
「はい」
レオはすぐ答えた。
「避難先は限られた者しか知らないそうです」
「でも」
「はい」
「自分の目で見るまでは、やっぱり落ち着かない」
「私もです」
ミレイがレオを見る。
「レオも?」
「当然でしょう」
「なんか、レオってこういう時まで平気そうな顔するから」
「平気ではありません」
「顔だけ?」
「……顔だけです」
少し前にもした会話だった。
ミレイはほんの少しだけ笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「セリーヌも」
「はい」
「絶対助けよう」
「必ず」
レオは迷わず答えた。
◇ ◇ ◇
ガレスが、役人から受け取った紙を見ていた。
第一の代替基準点を確保。
「やっぱり、この『代替』ってのが気になるな」
「はい」
リアムも頷く。
「本来の基準点はミレイさん」
「帳簿ではそう記されていました」
「なら」
ミレイが言う。
「私を捕まえられなかったから、代わりにセリーヌ?」
「そうとは限りません」
レオが答える。
「ルナとソラが先に避難したから、その場に残っていたセリーヌを狙った可能性もあります」
「でも」
リアムが続ける。
「それすら、こちらにそう考えさせるための言葉かもしれません」
「……またそれ」
ミレイが顔をしかめる。
「何が本当か分からない」
「だから」
レオは言った。
「現地で確認します」
「まず子供たち」
「次にセリーヌがいなくなった経緯」
「紙の意味は、その後です」
◇ ◇ ◇
日が沈む少し前。
レオたちはフェルトハイムへ到着した。
城門の外から、すでに普段とは違う空気が伝わってくる。
人々が立ち止まり。
小さな集団を作って話している。
馬車が近づくと。
何人かがこちらを振り返った。
「……レオン殿下?」
「戻ってきた!」
「本当に本人か?」
最後の声に。
ミレイが顔を曇らせる。
「そこまで来てるんだ」
「はい」
レオは馬車の扉へ手を掛けた。
「レオ様」
リアムが止める。
「出ます」
「ですが」
「姿を見せない方が、もっと利用されます」
レオは馬車を降りた。
◇ ◇ ◇
「レオン殿下!」
「税は本当なんですか!」
「フェルトハイムを捨てるって!」
「市政局は嘘をついてるのか!」
「本当に殿下なのか!」
質問が一斉に飛ぶ。
近衛が前へ出ようとする。
レオは手で制した。
「復興特別税を命じた事実はありません」
「フェルトハイムを放棄するつもりもありません」
「では何であんな命令書が!」
一人の男が叫ぶ。
「それを調べます」
「また調べるのか!」
「今度は本当に?」
レオは一瞬黙った。
「今の私の言葉だけで信じろとは言いません」
人々の声が僅かに弱まる。
「命令書」
「印章」
「作られた時期」
「誰が受け取ったか」
「一つずつ確認します」
「一つの紙だけで結論を出しません」
「市政局の記録だって偽物かもしれない!」
女性の声。
「はい」
レオは否定しなかった。
「だから複数の記録と証言を照合します」
「その結果は公開します」
ざわめき。
すぐに納得する者はいない。
それでも。
「今日の騒ぎで怪我をした人の治療を優先してください」
レオは続ける。
「ただ抗議へ参加しただけの人まで処罰するつもりはありません」
「暴力や破壊行為は別ですが」
「今夜は一度、家へ戻ってください」
「話し合いは明日でもできます」
少しずつ。
人々が離れ始めた。
完全には収まっていない。
だが。
暴発寸前だった空気は。
僅かに薄れた。
◇ ◇ ◇
市政局へ入ると。
レオは最初に言った。
「ルナとソラのところへ案内してください」
市政局の責任者が頷く。
「こちらへ」
ミレイもすぐ後をついていく。
「安全のため、庁舎内ではありません」
「場所を移しました」
「誰が知っています」
「私と使用人頭」
「護衛責任者」
「それだけです」
「今も?」
「はい」
