第219話 王は知っていたのか
夜の王宮。
セドリック王の執務室へ続く廊下を、レオたちは無言で歩いていた。
先頭には近衛。
その後ろをレオとミレイ。
ガレス、リアム。
そしてノアとアルバート・ハーディング伯爵。
誰も口を開かない。
ノアは普段と変わらない顔をしているように見えた。
だが、右手は強く握られていた。
「ノア」
レオが小さく呼ぶ。
「大丈夫です」
「そうは見えません」
「では、訂正します」
ノアは前を向いたまま答えた。
「大丈夫ではありません」
「でも行きます」
「分かりました」
それ以上は言わなかった。
自分が誰なのか。
十七年間信じてきた名前さえ、本当のものではなかった。
その直後に。
自分の伯父かもしれない国王と会う。
平静でいられる方がおかしい。
◇ ◇ ◇
執務室の前に到着した。
近衛が扉を叩く。
「レオン殿下をお連れしました」
「入れ」
セドリック王の声。
扉が開く。
王は大きな机の向こうにいた。
だが一人ではない。
グレイストーン公爵。
そして。
「ヴィクター?」
レオが驚く。
グレイストーン邸に残してきたはずのヴィクターがいる。
「なぜここに?」
「私が連れてきた」
グレイストーンが答えた。
「理由は後で話す」
セドリック王の視線は。
レオではなく。
その後ろに立つノアへ向けられていた。
長い沈黙。
「……ノア」
王が呼ぶ。
「はい、陛下」
いつもの返事。
書記官としての返事だ。
「近くへ」
ノアは一瞬迷い。
前へ進んだ。
◇ ◇ ◇
セドリック王は立ち上がった。
机を回る。
ノアの前まで来る。
「顔をよく見せろ」
「陛下?」
「いいから」
ノアが顔を上げる。
王は黙って見つめた。
額。
目。
鼻。
そして。
耳の後ろ。
そこへ視線が止まる。
「髪を上げろ」
ノアが戸惑いながら従う。
右耳の後ろ。
小さな痣。
三日月のような形。
王の表情が崩れた。
「……生きていたのか」
ノアが息を止める。
「陛下」
「私をご存じなのですか」
セドリック王は答えなかった。
代わりに。
目を閉じた。
「陛下」
レオが呼ぶ。
「説明してください」
「……そうだな」
王はゆっくり椅子へ戻った。
「もう隠す理由はない」
「では」
「ノアはアデライド王女の息子なのですか」
王はレオを見る。
「そうだ」
短い答えだった。
◇ ◇ ◇
ノアは動かなかった。
「では」
声だけが僅かに震える。
「私は」
「陛下の甥だ」
セドリック王が答えた。
「母は」
「アデライドだ」
「父は?」
「……知らない」
「陛下も?」
「あいつは最後まで私にも言わなかった」
ノアは俯いた。
ミレイが何か言いかけたが。
止めた。
今は。
ノア自身が聞くべき時間だ。
「私の名前は」
「それも」
セドリック王は一度言葉を止める。
「ノアではない」
「では何です」
「ルシアン」
ノアの目が見開かれる。
「ルシアン・アーデル」
「アーデル?」
レオが聞き返す。
「王家の直系ではなく、王族近親者に用いられていた家名だ」
「アデライドは、自分の息子を王位争いから遠ざけたがっていた」
「なのに王位継承順位第三位だった?」
ガレスが尋ねる。
セドリック王が苦い顔をする。
「私が認めた」
「なぜです」
レオが尋ねる。
「当時」
「王家の継承は不安定だった」
「私に何かあれば、国が割れる可能性があった」
「だから血統を明確にする必要があった」
「アデライドは反対した」
「だが私は」
王は拳を握る。
「国のためだと言って、押し切った」
◇ ◇ ◇
「その結果」
ノア――ルシアンが静かに言った。
「私は白鴉計画の対象になった?」
王の顔が変わる。
「白鴉計画?」
「ご存じないのですか」
レオが尋ねた。
「名前は知っている」
「だが詳細は知らない」
「監察局が極秘に調べていた案件だったはずだ」
「対象017は?」
王は首を振る。
「知らない」
レオはリアムを見る。
反応だけで真偽は判断できない。
「では」
レオは続けた。
「十七年前、ルシアンが突然記録から消えた理由をどう認識していたのです」
王の顔が強張る。
「死んだと聞かされた」
ノアが顔を上げた。
「誰から?」
「監察局だ」
マリアの言葉が蘇る。
監察局には。
王族の存在を勝手に消す権限などない。
「具体的に誰です」
「報告書だった」
「署名は?」
「……覚えていない」
「確認できますか」
「その報告書は残っていない」
「なぜ」
「監察局が消えた夜」
「関連文書の多くが失われた」
◇ ◇ ◇
「陛下」
アルバート伯爵が初めて口を開いた。
「私は十七年前、クララ・ウェルズからこの子を預かりました」
王の目が見開かれる。
「クララが?」
「はい」
「王族から消さなければ殺されると」
「監察局の協力を得ているとも」
セドリック王は額へ手を当てた。
「そういうことだったのか……」
「クララを知っていますね」