市政局の裏手から。
さらに細い路地を抜ける。
辿り着いたのは。
普段は職員用の宿舎として使われる、小さな建物だった。
扉の前には自警団員が二人。
レオたちを見ると、すぐ頭を下げる。
「殿下」
「子供たちは?」
「中です」
ミレイが。
ほとんど駆けるように扉へ向かった。
◇ ◇ ◇
「母さま!」
扉が開いた瞬間。
ルナが飛び出してきた。
「ルナ!」
ミレイがしゃがむ。
その胸へ。
娘が勢いよく飛び込んだ。
「母さま!」
「ごめんね」
「ごめんね、怖かったよね」
「うん……」
今まで我慢していたのだろう。
ルナの目から涙が零れた。
「父さまも!」
レオも膝をつく。
「はい」
ルナが片腕を伸ばす。
レオはミレイごと娘を抱き締めた。
「遅くなってごめんなさい」
「ほんとに遅い!」
「すみません」
「もう行かない?」
その問いに。
レオはすぐ答えられなかった。
だが。
「今は、ここにいます」
嘘は言わない。
今この瞬間は。
確かにいる。
◇ ◇ ◇
「おとうしゃん!」
奥から。
今度はソラが走ってきた。
いや。
走ったつもりで、途中でよろけた。
「危ない」
レオが受け止める。
「おとうしゃん!」
「はい」
ソラはレオの胸へ顔を押しつける。
「こわかった」
「……そうですね」
レオの腕に力が入った。
「もう大丈夫」
その言葉を。
言いたくなった。
だが。
まだ大丈夫ではない。
敵は動いている。
だから。
「父さまと母さまが来ました」
「一緒にいます」
それだけを伝えた。
ソラは小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
使用人頭も同じ建物にいた。
レオが立ち上がる。
「二人を避難させてくれて、ありがとうございました」
「当然のことをしただけです」
「それでもです」
「襲撃が始まった時」
「何があったのですか」
使用人頭が答える。
「表から住民が押しかけてきました」
「領主が逃げる前に証拠を見せろ、と」
「何の証拠です」
「荷造り」
「財産の持ち出し」
「王都へ逃げる準備をしている証拠です」
ガレスが顔をしかめる。
「噂を信じて、証拠を探しに来たのか」
「はい」
「敵の姿は?」
「分かりません」
「住民の中に紛れていた可能性はあります」
「子供たちは?」
「最初の窓が割れた時点で」
「裏口から避難させました」
「セリーヌさんは?」
ミレイがすぐ尋ねる。
「その時は、まだ屋敷にいました」
「一緒に避難しなかったの?」
「お誘いしました」
「ですが」
使用人頭は困った顔をする。
「セリーヌさんが」
「私は大丈夫だから、子供たちを先に、と」
「……セリーヌらしい」
ミレイが小さく言った。
「その後です」
「姿が分からなくなったのは」
◇ ◇ ◇
「ルナ」
レオが娘を見る。
「セリーヌさんと何か話しましたか」
「うん」
「何を?」
「お菓子くれた」
「他には?」
ルナは考える。
「母さま、いつ帰ってくるかなって」
ミレイの目が揺れる。
「それから?」
「……あ」
「何です」
「セリーヌお姉ちゃん」
「紙見てた」
全員の表情が変わる。
「どんな紙?」
「分かんない」
「誰かからもらった?」
「うん」
「誰です」
「知らない人」
「いつ?」
「お昼くらい」
「男の人? 女の人?」
「女の人」
ミレイが驚く。
これまでの報告では。
セリーヌを裏庭から連れ出したのは男。
なら。
その前に。
別の人物が接触していた。
「どんな女性でした」
ルナは必死に思い出す。
「帽子」
「何色?」
「茶色」
「髪は?」
「見えなかった」
「何をしていましたか」
「紙渡して」
「すぐ帰った」
「ありがとう」
レオは娘の頭を撫でた。
新しい情報。
セリーヌには。
男と会う前から。
何かが渡されていた。
◇ ◇ ◇
子供たちを再び抱き締めた後。
レオとミレイは市政局へ戻った。
「二人は?」
ガレスが尋ねる。
「無事です」
レオが答える。
「自分の目で確認しました」
「なら次だな」
「はい」
「セリーヌです」
◇ ◇ ◇
屋敷の使用人たちから。
一人ずつ証言を取る。
セリーヌが村から来たのは昨日の昼頃。
目的は。
レオたちがなかなか戻らないため。
ミレイや子供たちの様子を見に来たこと。
その日のうちに帰るつもりだったが。
夕方になったため。
一泊することになった。
「最初に紙を渡した女性を見た人は?」
リアムが尋ねる。
二人が手を上げた。
一人は庭師。
一人は若い使用人。
「女性は屋敷へ入った?」
「いいえ」
「門のところで」
「セリーヌさんを呼んでほしいと」
「名前は?」
「言いませんでした」
「用件は?」
「ミレイさんから急ぎの伝言だと」
ミレイの顔が強張る。
「私から?」
「はい」
「セリーヌさんは疑わなかった?」
「最初は疑っていました」
「ですが紙を見て」
「顔色が変わった」
「その紙は?」
「セリーヌさんが持っていきました」
◇ ◇ ◇
「その後」
今度は屋敷の若い女性使用人が証言する。
「セリーヌさんは客室へ戻りました」
「どれくらい?」
「少しだけです」
「何をしていたか分かりますか」
「分かりません」
「そして襲撃が?」
「はい」
「混乱の中」
「裏庭で男の人と話していました」
「その男は?」
「四十歳くらい」
「茶色い髪」
「普通の服」
「何か持っていましたか」
「紙を」
「セリーヌさんへ見せていました」
「何か聞こえた?」
「『ミレイさんが』と」
「それから」
「セリーヌさんが」
「『どこにいるの』って」
レオとリアムが顔を見合わせる。
二段階。
最初に女性が。
ミレイからの伝言を装った紙を渡す。
その後。
別の男が現れる。
同じ内容を裏付ける。
「別々の人から同じ話を聞かせる」
ミレイが呟く。
「はい」
リアムが頷く。
「一度なら疑う」
「でも二度続けば」
「事実らしく感じる」
「白鴉のやり方です」
◇ ◇ ◇
客室へ向かう。
セリーヌの荷物は残っていた。
小さな鞄。
着替え。
村から持ってきた菓子。
「これ」
ミレイが袋を持ち上げる。
「マリアおばあさんが好きなやつ」
「王都から戻ったら渡すつもりだったのかもしれませんね」
「うん」
ミレイの声が沈む。
ベッドの上。
一枚の紙。
「これです」
使用人が言う。
「先ほど見つけました」
表には。
ミレイへ。
リアムが確認する。
不審な仕掛けはない。
開く。
中には。
セリーヌの筆跡。
ミレイ。
あなたが危ないって聞いた。
本当か分からないけど、確かめに行ってくる。
もし私の勘違いだったら笑って。
レオ様には怒られそうだから、先に謝っとく。
セリーヌ。
「……馬鹿」
ミレイが呟く。
「本当に」
「馬鹿……」
紙を持つ手が震える。
レオは。
何も言わず。
その隣に立った。
◇ ◇ ◇
「この手紙を書いたのは」
リアムが言う。
「最初の女性から紙を受け取った後でしょう」
「はい」
レオも頷いた。
「その時点で」
「セリーヌは、ミレイが危険かもしれないと思い始めていた」
「そこへ男が来た」
ガレスが言う。
「それで完全に信じた」
「おそらく」
「最初の紙は?」
ミレイが尋ねる。
「残ってない?」
部屋を探す。
鞄。
机。
衣服。
ない。
「男へ渡した?」
「持ったまま出た?」
「分かりません」
レオが答える。
「でも」
リアムが窓枠を見る。
「こちらはあります」
細い隙間。
小さく折られた紙。
取り出す。
印刷された文字。
第一の代替基準点は、北へ移動した。
「北」
ミレイが顔を上げる。
「フェルトハイムの北って広いよ」
「はい」
「これだけでは追えません」
その下。
もう一文。
基準点を追えば、領民を失う。
部屋が静まった。
◇ ◇ ◇
「来たな」
ガレスが低く言う。
宿場で渡された問い。
基準点と領民。
同時に守れない時、どちらを選ぶ?