レオが尋ねる。
「当然だ」
「アデライドが最も信頼していた侍女だ」
「王女の死後も?」
「ルシアンの世話をしていた」
「では」
ミレイが思わず口を開く。
「王女様が亡くなった後、ルシアンを育てていたのはクララさん?」
「そうだ」
「どこで?」
「王宮の離れだ」
「表向きは王族として扱っていなかった」
「でも祝典には出した」
ミレイの言葉に、王は苦い顔をした。
「私の判断だ」
「それで第三席に?」
「ああ」
十七年前の春の祝典。
第三席。
陛下の甥。
下絵の記述とも一致する。
◇ ◇ ◇
「祝典の後、何があったのです」
リアムが尋ねた。
「脅迫状が届いた」
「誰宛てに?」
「私だ」
「内容は?」
セドリック王は少し考え。
「ルシアンを王位継承者から外せ」
「従わなければ?」
「殺す、と」
「犯人は?」
「分からなかった」
「監察局に調査させた?」
「そうだ」
「その直後」
王はノアを見る。
「ルシアンが消えた」
「そして数日後」
「死亡したとの報告を受けた」
「遺体は?」
レオが尋ねる。
「見ていない」
「なぜ確認しなかったのです」
王が黙る。
「陛下」
「……遺体は損傷が激しく、確認できないと」
「それを信じた?」
「当時は」
ガレスが顔をしかめた。
「随分都合のいい話だな」
「ガレス」
「いや」
王自身が止めた。
「その通りだ」
「私は信じたかったのかもしれない」
「何を?」
「もう狙われる子供はいない、と」
重い沈黙が落ちた。
◇ ◇ ◇
「でも」
ミレイが言う。
「陛下は今、ノアさんを見てすぐ分かったんですよね」
「ああ」
「今まで何度も王宮で会ってたんじゃないんですか?」
核心だった。
ノアは王宮書記官。
セドリック王の近くで働いている。
今日が初対面ではない。
「それは私も聞きたいです」
ノアが王を見る。
「私は三年前から王宮で働いています」
「陛下とは何度もお会いしています」
「なのに」
「なぜ今日まで気づかなかったのです」
王は答えられなかった。
「顔を見れば分かる」
「痣を見れば確信できる」
「なら」
「なぜ?」
ノアの声に怒りが混じる。
「……似ていると思ったことはある」
王がようやく答えた。
「誰に」
「アデライドに」
「では!」
「だが、死んだと思っていた!」
王の声が響く。
「十年以上前に死んだ甥と」
「ハーディング伯爵の息子を結びつける理由が、私にはなかった!」
王は息を整える。
「痣も」
「今夜初めて確認した」
「なぜ今夜は確認したのです」
レオが尋ねる。
セドリック王が。
黙った。
そこだ。
◇ ◇ ◇
「誰かから知らされたのですね」
リアムが言った。
「ノアがルシアンかもしれないと」
「……ああ」
「誰から?」
王は机の引き出しを開けた。
一枚の紙を取り出す。
「今夜」
「これが執務室に置かれていた」
レオが受け取る。
短い文章。
陛下。
十七年前に死んだ甥は生きています。
今夜、西棟書庫へ。
その下。
右耳の後ろを確認してください。
署名はない。
鳥の印もない。
「誰が置いたかは?」
「分からない」
「執務室へ入れる人間は?」
「多くはない」
「調べさせています」
「だから私を呼んだ?」
「レオが西棟へ向かったと聞いた」
「ノアもいると」
「それで」
レオは紙を見る。
まただ。
誰かが。
全員を同じ場所へ動かしている。
ノアに紙を見つけさせ。
レオを呼ばせ。
王へ情報を与え。
十七年前の真実を表へ出す。
「相手の目的は」
ミレイが言う。
「ノアさんに自分が王族だって知らせること?」
「その可能性はあります」
レオが答えた。
「ですが、それだけなら」
「もっと簡単な方法がある」
リアムが続ける。
「なぜ私たちに調べさせる必要があったのか」
◇ ◇ ◇
「私からも話すことがあります」
ヴィクターが突然言った。
「それでここに?」
レオが尋ねる。
「はい」
「グレイストーン卿へ相談しました」
「何を思い出したのです」
「オーウェンです」
全員の表情が変わる。
「以前、オーウェンが言っていた」
ヴィクターは慎重に記憶を辿る。
「王宮には」
「王自身も知らない王族がいると」
ノアが目を伏せる。
「やはりオーウェンは知っていた」
リアムが言う。
「それだけではありません」
「もう一つ」
「『王位は、血だけで決まるものではない』」
「『だが血を使えば、国は簡単に割れる』」
セドリック王の表情が険しくなる。
「いつの話だ」
「三か月ほど前です」
「誰に向かって?」
「私です」
「なぜそんな話を?」
「分かりませんでした」
「その時は」
「ただの昔話だと思っていました」
オーウェン。
白鴉計画。
対象017。
王位。
線が繋がり始める。
◇ ◇ ◇
「まさか」
アルバート伯爵が呟く。
「何です」
レオが見る。
「狙いは」
「ノアを王族へ戻すことではない」
伯爵は青ざめていた。
「王位継承争いを作ることでは?」
誰も答えない。
現在。
レオは王子。
王位継承に関わる立場。
そこへ。
十七年前に消された王族が現れる。
しかも。
かつて王位継承順位第三位だった人物。
「ですが」
リアムが言う。
「十七年前の順位が、そのまま現在の権利になるわけではありません」
「もちろんだ」
王が答える。
「正式な手続きが必要になる」
「それでも」
レオが続けた。
「噂だけなら十分です」
隠された王族。
死んだとされた王の甥。
王宮に潜んでいた本当の継承者。
そんな話が広がれば。
真実がどうであれ。
人は動く。
「MIREI……」
ミレイが呟いた。
全員が彼女を見る。
「現実整合」
「本人に思い込ませるだけじゃなくて」
「周り全部を、その嘘に合わせる」
「はい」
レオが頷く。
「今回も同じかもしれません」
「ノア本人が王位を望んでいなくても」
「周囲が『あなたこそ王になるべきだ』と言い始めれば?」
ノアの顔が強張る。
「私は望みません」
「分かっています」
レオは即答した。
「今のあなたがそう考えていることは」
「ですが白鴉計画は」
「その『今のあなた』を信用できなくさせる」
ノアは何も言えなかった。
◇ ◇ ◇
「なら」
ガレスが言う。
「今夜のことを外へ出さなきゃいい」
「当面はそれがいいでしょう」
リアムが答える。
「ここにいる者だけで情報を止める」
「近衛は?」
レオが王を見る。
「ノアがここへ来たことは知っています」
「だが出生の話は知らない」
「なら口外禁止を」
「すぐ命じる」
「それと」
レオはノアを見る。
「今夜はハーディング邸へ戻らない方がいい」
「なぜです」
「エイブラムさんが連れていかれた建物で、ハーディング家の紋章を見ています」
伯爵が驚く。
「何の話だ」
レオは簡潔に説明した。
地下室。
「殿下」と呼ばれる二十代後半の男。
本人は王族ではないと否定していたこと。
そして三本の麦穂の紋章。
「それはノアではない」
伯爵が即座に言った。
「なぜ断言できます」
「その頃、ノアは王宮にいた」
ノアも頷く。
「勤務記録があります」
「では別人?」
ミレイが言う。
「そうなります」
レオの背筋に冷たいものが走った。
彼らは。
大きな思い違いをしていた可能性がある。
◇ ◇ ◇
「待ってください」
リアムも気づいた。
「エイブラムさんが見た男性を」
「私たちは対象017かもしれないと考えた」
「でも」
「ノアが対象017なら」
「地下室にいた『殿下』は誰?」
ミレイが続ける。
そうだ。
二十代後半。
周囲から殿下と呼ばれ。
本人だけが。
私は王子ではない。
そう否定していた男。
「偽物の対象017を作っている?」
ヴィクターが言った。
レオは首を振る。
「まだ分かりません」
「ですが」
MIREI。
現実整合。
もし。
ある男の周囲にいる全員が。
お前は王族だ。
お前こそ正統な継承者だ。
そう言い続けたら。
本人はいつまで否定できる?
「二人いる」
ガレスが言った。
「本物かもしれないノアと」
「王族だと思わせようとしている別の男」
「なぜ?」
ミレイが尋ねる。
レオは答えられなかった。
その時だった。
執務室の扉が激しく叩かれた。
「陛下!」
「何事だ」
「城下で騒ぎが!」
近衛が入ってくる。
「何があった」
「号外が配られています!」
レオの顔色が変わる。
「内容は?」
近衛は一瞬躊躇した。
「王家が」
「十七年間隠していた王子が生きていると」
ノアが息を呑む。
「もう広がった……」
リアムが呟く。
「名前は?」
レオが尋ねた。
「それが」
近衛の答えに。
全員が凍りついた。
「ノア・ハーディングではありません」
「では誰です」
近衛は一枚の号外を差し出した。
大きな見出し。
消された王子、生存。
その下。
一人の男の名。
レオはその名前を見つめた。
知っている。
これまで何度も。
白鴉計画を追う中で聞いてきた名前。
そして。
現在、行方が分からなくなっている人物。
そこには。
こう書かれていた。
王家の正統なる血を継ぐ者――オーウェン・クロフォード。
ミレイが息を呑む。
「オーウェンが……王子?」
「違います」
レオは即座に答えた。
「少なくとも」
「今ある証拠は、それを示していない」
本物かもしれない王族は。
ここにいる。
ノア。
いや。
ルシアン・アーデル。
だが城下では。
別の男が「消された王子」として広まり始めている。
レオは号外を握った。
白鴉計画の狙いが。
ようやく見えた。
真実を隠すことではない。
真実と偽物を同時に出す。
どちらが本物か。
誰にも分からなくする。
そして。
国全体を。
巨大なMIREI段階へ入れる。
レオは顔を上げた。
「始まりました」
十七年前の実験が。
今度は一人ではなく。
王国そのものを対象として。