「でも」
レオが言った。
「この紙を信じる必要はありません」
「セリーヌが本当に北へ行った証拠はない」
「まず確認」
ミレイが言う。
「はい」
「北門」
「街道」
「関所」
「馬車」
「目撃者を探します」
「同時に」
リアムが続ける。
「『領民を失う』が何を意味するのか」
「市内の警戒も必要です」
◇ ◇ ◇
ロイドと自警団へ連絡を回す。
ただし。
大規模に配置を変えない。
「敵はこっちがどう動くか見てる」
ロイドが言う。
「そう考えています」
「なら今ある配置を基本にする」
「お願いします」
「重点は?」
「穀物倉庫」
「水場」
「市政局」
「橋」
「火災が起これば被害が大きい場所」
「分かった」
「ただし」
レオは言う。
「異常がなくても、人員を一か所へ集めすぎないでください」
「囮の可能性がある」
「ああ」
◇ ◇ ◇
一時間後。
北門から報告が入った。
「見つかりました!」
役人が駆け込む。
「何を?」
「今日の午後」
「セリーヌさんに似た女性を乗せた馬車が北門を出ています」
ミレイが立ち上がる。
「本当に?」
「門番が覚えていました」
「なぜ?」
「右後輪が傷んでいて」
「通行の際に確認したそうです」
「女性は?」
「車内に」
「顔は?」
「一瞬だけですが」
「セリーヌさんと同じ髪色の若い女性だったと」
「他の証言は?」
「北門近くの露店商も見ています」
「馬車は?」
「灰色の幌」
「二頭立て」
「御者は男一人」
「右後輪に傷」
ガレスが立つ。
「追える」
「はい」
レオも頷いた。
「少なくとも」
「北へ向かったという情報は、敵の紙だけではなくなりました」
◇ ◇ ◇
その直後。
鐘が鳴った。
一度。
二度。
激しく。
「何!?」
ミレイが窓へ向かう。
「火事だ!」
ガレスが叫ぶ。
窓の外。
フェルトハイム南側。
赤い光。
煙。
「場所は?」
役人が窓から確認する。
「南の穀物倉庫です!」
全員の表情が変わった。
穀物倉庫。
街の食料備蓄。
焼ければ。
住民への影響は大きい。
そして。
紙には。
基準点を追えば、領民を失う。
「……本当に起こした」
ミレイが呟く。
北。
セリーヌ。
南。
穀物倉庫。
完全な逆方向。
◇ ◇ ◇
「殿下!」
役人が叫ぶ。
「どうします!」
レオは一瞬。
目を閉じた。
北へ行けば。
セリーヌを追える。
南へ行けば。
住民の食料を守れる。
敵が。
用意した二択。
「ガレス」
「おう」
「北へ行ってください」
ミレイがレオを見る。
「レオは?」
「南です」
「それって」
「分かれます」
「敵の狙い通りじゃない?」
「相手が選ばせたいのは」
レオは答えた。
「セリーヌか領民かです」
「私は」
「どちらも捨てません」
「でも」
リアムが言う。
「人員は分かれます」
「だから」
レオは続ける。
「誰も一人にはしない」
「ガレスには護衛の半数を」
「北門から馬車を追う」
「無理に救出はしないでください」
「まず確認」
「セリーヌ本人か」
「敵の人数」
「罠の有無」
「危険なら追跡だけでいい」
「分かった」
◇ ◇ ◇
「私とミレイ」
「リアム」
「残りの護衛は南へ」
「穀物倉庫の消火と」
「周辺住民の避難を優先します」
「ミレイさんも?」
リアムが尋ねる。
「はい」
「私は?」
ミレイが自分から聞く。
「一緒です」
「北へ行かなくていいの?」
「セリーヌさんを餌に」
「あなたを北へ誘導したい可能性もあります」
「だから?」
「私から離さない」
「……またそれ?」
「今回は理由があります」
「いつもあるって言うじゃん」
「ありますから」
◇ ◇ ◇
ガレスが馬へ向かう。
「レオ!」
「はい!」
「これが三つ目だ!」
レオは。
一瞬だけ笑った。
「はい!」
敵の答えは。
二つ。
どちらかを捨てる。
だが。
仲間へ任せるという選択肢は。
その中にはない。
一人で全部を抱え込まない。
それが。
今のレオが選ぶ。
三つ目だった。
◇ ◇ ◇
ガレスたちは北へ。
レオたちは南へ。
二組が逆方向へ走り出す。
南の空は。
赤く染まり始めていた。
「レオ」
馬上でミレイが呼ぶ。
「はい」
「セリーヌ、大丈夫かな」
「ガレスがいます」
「うん」
「信じましょう」
それは。
自分へ言い聞かせる言葉でもあった。
◇ ◇ ◇
一方。
フェルトハイム北方。
灰色の幌馬車。
その中。
セリーヌは。
縛られてはいなかった。
意識もある。
だが。
顔は青ざめていた。
向かいに座る男を見つめる。
「本当に……」
セリーヌが言う。
「本当にミレイが危ないの?」
「はい」
男は穏やかに答えた。
「あなたにしか助けられません」
「でも」
「どうして私なの?」
「あなたが」
男は微笑んだ。
「彼女の古い友人だからです」
セリーヌは唇を噛む。
「最初に来た女の人も」
「同じこと言ってた」
「なら」
男は優しく言う。
「信じる理由になりますね」
セリーヌは。
その言葉に。
何も返せなかった。
膝の上には。
一枚の紙。
ミレイの筆跡によく似た文字。
セリーヌ、助けて。
そして。
男の足元。
セリーヌからは見えない場所には。
別の紙が置かれていた。
第四観察。
代替基準点――認識形成、第二段階へ。
馬車は。
さらに北へ進んでいく。




